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死神シアター  作者: とよきち
シザー・ハート
14/14

第三話 『落書きの城』


 朝の青空はどこへやら、夕方の空は灰色の雲に我が物顔で占領されていた。

 カビ臭い雨の匂いが鼻をつく。風はなくて、湿気をはらんだ生ぬるい空気は自転車を漕いでも漕いでもまとわりついて、ストーカーよろしくべったりくっつき離れようとはしない模様。しつこい男は嫌われるというのをわかっていないらしい。

 僕はハンドルに寄りかかるように両腕を乗せながら、ふぅ、と小さくため息をつく。

 その微かな音を聞きつけたのか、前を自転車で走る鯉口さんが反応して首だけ振り返った。猫のような無表情な瞳で睨まれる。

「ついてこないで下さい。しつこい男は嫌われますよ」

「……あはは」

 まったくまったく、仰る通りで。

 ぷいとまた顔を前に向けてしまう鯉口さん。口数は少ないものの、ぴしっと伸ばされたその背中から禍々しい怒りのオーラがバシバシ吹きだしているのがわかる。ただし、彼女が小柄なせいかやけに自転車が大きく見えて、ちょっと面白い絵面になっているけれど。

 あの後、教室で僕の犯行を目の当たりにした鯉口さんの行動は素早かった。

 電光石火の勢いで僕の手からプリクラ帳をもぎとって、机の中にあった教材もろともバッグに放りこむと一目散に教室を出て行ってしまった。スライド式のドアが勢いよく閉められた瞬間、教室にぽつぽつ残っていたクラスメイトたちが凍りつくのは無理もない。

 思い出して苦笑して、僕は視線を右に、曇天の下に広がる暗い緑をした田んぼを眺める。するとその奥で、少し面白いものを見つけた。

「鯉口さん、鯉口さん。ほら、見てごらん」

「話しかけないで下さい」

 そう言いつつも彼女も気になったのだろう、さりげなく視線を右に向けているのが後ろからでもわかった。その証拠に、不機嫌そうに僕に声を投げかけてくる。

「何もないじゃないですか」

「あるってば。ほら、アレだって」

 僕は遠くのほうを指さした。

 田んぼの広がる、そのずっと向こう。

 どこまでも続く曇天の隙間から、日の光がこぼれ落ちているその場所を。

 空から数本の柔らかな光が斜めに差している。まるで一枚の絵画のように。そうすると灰色の雲も暗い緑をした田んぼも、不思議にどこか油絵のように見えてくる。タイトルをつけるとしたら、そうだな。『希望の光』――とかがいいかもしれない。

「光のカーテン。ちょっとした絵画みたいだよね」

「……は?」

「うわっ」

 思わず声を上げたのは、彼女が急ブレーキをかけたからだ。

 真後ろを走っていた僕はぶつかりそうになる。ギリギリでハンドルを切り、済んでのところで鯉口さんの隣に並ぶように停止した。彼女はぽかんとした顔を僕に向け、それから光のカーテンを見て、また僕を怪訝な表情で見つめてくる。

「危ないじゃないか、もう」

「あなた、本当に変人なんですね」

「いや前も言ったけど、僕は変人じゃなくて啓人だから。愛馬啓人」

「知ってますよ。でも、変人ですよね」

「だから――」

 言いかけて、僕は諦めてため息をついた。

 彼女の中では僕は愛馬変人で定着してしまったらしい。というか、そういう鯉口さんだって人のことを言えないじゃないか。 

 彼女の自転車カゴに入っている手提げバッグを僕は見る。その中に入っているだろうプリクラ帳は、彼女の特異性を充分に示しているものだ。 

「……ねぇ鯉口さん、どうして『切り抜き』をするようになったの?」

 彼女の肩がびくんと揺れる。さぁ、と見る見るうちに顔が堅くなっていく。

「あなたには関係ありません」 

「でも、あれは歴とした」

「そうですね、犯罪です。見つかれば器物損害で私は警察に捕まるでしょう」

「わかってるならどうして」

 鯉口さんはムッとして、自転車を押して歩き始めた。

「だから、あなたには関係ありませんって言ってるじゃないですか。誰かに言いたければ言えばいいです。ほっといて下さい」

「鯉口さん!」

 僕も慌てて後を追う。

 すぐに追いつくもしばらくお互い無言になり、自転車に乗ることもなくただ二人歩きながら沈黙だけが過ぎていく。さやさやと苗の葉の擦れ合う涼やかな音が、カチャカチャと二つの車輪の回る寂しげな音が混じりあって、やけに耳に響く。

 この場合、どうしたらいいのだろう?

