第4話 再会
朝は、思っていたよりも静かだった。
東京の朝はもっと騒がしいはずなのに、その日は妙に音が少ない。車の走る音も、人の話し声も、どこか遠くで鳴っているようだった。
天野空は、目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
理由は分からない。
眠りが浅かったわけでも、嫌な夢を見たわけでもない。ただ、目が覚めた。それだけだ。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。
強すぎず、白すぎず、夏の終わりらしい、少しだけ湿り気を含んだ光だった。
今日は、特別な予定はない。
講義も午後から。
バイトも入っていない。
それなのに、空はすぐに起き上がった。
ベッドの上でぼんやりする気になれなかった。
洗面所で顔を洗い、鏡を見る。
そこに映る自分は、たぶん「ちゃんとした大学生」だ。髪は整っているし、寝不足の顔でもない。誰かに会っても、困らない。
それでも、どこか落ち着かない。
理由を探そうとして、やめた。
こういう日は、考えても答えが出ないことを、空はもう知っていた。
服を選ぶ。
いつもより少しだけ迷って、結局、無難なものに落ち着く。派手でもなく、印象に残りにくい色。
外に出るとき、なぜかスマホをポケットに入れ直した。
玄関を出た瞬間、空気が肌に触れる。
夏の名残と、秋の気配が、どちらもまだ譲らずに混ざっている。
空は、空を見上げた。
雲が高い。
遠くまで、よく見える。
——今日は、よく晴れる。
それだけのことなのに、胸の奥がわずかにざわついた。
歩き出す。
目的地は、決めていない。
駅へ向かう道を外れ、なんとなく、知らない方向へ足を向ける。
理由はない。
ただ、行ける気がした。
同じ頃、海もまた、朝の光の中にいた。
目が覚めた瞬間、まず呼吸を確かめる。
吸って、吐く。
カーテンを開けると、空が見えた。
高くて、澄んでいる。
最近、こういう朝が増えた。
以前なら、起きること自体が一仕事だった。
それを思えば、これは前進なのだろう。
海は、特別な予定のない休日を前にして、身支度を整えた。
理由は、空と同じだ。
部屋にいると、時間が止まる気がする。
外に出る。
アスファルトは乾いていて、風が少しだけ涼しい。
歩きながら、海もまた、空を見上げた。
同じような雲。
同じような色。
——どこかで、誰かも見ているんだろうか。
そんな考えが浮かんで、すぐに打ち消す。
意味はない。
根拠もない。
それでも、その考えは、なぜか消えなかった。
足は、自然と前へ進む。
知らない道。
見覚えのない角。
そして、視界の端に、鮮やかな色が入り込む。
黄色。
夏の名残のように、まっすぐ立つ花。
海は、ほんの少しだけ歩く速度を落とした。
——ああ。
理由は分からない。
でも、この先で、何かが起きる。
そんな予感だけが、静かに、確かにあった。
ひまわりは、道沿いの花壇に並んで咲いていた。整えられたものではなく、季節に少し置いていかれたような、どこか無防備な咲き方だった。黄色は鮮やかで、でも主張しすぎず、ただそこに立っているだけで空気を変えてしまう力があった。
海は立ち止まるつもりはなかった。足を止める理由はないし、花に特別な思い入れがあるわけでもない。それでも歩幅は自然と小さくなり、視線が花壇の高さに落ちる。ひまわりの影が歩道に伸びていて、その影が風に揺れるたび、時間の流れが少しだけ遅くなるような錯覚を覚えた。
風が吹く。服の裾が揺れ、花弁が擦れ合う乾いた音がする。その音を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに反応した。理由は分からない。ただ、体のどこかが「知っている」と告げている感じがあった。
顔を上げるべきか、迷う。
迷っていること自体に、海は少し驚いた。こんなことで立ち止まるような人間だっただろうか。少なくとも、最近の自分は違うはずだった。前を向くこと。考えすぎないこと。それが、ようやく身につき始めたはずなのに。
それでも、視線はゆっくりと上がっていく。空、花壇の向こう、横断歩道。その途中で、人影が視界に入った。
最初は、ただの通行人だと思った。逆光で輪郭がぼやけていて、顔までは見えない。けれど、立ち姿だけで、胸の奥がざわついた。見覚えがある、というより、忘れきれなかった、という感覚に近い。
——まさか。
その言葉が浮かぶ前に、相手も顔を上げた。
視線が合う。
ほんの一瞬。
だが、その一瞬に、時間が重なった。
背が伸びている。大人びた輪郭。知らないはずの変化。それでも、目だけは、確かに記憶の中のままだった。まっすぐで、少しだけ不器用で、言葉を探している目。
空だった。
声は出なかった。驚きよりも先に、理解が追いつかなかった。ここにいる理由も、今という時間も、すべてが一度に押し寄せてきて、言葉にする余裕を奪っていく。
空も同じ顔をしていた。目を見開き、息を止めたまま、何かを言いかけて、結局何も言わない。その沈黙が、答えの代わりになっていた。
信号が変わる音がする。電子音が、現実を引き戻すように響く。人の流れが動き出し、二人の間に、知らない誰かの肩や腕が入り込む。
海は、視線を逸らした。逃げではなかった。ただ、今ここで踏み出さないという選択だった。空もまた、前を向く。その動きが、あまりにも同時で、あまりにも自然だった。
すれ違いざま、風が吹く。服の裾が触れそうになり、触れなかった。それでも、確かに、相手がそこにいたという感触だけが残る。
振り返らなかった。
振り返ってしまえば、何かが壊れると分かっていたから。
ひまわりは、何事もなかったかのように、同じ方向を向いて立っている。空は高く、光は変わらない。けれど、確かに、時間は動いた。
——同じ空の下で、生きている。
それだけで、今は十分だった。
その日の帰り道、空は何度も立ち止まりそうになった。理由ははっきりしているのに、言葉にすると輪郭が崩れてしまう気がして、結局、足は前に出たままだった。街はいつも通りで、信号は規則正しく切り替わり、人の流れも乱れない。さっきまで、何かが確かに起きていたはずなのに、その痕跡はどこにも残っていなかった。
スマートフォンを取り出し、無意識に画面を見つめる。通知はない。それを確認して、なぜか少しだけ安心してしまう自分がいた。もし、名前が表示されていたら。もし、あの場で声をかけていたら。考え始めれば、いくらでも続きを想像できる。それが、今は怖かった。
海もまた、同じ空の下を歩いていた。歩幅を崩さず、振り返らず、ただ前を向いている。胸の奥に残った違和感を、答えにしないまま抱えながら。再会というには、あまりにも静かで、別れというには、あまりにも曖昧な時間だった。
夕方の光が、街を斜めに切り取る。影が伸び、ひまわりの黄色が、少しだけ鈍く見えた。季節は確実に終わりへ向かっている。それでも、終わったはずのものが、完全に消えるわけじゃない。そんな当たり前のことを、二人は同時に思い出していた。
言葉は交わさなかった。約束もなかった。けれど、確かに、同じ瞬間を生きた。その事実だけが、静かに、胸の奥に残る。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
この物語は、「忘れられなかった時間」について書いたつもりです。
それが恋だったのか、後悔だったのか、あるいはただの記憶だったのかは、
読んでくれた方それぞれの中で違っていていいと思っています。
もし、空や海を見たときに、ふと誰かのことを思い出してしまったなら、
この物語は、あなたの中で少しだけ生きたのかもしれません。
感想など、コメントで教えてもらえたら嬉しいです。
突然ではありますが、次回が最終話となります。
お楽しみに。




