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さよならを海がさらった  作者: Umejuice


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第3話 生きる

そう言葉にしてみても、その時間は現実の重さを伴っていなかった。カレンダーの数字だけが規則正しく進み、僕の感覚は、あの夏の日に置き去りにされたままだった。

夏休みの残りの記憶は、ほとんど残っていない。指の隙間から砂が落ちていくように、気づけば消えていた。朝起きて、顔を洗って、何かを口に運んで、夜になれば布団に入る。その一連の流れは確かにあったはずなのに、ひとつひとつの場面が思い出せない。思い出そうとすると、白く曇った空白が広がるだけで、そこには手応えがなかった。

ただひとつ確かなのは、壊れかけの心をそのまま引きずるようにして、二学期初日の校門をくぐったという事実だった。

門の前で、ほんの一瞬だけ立ち止まった。理由は分からない。進みたくなかったわけでも、戻りたかったわけでもない。ただ、足が止まった。制服の袖を通した腕が、少し重く感じられた。布の感触が、妙に現実的だった。

校舎の中から、ざわめきが流れてくる。久しぶりに聞くはずの音なのに、懐かしさはなかった。知らない場所に入っていくときの、あのわずかな緊張だけがあった。自分がここに属しているのかどうか、確信が持てない感覚。

空と連絡を取り合ったり話すことはなくなった。

約束を交わしたわけでも、避けようと決めたわけでもない。けれど、ふと思い出すたびに、言葉にしない了解が生まれていた。

足音。制服の擦れる音。視界の端に映る輪郭。

目が合いそうになる、ほんの刹那。その前に、どちらからともなく視線を逸らす。窓の外。掲示物。床のタイルの模様。視線を預ける先はいくらでもあった。

あの潮風の中で交わした感情を、もし言葉にしてしまったら、きっと何かが壊れる。元に戻れない、というより、戻る場所そのものが消えてしまう。そんなことを、はっきり考えたわけじゃない。それでも、そうなることだけは、感覚として分かっていた。

だから、何も言わなかった。

――言えなかった、のかもしれない。

行き場を失った想いは、すべて机の上に置いた。問題集を開き、シャープペンを走らせる。答えを出し、丸をつけ、次へ進む。考えているようで、実際には何も考えていない。ただ時間を細かく刻むための作業だった。

授業が終わり、チャイムが鳴り、放課後になる。帰宅して、また机に向かう。ページが進むたびに、時間は確かに減っていった。今日が終わり、明日が来る。その繰り返しだけは、正確だった。

成績は、目に見えて上がっていった。周囲からは前向きな変化として受け取られていたと思う。頑張ってるな、偉いな、そういう言葉を何度か聞いた。そのたびに、うまく反応できなかった。否定も肯定もできず、曖昧に笑うだけだった。

心の奥に穿たれた空白は、少しも埋まらなかった。むしろ勉強に集中すればするほど、その空洞の輪郭だけがはっきりしていく。何も入っていない、という事実だけが、静かに主張してきた。

世界は相変わらず色を失ったままだった。青は青のままなのに深さがなく、音は確かに聞こえているのに、どこか遠い。僕は透明な膜の向こう側から、日々を眺めているだけだった。

第一志望の高校に合格した日も、胸は高鳴らなかった。通知を受け取った瞬間、周囲は沸いた。喜びの声、肩を叩かれる感触。それらを受け止めながら、自分がそこに立っていないような感覚があった。

祝福の言葉の隙間に、ふと混じる「もしも」が、喉の奥に棘のように引っかかる。

――もしも、あの夏が違っていたら。

――もしも、隣に彼女がいたら。

考えても意味のない仮定だと分かっていた。それでも、その事実だけは、どんな未来よりも確かだった。


今振り返れば高校生活は、思っていたよりも静かに始まった。

入学式の日の空の色も、体育館の匂いも、あとから思い返せば確かに覚えている。でも、その場で何かを感じた記憶は薄い。流れに身を任せて立って、名前を呼ばれ、返事をして、拍手の中を通り過ぎただけだった。