 たしかに僕が首を突っこんでいいような件でもなさそうだけれど、だからといってこんな今にもどこかへ消えてしまいそうな彼女を見捨てることもできない。頼りにしているような友人もいなさそうだし、親にもきっと言っていないだろう。たとえ僕が踏みこんでいったとしても、きっと彼女は頑として心を開かないのは目に見えている。

 ……でもま、それは正面から踏みこんだ時の話だけれど。

 僕はその場で立ち止まる。それに気づかずどんどん先へ進んでいく彼女に、少し声を張り気味に僕は言った。

「ねぇ、大きな城のある広場は知ってる?」

 彼女は振り返って不機嫌そうに眉をひそめた。

「知ってますけど。それが何か?」

「よかった。じゃあ今日の夜の九時にそこで待ってるね」

 ふぁい? と可愛らしく素っ頓狂な声をあげる鯉口さん。

 僕はすかさず自転車に乗ってペダルを漕いで、彼女の横を通り過ぎるその瞬間、自転車のカゴに入っていた彼女のバッグをひょいと掴み上げた。そのまま自分のカゴの中に突っこんで、ハンドルを両手でしっかり握って前を向く。ペダルを力強く踏みつけてスピードを上げる。呆然と立ち尽くす鯉口さんを一気に置き去りにする形で。

 ギアを切り替えて、さらに加速。

 全速前進。この生ぬるい空気を振り払わん!

 小石をぎっしり敷き詰めたような曇天の空に、彼女の絶叫が響き渡った。


     ◆


 シザー・ハンズ。

 文字通り、『ハサミの両手』を持つ男の切ない恋を描いた恋愛映画だったと思う。

 一年くらい前に家族と見たから朧気だけど、たしかこんな話だった。 

 おどろおどろしい古城でたった一人住んでいた男は、亡くなった博士が作り出した、いわゆる人造人間。だけど後もう少しで完全な人間になれたところで博士が死んでしまい、両手だけはハサミのままになってしまった過去を持つ――心臓がクッキーでできた無垢な青年。

 やがて彼は一人の可憐な少女に出会い、そして初めての恋に落ちるけれど、その両手の鋭いハサミによって大切な彼女やその家族を傷つけてしまう。挙げ句の果てに彼は彼女を守るために人を殺してしまうのだ。

 ――そんな青年が、なぜだか鯉口さんと重なって見えた。

 どうしてだろうと少し考えてみると、心当たりがなくもなかった。

 大好きな彼女を傷つけてしまう彼と、胸に抱きしめるほど好きな本を切り抜いてしまう鯉口さん。意味合いは違うかもしれないけれど、行為そのものはとても似ているのだ。

 午後八時五五分。夜中の広場は少し蒸し暑かった。

 僕はその中にある例の青い城の遊具の二階に登っていた。滑り台の入り口に腰をかけて辺りを見回すもまだ人が来る気配はない。

 こうして眺めていると、木々が広場全体を囲んでいるのがよくわかる。小さなゴーカート場やアスレチック、赤い屋根の小さな会館やちょっとした東屋が見えた。お城の近くには落書き禁止の看板が立てられている。

 そこかしこに身を潜めている鈴虫の虫の音や、すぐ近くにある田んぼから聞こえてくる蛙の合唱に耳をすますと心地良かった。ただ床が堅いのでさっきからお尻が痛い。携帯で確認すると後数分で九時を回るので、もうまもなくだろう。

 僕はひったくった彼女のカバンの中を漁り、例のプリクラ帳を取り出していた。開いて携帯のライトで照らすといくつもの顔が浮かび上がってくる。

 モンゴメリ。

 ポール・ギャリコ。

 ツルゲーネフ。

 それだけでなくて、ジッドやドストエフスキー、サン・テグジュペリ、それにルイス・キャロルにエミリー・ブロンテと、ネットで調べた限りどれもこれも有名な作品を手がけた作家のプロフィール写真がずらりと並んでいた。

 パラパラとページを戻していくと、モノクロからカラフルに、鯉口さんとその友達が写ったプリクラが現れる。見慣れない彼女の笑顔はやっぱり眩しくて、ついついまじまじと魅入ってしまう。けれど視界の端に、少し気になるものが映りこんだ。

