第二話 『プリクラ帳』
翌日の月曜日の早朝。
僕はいつものように早くに家を出て自転車を漕ぎ漕ぎ、天ヶ紅高校を目指していた。
夏の朝の空は冴え冴えとした青色で、真っ白な入道雲がぽっかりと浮かんでいる。その下には一面緑の田んぼが広がっていた。
ペダルを踏みつけ、トラクターの白いタイヤ跡が残るアスファルトの上を走りながら僕はその風景を見るともなく眺める。夏らしい風景、だけど昼間の猛暑はなりを潜めて朝は涼しかった。吹きつける風が心地いい。
しばらく道なりに進むと左側に見慣れた大きな広場が見えてくる。周囲をぐるりと囲む桜の木はすでに花を散らせ、葉を茂らせていた。反対側の田んぼの向こうには等間隔に鉄塔が建ち並んでいて、そのまた奥にはゴミ処理場の白く角張った煙突や、すっかり雪の白さが抜け落ちた伊鳴山がそびえている。地味だけど絵になっていて、何気に好きな風景だった。
ただし、お気に入りの場所は別にある。僕はもう一度広場を目を向けて、冊のように並ぶ木々の上からひょっこり顔を出すものを見る。
――青い城。
木々が邪魔でほとんど隠れているけれど、小さな女の子の夢を現実にひっぱり出してきたようなメルヘンチックなお城である。一時期は恋愛成就の効力があるとしてこぞって学生たちが落書きをしていたものの、今は禁止されてペンキも塗り替えられていた。
僕はそれをひとしきり眺めて一人満足し、突き当たりの角を曲がった。
すると遙か遠く向こうに、目的地である天ヶ紅高校が見えてきた。
学校に着いて教室のドアを開けると、案の定まだ誰も来ていなかった。
……よし、今日も一番乗りだ。
心の中でガッツポーズ。僕の一つの楽しみだった。
誰もいない朝の教室は人がいないせいか澄み切っていて、静かで、時間がゆっくりと流れているように感じる。日中いつも賑やかなこの場所の、また違う一面を見せているようで僕は好きだった。ちょっと気取ってはいるけれど、そこで一人読書に耽っていると自分が優雅な人物に思えてくるのだ。
窓際から二列目、後ろから三番目にある自分の席で、僕は鞄から昨日買ってきた『雪のひとひら』を取り出した。もちろん鯉口さんが持っていた例の本である。
昨日、切り抜かれたプロフィール写真の理由を知るべく買ってすぐに読んでみたけれど、それでも見当もつかなかった。胸に本を抱いてあれだけ幸せそうな顔を浮かべながら、一方でその本を傷つけるようなことをする。まるで動機がわからない。
「……もしかして、たまたまだったのかなぁ」
本当は切り抜いた人が別にいて、その本をたまたま鯉口さんが持っていた可能性もあるにはある。けれど、もし読んでいたならあの切り抜きに気づかないというのはあまり考えられなかった。本を机に置き、ため息をついて天井を見上げる。そのタイミングで、ひょいと何かが僕の視界に飛びこんできた。
「どうかしたの、愛馬くん?」
「うわっ」
慌てて身を起こして振り返ると、いつの間にか女の子が後ろに立っていた。
赤い眼鏡に亜麻色の長い髪、睫毛の長い理知的な瞳。大人びた顔もあいまって、どこかミステリアスな雰囲気の漂う女の子――隣のクラスの白川愛河さんがそこにいた。
「びっくりしたぁ。いつの間に入ってきたの、白川さん」
彼女は「うふふ」と抑揚なく笑うだけだった。すぐ側の窓をガラリと開けて、いつものように腰掛ける。その窓のへりが白川さんの特等席だった。
「ポール・ギャリコの『雪のひとひら』ね、それ。あなた、いつからそんな気取ったものを読むようになったのかしら」
コップの縁を指先でなぞった時のような、透き通った声で彼女は聞いてくる。
「それとも、好きな女の子でもできた?」
小首を傾げて悪戯っぽく微笑む白川さん。
僕は机に置いた文庫本を見て、次に鯉口さんの顔を想い浮かべる。事情を説明しようかしまいか悩んだ挙げ句、少し迂回することにした。
「白川さんは、自分がすごく好きなものを傷つけたくなる時って、ある?」
