リエラ
少年は、矛盾した存在だった。幸せな世界の絶対的矛盾。矛盾は孤独を生み、孤独は少年を強くした。
決して幸せにはしなかった。
繰り返される世界の中で、彼は唯一繰り返されない。絶対的矛盾だから。最も、当の本人はそれを認めてはいない。
結局、あの道化師には会っていない。ただ、彼が壊していたピエロ人形が何故か少年の元に必ずやってくる。ある時は庭先に、ある時は家のポストに、またある時は通りかかった道端に。ピエロ人形は必ず、少年の前に現れた。
それは世界の僅かなノイズ。絶対的矛盾が存在することによるずれの発生ーー
「あたし、リエラ。きみは?」
「はい……?」
いきなり現れた少女は少年を見るなりそう名乗った。
「はいって言うの?変わった名前」
「いやいや、違うから。っていうか、誰だよ、あんた」
「だから、名乗ったでしょ?あたしはリエラ」
「それはわかった。なんで俺に馴れ馴れしい?」
そりゃ決まっているでしょ、とリエラは答えた。
「きみが世界の絶対的矛盾だから」
少年はリエラの言葉に衝撃を受けた。
「何故あんたがそれを知っている?」
リエラは悪戯っぽく笑った。
「それはあたしがあの道化師くんと同じ役目を持っているから」
「あいつを知っているのか!?」
リエラは手提げバッグからピエロ人形を出した。道化師が持っていた、あの人形だ。
この世界では初めて会う。
「何故、お前がそれを……!」
ふふふ。リエラはピエロ人形の頭を撫でて、少年の問いとは別なことを話し始めた。
「この子はきみとおんなじ。世界の絶対的矛盾なんだよ」
考えてみれば、合点がいく。繰り返される世界の中で、一度たりとも同じ場所、同じ場面で出てきたことはなかった。
「この子は……ちょっと違うわね。矛盾というより、鍵なのよ」
「鍵?」
「この世界から抜け出すための」
「なっ……!?」
この世界はループ。繰り返されている。終わりのない、まごうことない永遠の世界。「次元世界がいくつもあるとして、異次元から異次元へ移るには、家から外に出るように扉を開けなくてはならない。その、鍵。そうねぇ……わかりやすく率直に言うと、これを使えばループを抜け出せるわ」
どう?とリエラは少年に人形を差し出す。
少年は
「いらねぇ」
即答した。
「いらない?なんで?あんた、繰り返すばかりの世界は嫌じゃなかったの?誰にも理解されない世界は辛くなかったの?」
リエラは心底不思議そうに首を傾げた。少年はふん、と鼻を鳴らすだけで答えなかった。ただ言った。
「痛みを知らない幸せな連中の世界。お前はどう思う?リエラ」
「え、あたし?そうねぇ……」
リエラは口元に人差し指を当てながら、斜め上を向いて答えた。
「きみが世界をどうにかするのを見てみたいわ。役目を与えられる前のあたしは他の人と同じだったけど、今は違う。違いを楽しめるわ。まるでおとぎ話の中みたい。傑作よ!」
それは答えのようで、答えではなかった。
「ふーん……」
少年は興味なさげに相槌を打つ。
リエラは何かスイッチが入ったのか、興奮したように続ける。
「そうだよ、これは一つの世界を変える壮大な物語なんだ!きみはその主人公。繰り返してばかりの喜劇のような世界をこじ開けて、新しい世界を手に入れるーーきみだけができる冒険。あたしはそれを間近で見る権利を得た。なんて幸せなんだ!ハハハッ、世界も意外と悪くない」
「……そうかな」
少年はぽそりと呟いた。小さ過ぎてリエラには聞こえなかったようだが。
少女は尚も狂ったように語る。
「知ってる?あたしは今、こうしてピエロ人形を持っているけど、この人形を使えるのはきみだけなんだ。世界を変えることに興味がないのなら結構結構。ならば……壊すというのはどうだい?」
「……何?」