「……ん?」

 他の写真と同じで鯉口さんとその友人が、ツーショットで並んでいる写真。

 なんだけれど、僕はそれがどうにも気になった。というのも鯉口さんの表情が強ばっているだとか、ポーズが他のと違うだとか、そういう類いのものじゃない。

 むしろ鯉口さんじゃなくて、問題はその隣の友人のほう。

 金髪で小柄な少女だった。白いフリルつきのシャツの上に黒のワンピースを着ていて、どこかクラシックな印象を持つ女の子。悪戯っぽい黒く大きな瞳がこちらを覗いている。

 ……なんだろう。写真越しの視線に当てられたからか、不思議な感覚に包まれた。初めて見る顔のはずなんだけれど、初めてではないような――そう、まるで昔からこの子のことを知っているような。

 指の腹でそれをなぞっていると、よくよく見れば名前が書いてある。鯉口さんの胸のあたりには『エナ』と書かれていて、そして、隣の友人のほうには――

「……『ネネ』?」

 そう、書かれてあった。

 口に出した瞬間どこか懐かしい気持ちに襲われた。病院から処方された薬が、子供の頃によく食べていた駄菓子の味にちょっと似ていた時のような。口の中で転がしたほんの二文字の言葉は、たしかにそんな味がした。

「ちょっと!」

「わっ」

 いきなりの怒声に思考が遮られる。

 慌ててキョロキョロと発生源を探ってみると……いた。滑り台の出口に女の子が一人立っていた。ふと思って携帯で時間を確認すると、九時ジャスト。やっぱり彼女は几帳面な性質を持っているようだった。

 僕は努めて平静になり、手をあげて笑いかけた。

「こんばんは、鯉口さん」

 来訪者はもちろん、鯉口江奈その人だ。

 頭を垂れたような街灯が広場にぽつぽつ設置されてはいるけれど、彼女の薄い影を作るだけではっきりと顔は見えない。だけど今日の夕方と同様、制服姿の彼女からは禍々しい怒りのオーラがバシバシと伝わってくる。猫のような無表情な目が今にも光りそうだった。

「一体どういうつもりなんですか? 私の大事な鞄とプリクラを盗んで、こんな夜中にこんな場所に呼び出したりして。まさか、この場で私を襲うつもりですか」

「さすがにそこまではしないよ」

 軽く返すと、威嚇態勢をとっていた彼女が怯えたようにびくりと震えた。

「そこまでって。……じゃあ、私に何かするつもりではあるんですか?」

「ん? ああ違う違う。誤解させちゃったね。僕はもう充分鯉口さんに悪事を働いたから、これ以上のことはしないよって意味だから」

 彼女は小首を傾げた。

「何が言いたいんですか」

「これで君と対等な立場になったって言いたいんだ」

 僕は即答する。よっこらせ、とその場で立ちあがり、お尻を手で払った。

「鯉口さんは、お店の本を切り抜いたところを僕に見られて負い目を感じていたでしょ? あのままじゃ仲良くなれないと思ってね。それなら同じ条件になればいいと考えたんだよ。フェアな立場になれば僕たちの関係も少しは」

「ち、ちょっと待って下さいっ」

 と鯉口さん。珍しく動揺した声だった。

「まさか、それだけのために私の鞄を盗んだんですか? そんな馬鹿みたいな理由で」

「失礼だなぁ。可愛い女の子とお近づきになりたい理由で、あの手この手と画策する男子なんていくらでもいると思うよ?」

「どうでもいいです」

 バッサリだった。少し間を置いて、彼女はまだわからないという感じで僕に聞いてくる。

「でも、どうしてここに? それもこんな時間に」

「よくぞ聞いてくれました」

 僕は頷き、おいでおいでと彼女に手招きをした。

「一階の中に梯子があるから、そこから登っておいで。面白いものを見せてくれたお礼っていうのもなんだけど、君にいいモノを見せてあげるから」


 昔、このお城の遊具は恋愛成就のちょっとした聖地だった。

 メルヘンチックな雰囲気を持つからだろう、そのお城に自分と自分の好きな人の名前を刻むと両思いになれる――そんな噂がまことしやかに学生たちの間に流れていた。中には単純に落書き目的でくる輩もいて、それはどんどん過剰にエスカレートしていく一方で、お城を守るといって一時期そこで過ごしていた子供もいたとかいないとか。最終的にはペンキでまるごと塗り替えられた上に『落書き禁止』の看板が立って、以降ぱたりとなくなったと聞いている。

 僕はそんな経緯を持つ二階の石の壁に手をついた。ひんやりとして気持ちいい。

「この薄いペンキの内側に、今もたくさんの片想いの印が眠っていると思うと少しせつなくなるよね。このお城もすっかり寂れちゃって、体裁を気にして落書きを禁止しなきゃそうはならなかったかもしれないのに」

