再会
この世界の辞書には当然、[痛み]という言葉はない。
他にもいくつか存在しない言葉がある。
そのうちの一つが[神様]。
辞書に載っていない言葉は基本的には学校でも教えられない。にも関わらず、何故少年は[神様]という言葉を知っていたのだろう。
リエラが消えた翌日。例によって、世界は繰り返された。
3歳に戻った少年の側に、常にはないものがあった。
青い欠片。
少年にはすぐわかった。ーーあのピエロ人形の瞳の欠片だ。
「……側にいてくれるってことか?」
少年は誰にともなく呟いた。
3歳の少年は、記憶を辿り、こっそり自分の部屋[3歳当時は物置]に置いてある机の小瓶を取り、その中に欠片を入れた。
物置に入り、ふと、本棚に目が止まった。
[World Dictionary]
そんなタイトル。
なんてことはない、ただの辞書だこの世界、ループにおける、一般的な辞書。
しかし、3歳の彼にとっては少し高い所に辞書はあった。背伸び程度では届かない。
そこで少年は、本棚をよじ上った。
落ちた。
痛い。
そうして世界は動き出す。
少年が目を覚ましたのは、5歳になってからだった。2年も眠って、よく生きていたな、とぽつりと思った。
我が子が目覚めたことを知り、親はすぐさま駆けつけた。少年は本棚から落ちて、意識を失い、病院に運ばれた。それから2年、目覚めなかった。
さぞかし心配したことだろう。悪いことをしたな、と珍しく少年は思った。
しかし。
「さ、目を覚ましたことだし、家に帰りましょうね」
……親の反応はそれだけだった。
聞けば、少年が眠っていた2年間、親は一度も見舞いに来なかったという。
なるほど。
少年は涙すら出なかった。
幸せな世界には[心配]もない訳か。
静かな納得。
俺も大概、この繰り返す世界に慣れてきたらしい。
苦笑した。
5歳の少年の帰り道。彼は親と手を繋がなかった。
そっとポケットの中の小瓶の冷たさに触れた。
ループにない言葉。
[暴力][心配][痛み][宗教][神様][王国]
何故ないか?
決まっているだろう?
ーー[幸せな世界に]必要ないからさ。
少年は学校に通わなかった。ループにおける就学年齢は5歳。
学び始めるには若干ではあるが、遅いと考えた彼の両親は、家で教育することにした。
まあ、教わることなど、ほとんどなかった。彼は繰り返す世界の記憶を持っていたから。
痛い。
痛いよーー
誰も側にいない。
誰か側にいたとしても、理解してくれない。
どうして、俺はこんな世界にいるんだろう……?
少年は8歳になった。
既に異端児として、避けられていた。
また、理解されない世界を繰り返す。
少年は大切にしているものがあった。
あれから肌身離さず持っている。小瓶の中の欠片だ。
見る度に思う。
あの道化師に会いたいな……
今まで少年を理解してくれたのはあの道化師だけだった。
いつかまた会うかもしれない。そう道化師は言っていた。
会えるなら、会いたい。
少年は立ち上がった。
道化師を探しに行こうと、あの時の広場へ向かった。
その日から、少年は広場に通いつめた。
道化師の姿はない。現れるという保証もない。けれど、少年は待った。
「俺が欲しいのは、欲しい、のは……」
小瓶を握りしめて、少年は呟いた。
3年が経った。
道化師は現れた。
「こんにちは」
「……こんにちは」
道化師の方から声をかけてきた。
「……待っていて、くれたの?」
「え!?」
覚えていないだろう、と言ったかつての言葉通りのことを覚悟していた少年は瞠目した。少年が問いを発する前に、道化師は首を横に振った。
「いや、あの……毎日ここで何かを待っている子がいるって聞いて……なんとなく、そう思っただけだから……勘違いだったら、ごめん」
その返答に少年は少し落胆した。やはり、覚えていないのだ。
道化の少年は彼の落胆を感じつつも、見る?と芸の道具を広げた。少年はこくりと頷いた。
少年は道化の仮面をつける彼を見、不意に気づいた。
色が違う。
両の目の。
片方はあの人形と同じ青。
もう片方は、白ーーというか、色がない。
「あ、この目、やっぱり気になるかな?」
道化の少年は、視線に気づき、困ったように笑った。