戯れ言と思い聞き流していた少年がリエラの言葉にようやく興味らしきものを示す。リエラは意を得たとばかりに喋り出す。
「そうさ、やり方は簡単。この鍵できみが世界から出て行けばいい。きみを失った世界は一秒と待たずに崩壊する」
この世界を崩壊させる。
少年の耳にはその言葉が甘美に響いた。まんざらでもないらしい、と心の中で苦笑した。
繰り返すだけの世界。痛みのない世界。ーー誰も少年を理解しない世界。
永遠のループの世界をぶち壊す。それができたら、なんていいだろう。俺はもう二度と、疎外に苦しむ必要がなくなる。
そうまで思ったにも拘らず、少年は鼻で笑った。
「はは、こんな世界をぶっ壊して、何になるってんだ?俺は幸せになれるのか?俺にこの幸せな世界を壊せと?……数で言ったら、俺がこの世界を壊した後より、このままの世界の方が断然幸せだ。そして俺は量より質だなんてくそみたいな考えを持ち合わせちゃいない」
「へぇー、意外」
リエラは面白いものを見たような目を少年に向けた。
「繰り返すだけの世界にいたら、もうちょっと……いや、確実にものすごく狂った思考になってると思ってた」
「そうか?」
少年はリエラをまじまじと見て続けた。
「俺には今のお前の方がよっぽど狂ってるように見えるけどな」
言った内容の割にはさらりと告げた少年にリエラは一瞬きょとんとし、乾いた笑みで答えた。
「あはは、そうかもね。……でもこう見えてわりかし大真面目よ。だって、あたしはこの世界が嫌いだった」
リエラは語った。
「正確には、嫌いになった。この役目を与えられて、あたしは初めて[繰り返さない]意識を持ってからだったけど。繰り返してばかりの世界、それがあたしの今いる世界だって知って、あたしは許せなかった。だって、知ったその瞬間からあたしは普通に振る舞うことができなくなった。あたしはみんながこれを知れば、みんなあたしに同調して、この世界を変えるために協力してくれると思った。だから、みんなに教えたんだ。そしたら誰も信じてくれない。……わかる?きみと同じ。あたしは一人になった。……あたしを一人にしたこんな世界を、あたしは許さない。許せない。壊してやりたいよ。でもそれはあたしじゃできない。だからきみに言うんだよ」
少年は答えない。
「だから、世界を壊して……」
リエラは泣いていた。
少年は気づいた。
リエラの体が透け初めていた。ーー消えかけているのだ。
「……もう自分が消えてしまうから、お前は俺に頼むの?」
リエラは頭を振った。
「あたしはこんな世界は記憶をなくして生きていくのでも嫌!……だから、むしろ消えていくこの状況は世界にとってもあたしにとってもいい状況よ。けどね、あたしは消えるとしても、こんな世界があり続けるのは嫌だ。こんな世界が幸せな訳がない!だから変えてほしい!これはもう頼みじゃないわ。祈りよ。本当はきみ自身だってそれを望んでいるはず……!」
リエラは叫んだ。
けれど。
「無理だね」
泣き叫んだリエラに少年は冷たく告げた。酷薄な笑みをーーあるいは、自虐的な笑みを浮かべて。
「俺は人より感覚がちょっと鋭いだけだ。痛みを感じるーー俺のこの感覚はこの世界において、なんて呼ばれているか、知っているか?[妄想]、だとさ。まやかしなんだと。そう決まった。だからもうそれでいいんじゃないの?この世界の人々は別に不自由してないようだし?それが俺の個人的感情で壊されるなんて、迷惑極まりないだろう。でしゃばり過ぎだ。それに俺は神様じゃない。祈りには答えてやれない……」
少年がそう言って乾いた笑みを浮かべる頃にはもうリエラの姿は消えていた。
ことん、と静かにピエロ人形が落ちた。
静かだったが、人形の青い瞳が欠けて、壊れてしまっていた。
ああ、また世界が繰り返されるーー