第一話 『出会い』
人よりも一歩、踏みこんで想像する癖がある。
たとえば中古書店では、僕は値札がたくさん張ってあるものを選ぶようにしている。
赤や黄色や青や黒、シーズンによって色を変えているのか時々値札がカラフルに貼り重なっているものがあって、中には他の中古書店から流れてきたデザインの違うものもある。
ずらりと並んだ背表紙のタイトルを適当に選んで、裏表紙に書かれたあらすじに目を走らせることなくレジに持っていくこともしばしばで。一度、購入する時に選んだ本の表紙に半裸の女の子のイラストがあって恥ずかしい思いをしたことがなきにしもあらずだけれど――その時女性の店員さんに白い目で見られたような気もしたけれど――それはそれとして、だからまぁ僕はつまり、内容で本を選ぶことはしないのだった。
選定基準は、やっぱり値札の多さである。
なぜならたくさんの値札が貼り重なっているということは、その本は人から人へ、店から店へ、売られては買われ、買われては売られをぐるぐると繰り返していることになるのだから。となると、それだけたくさんの人たちに読まれていることになるわけで、要はそこがミソだった。
僕は想像する。
たとえばうら若き乙女が、または腕白な少年が、あるいは電車に揺られる通勤中のサラリーマンが、もしかしたら僕のクラスメイトが読んでいたかもしれない。そして彼ら彼女らは、その本を読んでどう感じていたんだろう。どのキャラクターを好きになって、どのシーンに感動したのだろう――そんな風に僕は思考を巡らせる。
そうやって読んでいると、不思議と一体感を感じるのだ。ライブ感覚に近いのかもしれない。イベントを楽しむというよりも、観客同士との繋がりに楽しみを見いだすタイプというか。
加えて人が読んでいた痕跡を見つけると一層嬉しかった。ページの端が折られていたり、たまにペンで線が引かれていたり、泣いていたのか濡れた跡があったりすると、より自分の想像をかき立てられる。
でもそんな見方をしているからか、僕は度々奇妙な痕跡を見つけることがあった。
どうしてそんなことをしたのか、どんな人がやったのか、『それ』は想像をしてもまるで見当がつかない痕跡だった。実に不思議で、意味深で、神秘的なまでに謎めいていた。
僕はそれが気になって気になって仕方がなくなって、だから日曜日、馴染みの中古書店に足を伸ばすことにしたのだ。思い立ったが吉日というけれど、まさにまさに。この日の出会いは、ちょっとできすぎなくらい運命めいていた。
いらっしゃいませー、と店員さんの間延びした声が響く。
8月もなかば、暑さが怒濤のごとく押し寄せているにも拘わらず、壊れているのか節電のためか店の中はエアコンどころか扇風機もついていなかった。湿気が多くて蒸し暑く、むわっとした空気がたちこめる。立ち読みをしている人もまばらだった。
僕はその時、いつも通り文庫本のコーナーにいた。
そこで僕は『彼女』を見つけた。通路の奥でひっそりと佇んでいるその姿を。
小さな、それは小さな女の子だった。
とにかく身長が低い。一五〇センチあるかないか、クラスの中でも長身な僕とは頭二つ分も差があった。肩まで伸びたさらりとした黒髪から覗く小さな横顔はひどくあどけなくって、少し大きめの水色の眼鏡が幼さに拍車をかけている。
しかし驚くことに、白い半袖のYシャツにギンガムチェックのスカートは僕も通う天ヶ紅高校の制服だ。つまりは高校生。それも青色のリボンからするに同学年。……というか、よくよく見ると見覚えのある顔だなぁと思ったらまさかのクラスメイトだった。
鯉口江奈さんだ。
一度も話したことはないけれど、名前と容姿は特徴的なので覚えていた。普段は教室の隅で黙々と本を読んで気配を消していて、放課後になるといつの間にかいなくなるという神出鬼没な女の子。
そんな彼女は今、手に持つ文庫本をぎゅっと両手で包みこむように胸に抱いていて、心底幸せそうに目を閉じている。なかなか素敵な光景だった。
「鯉口さん?」
声をかけると、彼女の肩がびくんと跳ね上がる。
パッと素早く振り向き、そのくりくりとした大きな瞳を僕に向ける。熟れたリンゴのように頬は真っ赤っか、よっぽど驚いたのかそれこそ鯉のように口をぱくぱくさせる鯉口さん。
「…………」
しばらく続いた沈黙の後で、彼女はようやく我に返って咳払いをする。ツンとした態度で僕を睨み、でもそれがまたわざとらしくて思わず噴きだしそうになってしまう。
「……私に何か用ですか」
「んー、用というか、クラスメイトがいたから声をかけたというか。僕のこと知ってる?」
「同じクラスの変人さんですよね」
「惜しい、一文字違い。変人じゃなくて啓人だよ。僕は愛馬啓人」
笑いかけてあげると、彼女は毒気が抜かれたようにきょとんとした。驚いたりツンとしたりきょとんとしたり、案外表情がコロコロ変わる子である。
僕はふと彼女の持っている文庫本に目がいった。
「へえ、海外文学なんて読むんだ」
「ッ」
彼女はぴくりと身体を強ばらせ、手を後ろに隠してしまう。
「何を読んでるの?」
「あなたに教える義理はありません」
言うやいなや、鯉口さんはもとあった棚に素早く文庫本を突き刺してしまう。それも入念に、戻したものがわからなくなるように並んだ背表紙を両手でわしゃわしゃと均してしまうという徹底ぶりだ。
「ごめん、困らせるつもりはなかったんだけど」
「用がなければ、私はこれで」
「買わないの?」
「は?」
「あ、いやさっき、えらくあの本を気に入っていたようだから」
見られたのをまた思い出したのだろう、彼女の頬が見る見るうちに赤くなった。
鯉口さんは何も言わずにぺこりと一礼、そのままツンとした態度で僕の横を通り過ぎ、店の出入り口へとスタスタ行ってしまう。ありがとうございましたー、という店員さんの間延びした声が虚しく響いた。
僕はそれを見送った後、こっそりと彼女が本を戻した棚に目を走らせる。
実は、彼女の本を覚えていたり。戻す前にちらっとタイトルを見ていたのだ。
僕は右に左に不審者よろしくキョロキョロと見回し、鯉口さんが戻ってこないことを確認。ちょっとドキドキしながら彼女が戻した文庫本を抜きとってみる。
それはポール・ギャリコの『雪のひとひら』だった。
表紙は夜空の青に小麦のような星々をまぶした背景に、左の片隅に大きな雪の結晶が描かれている。読んだことはないけれど、一時期本屋で話題になった本だったので覚えている。
果たしてめくってみると、予感は的中した。
大抵カバーには作者の紹介文が書かれているものが多い。どこどこ出身で、どういう経緯で作家になって、時にはどんな趣味を持っているのかも記されてある。出版社によっては著者の写真と一緒に。
ところがその写真が、なかった。
何者かによって綺麗に四角く切り抜かれていたのだ。
それが僕と鯉口江奈との――『切り抜き魔』との始まりだった。