「これ、生まれつきなんだ。ごめんね。本当はカラーコンタクトで隠したいんだけど、なかなか手に入らなくて」
仮面をつけながら、道化は笑って続けた。
「この方が本物の道化っぽくっていいんじゃないかって言われたけど」
何故だかその一言が、とても悲しく感じられた。
芸が終わる。
ぱちぱちぱち。
少年の乾いた拍手が響く。道化は恭しく一礼した。
「ねえ」
「何?」
「一緒に、旅に来ない?」
突拍子のない提案だった。少年は狐につままれたような顔になる。
「友達……に、なりたいんだ。だめ……だったらいい、んだけど……」
願ってもいないことだった。
「うん、いいよ」
少年があっさり答えるのに、今度は道化が狐につままれた。
「いいの?こんなに簡単に。親御さんと相談してからでも……」
「いいよ、ここにいるよりずっといい。だから、連れていってほしい。こっちから、お願い」
この世界の道化はもう、何も知らないのかもしれない。けれども、何かわかる予感があった。
何の偶然か、道化の白い目は、人形の欠けた目と同じ方だったから。
少年は道化師と旅をした。
彼は孤児だった。名前を聞いたらそう教えてくれた。
呼び名がないのも不便だね、と道化師は[クラウン]という名で呼んでほしい、と言った。
「クラウンって、道化師って意味なんだって」
「ふーん……クラウンは、いつから旅をしているんだ?」
クラウンは、わからない、とからから笑った。
「僕はいつの間にかここにいた。いつの間にか道化師をやっていた」
その笑顔はどこか寂しげだった。
「僕は、記憶がないんだ」
そういえば、何故、リエラは消えたのだろう?
彼女は世界の崩壊を望んだ。少年に多くの真実を明かした。
それだけ。
ただそれだけだった。
もし、繰り返す世界の裏側に糸を引く何者かがいるのだとしたら。その者がこの世界の継続を望んでいるのだとしたら。
望むように動かない者は邪魔でしかない。ーーだから消した。
別に、今考える必要はないことだ。
少年は考えるのをやめた。
少年の持ち物は本が1冊。3歳の時に気になっていた[World Dictionary]という辞書だ。
それ一つだけ。
この世界には不幸せをもたらす言葉は基本的にない。ならば何故、クラウンのような孤児がいるのだろう。
「クラウンは……幸せか?」
少年の問いにクラウンは目を丸くする。
「どうしたの?突然」
「いや……俺にはわからないんだ。痛みのないこの世界が幸せなのか……?でも、幸せと思えないのは俺だけだから、別に、いいのか……」
少年が言うと、クラウンは立ち上がり、少年の周りを歩き回りながら彼をまじまじと見つめた。
「な、何……」
少年は困惑した。クラウンの意図が読めない。
しばらくそうした後、クラウンは少年の隣に座った。
「僕はこの世界のことを何も知らない、ちっぽけな存在だけれど、これだけは確実に言える。[君が幸せになっちゃいけないなんてことは、ない]」
クラウンはじっと少年の目を見つめた。青い瞳は澄んでいて、真剣な光が宿っていた。
「何が正しいとか、間違っているとか、色んなしがらみがあるけど、それは誰かの幸せを否定することにはならない。だから君は君の幸せを求めていいんだ」
涙が出そうになった。
俺は、幸せになっていいのか、と。
否定されるだけの存在ではなかったんだな、と。
「クラウン」
「なあに?」
「信じて、いいか?」
お前の言うことが本当だと、信じてもいいか?
「もちろん」
クラウンは屈託なく笑った。
信じてみよう。
こんな世界でも、俺が幸せになれる道があるのなら、探してみよう。
手探りの希望。
それでもいい、と少年は歩き出した。
そんなこと、誰が許すかーー
そう言ったのは、夜の世界。否ーーここは虚空。
幸せと対極にある世界。
「王よ、あの者はうまくやるでしょう。邪魔なものは全て消しましたから」
声変わり前の少年の声が低く唸るような声に答える。
王と呼ばれたその声はうむ、と同意を示した。
「そなたが言うなら、間違いなかろう」
「恐悦至極にございます」
虚空は暗い。そして黒い。
その黒い空間にぽつんと映像が映し出されていた。少年とクラウンの姿だ。
「きっとうまくやってくれますよ。……だってクラウンは、ボクの人形の中でも最高傑作ですから」