ループ
黒。闇の世界。
虚空。
「遅かったではないか」
「あらあら、すみませんねえ。退屈でしたか?王」
サイがこの空間に戻ってきた。
「繰り返しの時にはいつも立ち会っていたではないか。どこに行っておった?」
「ちょっと、歯車を回しに」
「歯車、とな。あの者のことは人形に任せたのではなかったか?」
「クラウンは大丈夫ですけど、リエラが、クラウンの一部を壊していたので、それを直したんですよ」
サイの言葉に王は不機嫌に唸る。
「ふん、あの出来損ないが。消えてもなお我らが思惑に歯向かうか。不愉快な」
「全くもっておっしゃるとおり。でも、もう大丈夫です。もうすぐですから」
「うむ、我が念願の成就まで、そう遠くない……」
満足げに呟く王の側からそっと離れてサイが言った言葉を王が聞くことはなかった。
「ええ、本当にもうすぐ終わりです。この世界は」
「みなさん、妄想がどれだけ恐ろしい病気か知っていますか?」
「せんせー、妄想って病気なんですか?」
「いい質問だね……」
このやりとりを聞くのは果たして何度目だろうか。
世界では、少年の[妄想]という病気はそこそこ有名だった。
誰も理解しない少年の痛みという感覚。
そのせいで世界から爪弾きにされて、幾度となく、それを繰り返して。
それももうすぐ終わる。
サイが言った言葉が、少年に静かな喜びを与えていた。
クラウン、リエラ、サイ……理解者とは言えないまでも、彼らは世界の中で数少ない変化だった。
おかげで退屈せずに済んだ。
感謝、だった。
少年は珍しく、この世界の辞書にある感情を抱いていた。
少年は近頃、絵を描くようになった。3歳に戻った彼にサイが鏡を通して言ったのだ。
「折角の最後だ。キミのやりたいことをやるといい。人々はこれまでと同じくキミを差別するだろうけど、キミがやりたいことをやるのを妨げたりはしないよ」
サイのその言葉に、少年は色々なことを試した。
学校に行き、辞書以外の本を読んだ。それを真似て自分で物語を書いた。母がいつもしていた料理にも挑戦した。物置を自分の部屋にするために片付けて見つけた玩具で遊んだ。それの模造品を作った。
少年は専ら、作ることのみに集中した。全て何かしかの模倣ではあったが、作り終えた時の達成感は少年にとってはこの上なく意義のあるものに思えた。
今は、絵を描いている。
彼はまず、クラウンを描いた。青い瞳が両方揃った道化の少年。きっと、彼が人形でなければ、こんな顔をしていただろう、と。しかし、片目の青を入れる前に、少年はふと筆を止めた。
確か、どこかで、目を入れたら、描いたものが本物になったとか、祝福の時に片目を入れるとか、そういう話があったような、と思ったのだ。
だからなんとなく、少年は片目を入れずに筆を置いた。
クラウン。
思えば、彼の存在にどれだけ救われただろう。繰り返す世界に気づいたのも、それに耐えて生きて来られたのも、彼の存在が……あまり意識したくはないが、ピエロ人形の存在があったからだ。
彼と会って真実を知ったことも、彼と旅をしたことも、少年は後悔していない。会えてよかったと思っている。
考えながら、少年は新しいキャンパスに絵を描く。
リエラだった。
あの人はどこ勝手で、あまり好きではなかったけれど、可哀想な人だった。誰よりも言葉で多くの真実を語ってくれた人だ。
結局、彼女もサイが作った人形だったらしいが……
サイが……その更に後ろにいる王という存在が、一体何を考えているのか、わからない。なんとなく、サイは敵じゃないということだけはわかった。
王はどうかわからない。会ったこともないし、サイが自分と思惑を同じくしている者ではないと言っていた。だから、信じるには情報が足りない。
まあ、この一周で世界のループは終わるのだから、その先はあまり自分が気に病む必要はない、と少年は思考に区切りをつけた。
楽しげにキャンバスに向かう少年を見、サイは微笑んだ。対して王は不審げにサイを見る。
「……あやつは何をしている?」
「わかりませんか?絵ですよ、絵。絵を描いているんです。いつぞやは文章だったし、料理もしていたから、彼はやっぱり、芸術方面が向いているのかも」
一人で語るサイから王は興味をなくしたように視線を外した。
「……楽しそうだな」
無感動な声でそう言い置く。
「王は楽しくないですか?彼の変化を見ていて」
来ると思っていなかった問いに王は一瞬戸惑う。サイを見ると、その目には興味以外の感情はなかった。どうやら純粋に返答を待っているらしい。
「興味ないな。くだらん。あやつは我の障害となりこそすれ、それ以上にもそれ以下にもなり得ない。そんなものに興味を持ってもどうにもならん」
サイは王の答えに満足げな笑みを浮かべた。
「実に合理的な考えです。さすがは王。側近のボクが俗物で申し訳ありません」
サイは深く頭を下げた。王は別段気にしなかった。
サイは相変わらず楽しげに少年を見る。
「ああ、楽しみだ。本当に楽しみだ」
それは一体、何に対してだろうかーー
いつか、言葉遊びをした。