脈絡はないけれど、これはいつものことでお互い様だった。消える魔球を投げ合うようなこんなキャッチボールは彼女としかできないだろう。その証拠に当たり前のように白川さんはボールを投げ返してくる。
「そうね。私はわからないけれど、好きだからこそ傷つけてしまうことはあるんじゃないかしら。人間ってそういうものだと思うわ」
「好きだからこそ、かぁ」
「ふふ、愛馬くんにはまだ早いんじゃないかしら。それとも、やっぱり恋?」
「そういうんじゃないよ、たぶん。わかんないけど」
「でも、気になる子はいるんでしょう?」
僕は頷いた。気にならないといえば嘘になるからだ。
ふぅん、と彼女は少し驚いたように眉を動かす。
「あの愛馬くんにもついに春が訪れたのね。どんな子かしら? とても気になるわ」
「白川さんが他人に興味を持つのだって珍しいと思うけど」
「あら、だって他ならぬ愛馬くんが選んだ子でしょう? 人と目のつけどころが違うあなたが気になる子だったら、私だって気になるもの」
「結局そうなるんだね」
彼女が僕に近づいたのは、僕が少し特異な『視点』を持っているからだった。
何でもない、他の人が見過ごすような普遍的な風景や出来事の中から、ちょっとした非日常を見つけるのが僕は得意だった。たとえばそれは、まさに本の『切り抜き』のことだって当てはまる。眉唾な噂や怪談話を主に調査しているオカルト研究会に所属する白川さんにとって、僕の『視点』は貴重な情報源になるのだとか。
教えての教えないのとしばらく益体のない攻防を繰り返していると、教室に人が入りはじめてきた。その中には噂の鯉口さんも含まれていて少しドキリとする。
諦めたように白川さんは肩を竦めて窓から離れ、去り際に僕の耳元で囁いていった。
コップの縁を指先でなぞるような声色で。
「それじゃ、愛馬くん。素敵な恋を」
だから違うと言ってるじゃないか、もう。
◆
事件が起こったのは、その日の放課後だった。
ホームルームが終わって、部活組や帰宅組が教室からいなくなっても特に用もなく教室に居残るグループというのは存在するもので、そういう僕もそのうちの一人だった。
いや、用はなくもないのだけれど。
口実としての勉強をしがてら、僕はちらりと後ろを振り返ってみる。真後ろの席を一つ挟んで、窓際の一番後ろに座っている女の子のほうを。
もちろん鯉口さんだった。昨日と同じ水色の眼鏡をかけて、その大きな瞳で机に置いた教科書とノートを交互にきょろきょろと見比べていた。明日の予習でもしているのだろうか。
彼女の顔はめったに変化がない。猫のようにいつも無表情に近く、取り乱すこともない。授業で先生に当てられて答えられない時でもしばらく考えこんだ末、フラットに『わかりません』と答えるのが鯉口さんだった。
でも、だからこそ疑念が残る。
僕は鞄から三冊の文庫本を取り出し、机に並べてみた。
一冊目は、モンゴメリの『赤毛のアン』。
二冊目は、ツルゲーネフの『初恋』。
そして三冊目はギャリコの『雪のひとひら』だ。
これらの共通点といえば、どれもこれも同じ出版社であることと、すべて海外文学であることだ。それに加えて、もう一つ。
僕は『赤毛のアン』の表紙をぱらりとめくる。カバーの折り目の裏側には他と一緒でプロフィール欄があった。そしてやっぱり、一番上にあるはずの著者の写真がない。
切り抜かれていたのだ。『雪のひとひら』と同じように。
ただ厳密には、『赤毛のアン』が一番最初だった。永遠の名作と銘打たれるだけあって、裏表紙にはたくさんの値札が貼られていた。それが購入するきっかけだった。
家に帰って読もうとした時にこの『切り抜き』に気がついて、僕は首を傾げた。その時は疑問のままで終わってしまったけれど、少し日が経ってまた本屋へ行った時に僕はふと思い出して、なんとなく気になり同じ出版社の文庫をいくつか手に取って確認してみたのだ。それがこの二冊目の『初恋』を見つけた時だった。この本もまた著者の写真が切り抜かれていた。
そこで、僕はある仮説を立ててみた。