「どこも今はそうなってますよ。そもそも公園も広場も、子供がお家でゲームばかりしているから寂れていく一方です」

 感情のこもらない声で鯉口さんは言った。いつでも逃げれるようにか、一階へと続く梯子の柵に手をかけながら。不審な動きを一つでもすれば猫のようにさっと逃げ出してしまうだろう。

 だから僕は、なるべく優しく諭す調子で彼女に言った。

「秘密があればそうでもないと思うけどね。ドキドキワクワクするような、そんなちょっとした秘密があればまた公園に子供たちは戻ってくるはずだよ」

「秘密って、たとえば何ですか?」

「んー、ちょっといけない遊びとか」

「……最っ低ですね」

 鯉口さんの眉間に皺が寄ったので、僕は慌てて身振り手振りで否定する。

「あ、いや、ソッチじゃなくて。もう少し健全な遊びのほうだよ?」

「え」

 ぽかんと彼女は口を開ける。意外とおませさんかもしれない。

「じ、じゃあ一体どんな遊びなんですかっ」

 ごまかすように顔を赤くして反発してくる。 

 僕は笑いそうになるのを必死にこらえながらズボンのポケットに手を突っこんだ。

「たとえば、これとかね」

「それは?」

「百円ショップで買ったペンだよ。はい鯉口さん」

 ポケットからとり出したそのペンを、ぽいっと彼女に軽く放り投げる。だいぶ夜目には慣れてきたこともあって危なげもなくキャッチした。受け取ったそれをまじまじと見て、彼女は訝しげに聞いてくる。

「……まさか、これで落書きをしようって魂胆じゃないですよね?」

「そのまさかだよ」

「表に『落書き禁止』って看板が出ていたと思いますが」

「それは景観を保つためであって、そのペンで書く分には問題ないはずだよ」

「?」

 首を傾げる鯉口さんが可哀想に思えてきたので、そろそろ種明かしをすることにした。

「そのペン先から出る液体は無色透明なんだよ。で、その反対側に何かついてるでしょ?」

 彼女はペンの頭についていたボタンをカチカチと押して、その先端から青白い光が出ることを確認する。

「これがどうしたんですか」

 疑問はごもっとも。そこで僕は壁の隅に置いといた鞄の中から双眼鏡くらいの大きさのライトをとり出して、スイッチをオン。光量に圧倒的な差はあるけれど、ライトペンと同じ青白い光が壁に照射される。

 その正体は、UVライトだ。

 ペン先から出る無色透明の液体は蛍光物質――つまり透明なだけの普通の蛍光ペン。そして蛍光物質は紫外線を当てることで発光する性質を持っている。だから、紫外線を照射するUVライトを壁に当てればこの通り。

「わぁ――」

 鯉口さんが驚いたように声を漏らす。 

 そこには、この城に眠るちょっとした秘密が浮かび上がっていた。

 ――大量の、傘のマーク。

 よく黒板に悪戯で書かれてるような相合い傘のマークだ。

 傘の柄の両脇に男女の名前が書いてあって、ライトを動かしていけばその印がそこかしこに刻まれていることがわかる。それはまるで、ペンキの内側で眠っていた片想いの残滓たちが浮き出てきたみたいだと思った。中には可愛らしいイラストもあって、一際大きな傘の下にスーパーマンの格好をした男の子と、ワンピース姿の女の子が描かれていたりもする。

 かつて大人たちによって封印された落書きのお城が、時を経てそこに復活していた。

 それもたった百円ぽっちで買えるような、チャチなライトペンで。

 僕にはそれが、魔法の杖のように思えて仕方なかった。

 

「はい、これカバン。それからコレも」

 僕はカバンと一緒に、例のプリクラ帳を鯉口さんに手渡した。

 彼女はいつかと同じように渡されたプリクラ帳をぎゅっと胸に抱いて、こちらを少し困惑した様子で睨みつけてくる。

「わかりません。どうしてあなたは私にこんなことをするのですか?」

「それはだから、可愛い女の子とお近づきになりたくて」

 だけど彼女はきっぱりと首を振った。

「違いますね、私にはそう思いません。もっと違う理由があるはずです」

「……うーん」

 そういえばどうしてだろう、と僕は考える。白川さんが言うように、鯉口さんに恋をしたわけじゃないと思う。可愛い女の子とお近づきになりたいというのも冗談だ。なんとなく放って置けなかったというか……ううん、なんだろ。謎だ。

 僕は城の二階の外に出て、周辺の狭い通路に沿うように設置された柵に手をついた。広場中の草木に潜む鈴虫たちの鳴き声はさっきより小さくなっていて、上を見上げれば少し欠けた月が静かに佇んでいる。