クラスメイトの顔は、最初はただの配置として認識していた。前の席、斜め後ろ、窓側、廊下側。名前と顔が結びつくまでに、少し時間がかかった。誰かと打ち解けたいとも、距離を取りたいとも思わなかった。ただ、必要な分だけ関わって、必要以上には踏み込まない。それだけで一日が終わった。

放課後、校舎に残る理由がなかった。部活を見学するでもなく、寄り道をするでもなく、決まった時間に帰宅する。制服のまま電車に乗り、窓に映る自分の顔を見る。その顔が、何を考えているのか、自分でもよく分からなかった。

音楽だけは、完全には切り離せなかった。

イヤホンから流れる音は、外界との境界線をはっきりさせてくれる。誰にも話しかけられず、誰の感情にも触れずに済む。その感覚が、心地よかった。

二年生になって、軽音楽部の存在を知ったのは偶然だった。廊下に貼られたポスター。少し色あせた文字。特別惹かれたわけじゃない。ただ、「音を出してもいい場所」がそこにある気がした。

入部してからの日々は、短い休憩みたいだった。

楽器を持っている間だけ、思考が止まる。誰かの期待に応えようとしなくていい。過去を振り返らなくていい。ただ、今鳴っている音に集中する。それだけで、時間は進んだ。

そこで出会った綾香は、最初から特別だったわけじゃない。

ただ、声を出すときの間の取り方が、妙に懐かしかった。言葉を選ぶときの沈黙が、記憶のどこかに触れる。似ている、と思ってしまった瞬間に、気づかないふりをすることはできなかった。

重ねてはいけないと分かっていた。

それでも、重なってしまう感情を、止める術はなかった。

夏フェスの日の熱気は、現実感を伴っていた。照り返す日差し。汗が流れる感覚。拍手が耳を打つ振動。そのすべてが、生きている証みたいに思えた。だからこそ、演奏が終わった瞬間、勢いに背中を押されるように言葉が出た。