もしかしたら誰かが、立ち読みのフリをして写真を切り抜いているんじゃないか、と。それも日常的に。
――切り抜き魔。
少しおどろおどろしいけれど、僕は勝手にそう呼ぶことにした。
もちろんそうじゃない可能性だってある。たとえば、家で切り抜いてきた本を誰かがあの中古書店に売ったというパターンだって考えられるんだ。でもそれは、買い取ったものを店員たちがチェックして加工をしているはずなので、その線は薄いんじゃないかと僕は思った。
それに、中古書店は格好の的だ。
もしも『切り抜き魔』が犯行に及んでいたとして、それが店員に見つかったとしても言い逃れができるからだ。新品ならまだしも、もともと中古本なのだから他人から買い取った時にはこうなっていた、それを出す時に店員が見逃していたんじゃないかと言えばいい。店員もその可能性は否めないので、あからさまに詰め寄ってくることもないだろう。防犯カメラにだって死角はある。
僕は窓の外を眺めるフリをして、もう一度鯉口さんのほうを窺ってみた。
彼女は変わらず教科書とノートを机の上に広げていた。けれど、視線は机よりもっと手前、彼女の膝元に向けられていた。まるで男子生徒たちが授業中に漫画を読んでいるような感じで、うっすらと笑みすら浮かべている。
何を読んでるんだろう?
思わず気になって、無駄だと知りつつも背筋を伸ばして顎を上げ、覗きこもうと試みる。けれどそれは失敗に終わった。丁度その時、教室のドアが勢いよく開け放たれたからだ。
さっ、と僕はすぐに身体をひねって窓の外を眺めるフリをする。窓ガラスに映る僕のポーズがおかしなことになっていた。顎を上げて、まるでフィギュアスケートでフィニッシュを決めた時のアレである。鯉口さんのほうを横目で見ると、彼女もまた即座に反応して何やら持っていたものを机の中に押しこんでいた。
「ねぇ、鯉口さんってまだいる? 鯉口江奈さん」
ひょっこりとドアから顔を出した女子生徒がそう言った。
ガタガタッと僕のすぐ側で椅子を揺らす音。鯉口さんが慌てて立ちあがった音だった。彼女は直後に我に返ったようで、誤魔化すように咳払いをする。
「……はい。いますけど」
「あ、よかった。先生が呼んでるってさ」
「え」
「ほら、早く早くっ」
急かされるも鯉口さんはなぜか机と女の子を交互に見てまごまご、それからちらりと僕のほうを見てきた。その僕はいうと、今も窓に向かってフィニッシュを決めてる最中である。ものすごく怪訝な視線が横っ面に刺さるのを感じた。
結局鯉口さんは何度か女子生徒と机と僕をローテーションで見回した末に、何かを断念するように教室を出て行った。きっと彼女は珍しく焦った顔をしていたはずだったけれど、僕にはよく見えるはずもなかった。
その間ずっと、フィニッシュを決めていたのだから。
問題はその後だった。
難所を越えたその先に、まさかのチャンスが転がってきた。
さっき鯉口さんが机に隠していたものは何だったのか。もしかしたらそれが彼女の秘密を知る手がかりになるかもしれない――そう僕は考えた。もちろん他人のものを勝手に盗み見るのはいけないことだというのは頭の中で理解しているけれど、だけど、同時に僕の中の好奇心がむくむくと大きくなっているのもまた事実だ。
『切り抜き魔』の正体が彼女である証拠が、すぐ側にあるかもしれない。これを逃したらもうチャンスはない。でも、下手をした大事になるかも――いや、それ以前に周りにバレたら友達すらいなくなってしまうかもしれない。上の教室にいるはずの兄さんにも、『お前はもっとよく考えてから行動しろ』と普段から口酸っぱく言われているのだから、きっと知れば雷が落ちるに違いない。そもそも、それ以前に人としてやっちゃいけないことではないだろうか――
そんな考えがぐるぐると頭の中をループする。しかしその最中、僕はハタと気づいた。とても重大なことに気づいてしまったのだ。
――――はて、この手に持っているものは何かな?
