Pain to the world
虚空に人がやってきた。
怒りに震える王に歩み寄ってくる。王は低く言い放った。
「サイ、そなた……我を謀ったな」
言いながら振り向き、目を見張る。そこにはいつものように深緑色のローブを纏うサイーーではなく全く同じ顔の色違いの少年がいたのだ。
「サイなら、もういないよ。あいつが真実を全て教えてくれた。俺に全部伝えて……あいつは糸を切った。自分も人形だったんだ、と」
虚像ばかりを追い求める憐れな王の操り人形ーーという名の。
「貴様は一体、何者だ?」
王の問いに少年は答える。
「俺は、俺だ」
空白にて。
「王に疑問を抱いたボクは、ループにノイズをもたらした」
「ノイズ?」
「歪みだよ。あの世界でキミも時折感じていただろう?」
ぐにゃりと周りのものが歪んで見えるあの感覚のことだろうか。
「まだ半分は王を信じていたボクは焦ったよ。このままでは王の願う世界が完成する前に壊れてしまうって。でもね、ボクの中で生まれた疑問ーー不信感を拭い去ることもできなくて……ボクから色違いの[ボク]が生まれた」
その色違いが誰を示すかはすぐにわかった。
「それが俺、だな?」
「その通り」
「そして俺は世界の中でも最も大きいノイズとなった」
サイが言わんとするところを読み取り、言った。サイはどこか悲しげに笑い、頷いた。
「飲み込みが早くて助かるよ。王はボクのこの容姿を知っていたから、キミがボクに関わりのある何かだと察していた。けれど、ボクは何も問題はないと言ったから、王はそれを信じて、追及しなかった」
「……本当は、問題大ありだったんじゃないのか?」
[幸せな世界]の中で唯一[不幸せ]の要素を持つ存在。しかもサイが塗り潰さなかったことから考えるに[塗り潰せない]存在だった少年は王にとって邪魔者以外の何者でもなかったはずだ。
少年の予測に反し、サイは首を横に振った。
「全く問題はなかったよ。というよりむしろ、キミが現れたことで世界は安定した。[不幸せ]を消すというのは、[光があるのに影がない]のと同じくらい反常識的なことだったんだ」
それを知ったのは最近だけど、とサイは付け足す。
「キミが矛盾を引き受けてくれたお蔭で世界は保たれた。でも、それがボクには苦しかった。そこでようやく気づいたんだ。間違っているって」
矛盾をーー[不幸せ]を一人に押し付けて、[幸せな世界]を創ろうとするなんて、サイにはできなかった。偽善にしか感じられなかった。
「その時ボクは決意したんだ。この世界を終わらせよう……って」
「ボクはキミが気づくように、人形を送った。キミが気づいて、世界が終わった後、王を止めてくれるように」
え、と少年はサイを見た。
「待て。ここまで来て、あんたが止めるんじゃないのか?」
少年の疑問は最もだった。サイは苦笑する。
「ボクも止めようと思ったんだけどね。時間がないんだよ。ほら」
サイはすっと腕を上げ、ひらひらと手を振ってみせた。サイの手は乾いた砂人形のようにさらさらと崩れ始めていた。
「なっ……なんで!」
「キミが、自我を持ったから」
サイが短く告げた。少年はクラウンが消えた時のような衝撃を受けた。
「俺の、せい……なのか」
「違うよ」
サイは即座に否定した。
「人間には自我があって然るべきだよ。自分で考えられることは生きている証で、それこそが本当の[幸せ]なんだとボクは思う。だから、キミのせいじゃない。ボクが消えるのは……きっと、報いなんだ」
話すうちにサイの顔が崩れ始める。構わず、サイは続けた。
「それより、王を止めてほしい。彼はボクの裏切りにさすがに気づいただろう。でも、おそらく間違いには気づかない。だから、殴ってでもいいから正してほしい。……勝手な頼みで申し訳ないけど」
少年は答えなかった。けれどその目を見、サイはありがとう、と囁くように言った。
少年は、空白の世界で、自分の足元を見た。
サイが崩れたあとに残った砂が、なんの偶然か、こんな文字を象っていた。
「Pain to the world」ーーと。
Pain to the world.