 それから一分くらい経っただろうか。僕はようやくこれだと思える答えを見つけ出した。

 振り返って、二階の入り口に立つ鯉口さんに笑いかける。

「たぶん僕は、鯉口さんに外の世界を知ってほしかったんだと思う。居心地のいい自分が引いた線の内側よりも、ちょっと外に目を向ければこんな面白いものがあるんだよって」

 彼女の持っていたライトペンを、僕は指さす。

「ほらそれ、よく見ると何か書いてあるでしょ」

 言われて彼女は素直に確認し始めた。そこには『FREE』と書かれた紙きれがセロテープと一緒に巻かれている。

「これは……」

「『ご自由にお使い下さい』って意味だと思うよ。このお城に来た人たちに使ってもらえるように、きっと誰かが残したものなんじゃないかな」

「……」

 鯉口さんは改めてペンをまじまじと見つめる。夢中になって魅入っている様子だった。砂浜で遊んでいた子供が初めてシーグラスを見つけた時みたいに。

「いいよね、そういうのって。ちょっと僕も憧れてるんだ。鯉口さんみたいな子に、自分の外側の世界にある面白さを伝えられるようなことをしてみたいなって」

「まるで私が内気で根暗みたいな物言いですね」

 ぎろりと睨まれる。

「……あ、ごめん。そんなつもりじゃ」

 しまった、と僕は慌てて口元を両手で抑える。

 だけどその時鯉口さんは、クスリと笑った――ような気がした。えくぼは残念ながら見えなかったけれど、たしかに口元を緩めて笑っているように見えた。風が吹いて、乱れそうになった髪を彼女はくすぐったそうに手で押さえた。

 水色眼鏡の奥に覗く彼女の大きな瞳が、僕をまっすぐ見つめてくる。

「あなたは、本当に変な人ですね。やっぱり変人です」

 だから僕は啓人だって言ってるのに。そう反論しようと思ったけれど、言葉と裏腹に彼女の優しい声色に力が抜けた。その代わり、僕はいいことを思いつく。

「ねぇ、鯉口さん」

「何ですか」

「よかったらだけど、僕とつき合ってみない?」

「……はい?」

「や、これは今思いついたんだけどね。意外といいアイディアだと思うんだよ。鯉口さんにとっても僕にとってもメリットはあると思うんだよね。どうかな」

彼女は真っ赤にしておろおろし始めた。

「ど、どうって、あなた自分が何を言ってるのかわかってるんですか? つき合うっていうのはその、手を繋いだり、デートしたり、あんなことやこんなことをしたりですね」

 やっぱり彼女はおませさんだったらしい。頭の中でどんな楽しい妄想が繰り広げられているのかちょっと興味がわいた。

 けれどそこは紳士な僕、軽く首を振って否定してみせる。

「別に人と人がつき合う形なんて自由でしょ? 『つき合う』っていうことが、完全にイコールで手を繋いだりデートするってことでもないんだし。『お互いの価値観を共有する』って目的も、僕にはあると思うんだ。それは友達同士ではなかなかできない」

「……そ、そうですね。もちろん私もそう思ってました」

 もはやしどろもどろな彼女に近づき、僕はその手に握るライトペンをするりと優しく抜きとった。そして二階の入り口の裏側に回って、壁にペンを走らせる。

 書き終わってから、僕はライトペンを杖のように軽く振ってみせた。

「君に魔法をかけてみせよう。僕が見ている面白いものを、鯉口さんにも見せてあげる」

 ペンの後ろについたライトの光をさっき書いた部分にかざす。そこに浮き出たのは一本の開いた傘だ。柄の右側は空白で、左側には僕の名前が記してある。

 それを見た鯉口さんはみるみる頬を紅潮させた。それからハッと我に返って、思い詰めたように堅い表情で俯いてしまう。

「……でも、私は――」

「曲がり角を曲がった先に、何があるのかはわからない」

 僕は『赤毛のアン』の唯一知っている一文を諳んじながら、彼女にライトペンを手渡す。鯉口さんはまた驚いた顔をして、次に、諦めたように頬を緩めてその続きを紡いだ。

「……『でも、それはきっと一番よいものに違いない』――ですか」

 私の負けですね、と彼女は小さくため息をつく。それから傘の柄の右側の空白に、鯉口さんは可愛らしい字で『エナ』と記してくれた。

 ――こうして、僕と彼女の、世にも奇妙な交際がスタートしたのだった。

作中のライトペンは、実際に百円ショップで売ってるものをモデルにしています。気になった方は百円ですし、ちょっと買ってみるのもいいんじゃないでしょうか。


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