どうして僕は、鯉口さんの席の前に立っているのかな?
「………………」
やっちゃっていた。
すでに事後だった。
いつの間にか僕は鯉口さんの席に移動して、いつの間にか鯉口さんの机の中を漁り、いつの間にか鯉口さんが大事そうにしていたものを、あら不思議、いつの間にかその手に持っていたのだ。イッツ・マジック。インタレスティングに僕敗北。何を言っているんだ僕は。
我に返って慌てて机の中に戻そうとしたその時に、ふと持っていたものに目が止まる。
「え、これって――」
それは、本だった。
文庫よりも一回り大きくて厚めで、三日月が描かれた青い表紙の本。
いや、本と言っても小説の類いじゃない。これは――プリクラ帳だ。クラスメイトの女子たちが同じものを持っていたのを前に見たことがある。
でも、鯉口さんが? という疑問が真っ先に浮かぶ。失礼だとは思うけれど、彼女はプリクラを一緒に撮るような友達がいないように思えたからだ。
一番最初のページを(いつの間にか)めくってみると、意外にもプリクラは普通に貼られてあった。いや、几帳面に縦も横もぴっしりと列を成して貼られていてるのは少々普通ではない気がするけれど、普通に友達と写っているプリクラがそこにはあった。
鯉口さんははにかみつつも笑ってピースをしていて、その隣の子も同じようにポーズをとっている。パートナーが度々入れ替わってはいるけれど、必ず二人だけで写っているのが特徴的だった。
笑うと可愛いんだなぁ、と僕は心の中で呟いた。
鯉口さんにえくぼがあることを初めて知った。もしこの素敵な笑顔を向けられたなら、誰だって彼女を好きになってしまうだろう――恋にも落ちてしまうだろうと僕は思った。
「……ん?」
パラパラとページをめくっていくと、途中でその異変に気づく。
色調が、ページの四分の一を境にガラリと変わったのだ。明確に。カラフルなプリクラが、急にモノクロへと変化した。プリクラにも一応、セピア色や白黒にもカスタマイズできる機能があるだろうけれど、何ページにも渡ってそれが続いているのはどう考えても変だ。
と、そこまで考えて、僕はその考えが間違いだったことに気づく。
全身に衝撃が走った。
らしくもなく先入観に囚われてしまったのだ。プリクラ帳に貼ってあるものが、必ずしもプリクラだけだとは限らない。女の子たちだって、雑誌の切り抜きや友達からのメッセージ用紙を貼っていたじゃないか。
僕は一番新しいページまでめくり飛ばす。そして貼ってある写真の中から昨日ネット調べておいた顔を見つけ出し、指でなぞった。
「これはモンゴメリ……ポール・ギャリコ、それにツルゲーネフ――間違いない」
「何が、間違いないんですか?」
底冷えするような声が、すぐ側で発せられた。
スー、と血の気が引いていく。恐る恐る顔を上げてそちらを見てみると、やはりというか、無表情のまま直立不動の鯉口さんが佇んでいた。いつの間にか。
一方で僕は、机に入れてあったはずのプリクラ帳を手にしている。
著者のプロフィール写真が大量に貼られた、彼女のプリクラ帳をだ。