クラウンは、ピエロで王だ。
道化と王冠はどちらもクラウンと発音する。だからだ、と。
サイは時折、少年に話しかけてきた。
そして、辞書にはない言葉を教えてくれた。
クラウン。彼が自分の人形に何故その名をつけたのだろう。なかなか皮肉な名前だ。
「ボクにとってクラウンは王と同等の価値なんだ」
「いいの?そんなこといって、大丈夫?」
「平気平気。ボクの会話は王には届かない」
サイは掴みどころがない人物だった。
少年にとって敵じゃないとは思えるけれども、王の側についている今の状況をどこか楽しんでいるふしがある。
あるいは、世界の混乱を。
しかしながら、少年は不思議と不安は感じなかった。少年が最も親しみをーー絆といえる感情を感じているのは、クラウンだ。しかし、サイはそれとは違った意味で繋がりを感じる。根拠を一言では言い表せない信頼。無条件で信じられる、不思議な感覚がサイと少年の間にあった。
「ラジオ?」
少年が最後のループで8歳を迎えた時、サイは[ラジオ]というもののことを教えた。
「キミの家にあったはずだ。探してごらん」
少年はまず自分の部屋の収納を探した。サイに教えられた、伸びる棒のついた箱形のものはない。
少年は記憶を手繰り寄せた。そういえば、どこかで見た。……父親の部屋だ。
「……あった」
少年は電池が入っていることを確認し、スイッチを入れた。
ジジッ……ジッ……
動き出す。
終わりへ向けて。
世界が。
王が。
虚空が。
一人の少年の運命を乗せて、歯車が回り始める。
「今日の天気をお伝えします」
ラジオからの声を少年はきくともなしにきいていた。
「昼前まではからっとした晴れ間が続きますが、午後からは生憎のお天気。おでかけの方は傘をお持ちください」
雨が降る。
「……だってさ」
少年は誰にともなく告げた。他に誰もいないが。
この世界で雨という天気は珍しかった。
雨は憂鬱や怠惰など、人により差はあれど、マイナスの感情を象徴するものだ。[幸せな世界]ではあまり好まれないのだろう。
この世界は実際に作り出したサイの意思よりも王の意思が大きく反映されている。サイの話を聞き、少年は納得した。意思を反映しているということは、その人と成りが世界そのものに表れるのだ。
恐らく誰よりもこの世界を知る少年は、暮らしていく中で感じられる歪みが王のものであることをすぐに看破した。
確かにこの世界の人々は皆、幸せそうだ。
けれど、彼らは最初から幸せだった。幸せを求めなかった。これが幸せだ、と与えられた定義で満足し、それ以上を求めなかった。
幸せは求めすぎればただの貪欲を生むだけだ。だが、誰もが同じ幸せで満足するのは果たして本当の世界なのだろうか?
少年は、それが気になっていた。
彼は最初から気づいていたよ。アナタの思い描く世界がどれだけ歪んでいるか。アナタの望みがどれだけ歪んでいるか。
アナタだけですよ。気づいていないのは。
ボクの裏切りに。その理由に。
でも、羨ましいや。
アナタは幸せなんだーー
少年は雨粒を手に浴びた。
冷たい。
開けた窓から手を伸ばす。冷たい雨を味わうために。
「風邪を引くよ」
サイの姿が窓に映った。姿といっても、いつも通り、フードを目深に被っていて、顔は全く見えない。
「サイは、寒いのか?」
少年は何気なく口にした。しかしサイにとってその問いは唐突で思いもかけないことだったので、呆然と黙り込んでしまった。
「どうした?」
少年が再び声をかけると、サイは我に返り、微笑んだ。
「ここは寒くないよ。虚空は虚空だからねぇ……雨も降らないし、風も吹かない。天候はいたって平穏さ」
日の光もないから、暖かくもないのだけれど。
「あんたは風邪って引いたことあるか?」
「ある」
風邪はどんな病気より恐ろしいものだ。
「でも、大した病気じゃないと思われているから、誰も心配しないんだ。こっちは苦しいのに。……っと、ループでは元々[心配]という感情はないんだっけ」
何が面白いのか、サイはからからと笑う。
「作ったボクが忘れていたら世話ないね」
そう、普通に話しているとわからなくなるが、ループはサイが作った世界なのだ。
ふと気になって訊ねた。
「世界って、どうやって作ったんだ?」
少年の問いにサイはうーん、と軽く首を傾げ、答えた。
「元々あった世界から、とある人物のとある記憶を切り取って、王の出す要件に合うように描き換えたんだ」
「描き換えた?絵を描くみたいに?」
「ああ。世界って一つの大きな絵みたいなものなんだ。少なくとも、ボクが切り取ったこのループは。……まあ、描き換えたといっても、ボクがやったことといえば、王の意思に沿わないものを塗り潰したくらい」
「王の意思って、どんなものだったんだ?」
少年の問いにサイが肩を揺らして笑う。
悪戯っぽくこう答えた。
「内緒」
それを聞いた少年はつまらないといった風に眉をひそめる。
サイは付け足した。
「キミが15になったら教えるよ」
あと2年。
少年が15になるまでの年月であり、世界が終わるまでの秒読みでもあった。