少年は虚空にその言葉を届けにやってきた。
「色々と言いたいことはあるが……まず、教えてほしい。何故あんたは[幸せな世界]を創りたかったんだ?」
「世界を我が手に収めるためだ」
王は淡々と告げる。
「幸せしかない世界であれば、支配に対する反乱もなく、平和に統治できるだろう。だからだ」
一理あった。確かに、不満がなければ反乱は起きない。世界中の人々が幸せであれば、平和が続くだろうというのも筋が通っている。
「……あんたが望んでいた世界って」
「平和で争いのない世界だよ。我は誰もなし得なかったそれを治めることで、最も有能な王として名を残すことができる。世界も平和で、皆が幸せだ。誰にとっても有益な世界だと思うが」
そうかもしれない、と少年は思った。けれど、違う。
「俺という世界の絶対的矛盾を前にして、それを言えるのか?」
少年の反論に王は口を閉ざす。
「違うだろう。あんたが望んだのは、[誰もが]幸せな世界だろう?一人の[不幸せ]な人間が存在していてもいいのか?」
「……否」
返答は小さかった。
「だが、その[不幸せ]は塗り潰してしまえばよかろう。何の問題がある?」
苛立ちを含んだ鋭い眼光が少年に向けられる。それでも怯むことなく少年は王を真っ直ぐ見つめ返した。
「潰せるものなら潰してみやがれ。俺はあんたを認めない」
「ふん、たかだか貴様一人に認められなかったところで然したる支障にもなりはせん」
王の一言。それを聞き、少年は俯いた。
沈黙が続いた後、やがて少年は声を上げて笑った。
王は訝しげな表情で少年を見る。
「何を笑っている」
「はははははっ……!……いや、わかってないと思ってさ。あんたは何もわかっちゃいない」
顔を上げた少年の双眸には憎しみ、怒り、諦め……ループの辞書にはなかった感情が激しく燃え盛っていた。それでありながら、静かな覚悟が佇んでいる。
「Pain to the worldーーあんたにこの意味がわかるか?」
王はその問いに眉をひそめ、首を横に振る。少年はそれを見、再び笑った。今度は静かに。
「やっぱりか……あんたは譬、ループが[幸せな世界]として完成したとしても、王にはなれなかったよ。その資格がない」
「何……?」
少年は高らかに何故なら、と宣言した。
「この世界に王は二人もいらない!」
「不遜な……自分が王だとでも言うつもりか」
王は少年の言葉に吐き捨てるように返す。
「いいや。これはただの洒落さ。俺が王だなんてごめんだね」
少年の返答に王はますますわけがわからなくなる。
「……どういう意味だ?」
少年はため息を吐く。
「これだけ手掛かりを出してもわからないんじゃ、どうしようもないな」
少年はそう言うと、ローブの胸元から何かを取り出した。
取り出したのは絵筆。王には見覚えがあった。それはサイが何より大切にしていたものでーー世界に不要なものを塗り潰すための絵筆だった。
少年は筆先を王に向ける。
「俺が何を言いたいのかはわからなくていい。でも、あんたを信じて共にいてくれたあいつの思いくらいはわかってくれよ……」
少年は虚空に黒の世界を描く。今、虚空の暗闇を描き出しているのだ。
その中に佇む[王]。
「まさか……」
王は少年が何をしようとしているのか理解した。
それを止めようと叫ぶ。
「やめろ!!」
少年は筆を止め、王を見た。
「あんたは一度でもその叫びに答えたことがあったか?」
冷たい声とその問いに王は返す言葉を失う。
少年は絵に目を戻した。続きを描くために。
さあ、最後の一筆だ。
「これでーーPain to the world,だ」
少年は王を塗り潰した。