結果は、分かりやすかった。

短い謝罪。視線の揺れ。それだけで十分だった。

そこから、歯車は音を立てずにずれていった。噂話が、いつの間にか空気を支配する。意味のない笑い声が、居場所を削っていく。音楽は、逃げ場ではなくなった。

学校へ行く理由が、また一つ減った。

部屋にいる時間が増え、外の音が遠ざかる。昼と夜の区別が曖昧になる日もあった。それでも、生活は続いた。続いてしまった。

そんなある日、母親から引っ越しの話を聞かされた。

理由は仕事。よくある話だった。遠くへ行くわけじゃない。ただ、今の場所を離れる。それだけのことのはずだった。

部屋に戻って、天井を見上げる。

壁に貼ったポスター。机の上の楽譜。使わなくなったイヤホン。どれも、強く思い入れがあるわけじゃないのに、なくなることを想像すると、少しだけ胸が重くなった。

荷物をまとめ始めると、時間が形を持ち始めた。

畳まれる服。箱に入れられる物。閉じられていく引き出し。ここで過ごした日々が、少しずつ「終わり」に近づいているのが、目に見えて分かった。

それでも、不思議と抵抗はなかった。

引き留めたいものが、もうどこにもない気がしていたからだ。

引っ越し前夜。

部屋は、必要最低限の物だけを残して、妙に広くなっていた。窓の外の街の音を聞きながら、僕はただ座っていた。何かを考えようとしても、言葉は浮かばない。

ここを離れたら、何かが変わるのか。

それとも、何も変わらないまま続くのか。

答えは出なかった。

ただ、時間だけが、静かに次へ進もうとしていた。


空は、その日も、いつもと変わらずそこにあった。

高いとか、広いとか、そういう言葉で測られることを、空は気にしていない。

雲が流れる。

白い部分と、影になる部分が、ゆっくり入れ替わる。

それだけで、時間は進む。

地上では、人が動いている。

箱を運ぶ人。

立ち止まる人。

振り返る人と、振り返らない人。

空から見れば、どれも同じ速さだ。

誰かが何かを失った瞬間も、

誰かが何かを手に入れた瞬間も、

等しく、同じ幅で流れていく。

一人の少年が、窓の前に立っている。

視線は外に向いているが、見ているのは景色じゃない。

空は、それを知っている。

もう一人、別の場所で、同じように空を見上げる少女がいる。

距離はある。

重なり合うことはない。

それでも、見上げている方向は、驚くほど似ていた。

空にとって、再会も別れも、区別はない。

ただ、人の心が、それを特別にする。

風が吹く。

雲の形が、ほんの少し崩れる。

それだけのことだ。

けれど、

その「それだけ」の中に、

名前のない感情が、確かに含まれていることを、

空は、否定しなかった。

家具はまだ残っているのに、生活の音だけが先に出ていってしまったみたいだった。床に置かれた段ボールはすでに封をされたものが多く、部屋の中には「ここで暮らしていた」という事実だけが、薄く残っている。

壁際に立てかけた楽器を、何となく眺める。

開ける理由も、閉じたままにしておく理由も、どちらも思いつかなかった。ただ、そこにある、という状態が一番しっくりきた。

カーテンを少しだけ開けると、夕方の光が部屋に入り込んだ。

白かった壁が、ほんのりオレンジに染まる。時間が進んでいることを、光だけが教えてくれる。

ここで過ごした時間を、思い返そうとしてみる。

楽しかった記憶も、後悔も、ちゃんとあるはずなのに、順番立てて思い出すことができない。すべてが混ざり合って、形を失っている。それでも、不思議と不安はなかった。

引っ越すこと自体は、ずっと前から決まっていた。

大学。新しい街。新しい生活。

どれも現実的で、ちゃんとしていて、間違っていない選択だった。

それなのに、部屋を見渡すたび、胸の奥に小さな引っかかりが生まれる。

名前をつけるほど大きな感情じゃない。

ただ、「ここを出る」という事実が、思っていたよりも重たかっただけだ。

机の引き出しを開けると、使い切れなかったノートが一冊出てきた。

最初の数ページだけ文字が詰まっていて、その後は真っ白だ。

何を書こうとしていたのかは、もう思い出せない。

ページを閉じて、段ボールに入れる。

捨てる理由も、残す理由も、結局は同じだった。

今は判断できない、というだけ。

夜になると、部屋の静けさはさらに濃くなる。

外を走る車の音が、やけに遠い。

ここにいるのが自分一人だけじゃないか、そんな錯覚さえする。

ベッドに腰を下ろし、天井を見上げる。

この天井を見るのも、今日が最後だと思うと、ようやく実感が追いついてきた。

終わるんだ、という感覚。

始まる、ではなく。

スマートフォンを手に取って、すぐに伏せる。

連絡したい相手がいるわけじゃない。

ただ、何かを確かめたかっただけだ。

窓の外には、月が浮かんでいた。

雲が流れ、そのたびに光が弱くなったり、強くなったりする。

同じ空の下で、誰かも同じ月を見ているかもしれない、そんな考えが、自然と浮かぶ。

考えないようにしていた名前が、輪郭だけを伴って現れる。

はっきり呼ばなくても、分かってしまう。

思い出すことと、引きずることは、必ずしも同じじゃない。

明日、この部屋を出る。

もう戻らない。

その事実だけが、静かに胸の中に置かれた。


斜陽


目が覚めたとき、最初に感じたのは眠気ではなく、部屋の空気の軽さだった。音が少ない。冷蔵庫の低い唸りも、隣の部屋から聞こえていた生活音も、どこか遠い。時計を見ると、いつもより少し早い時間を指していた。二度寝をしようという気は起きず、そのまま身体を起こす。

床に足をつけた瞬間、ひんやりとした感触が伝わってくる。裸足で歩くには、もう夏とは言えない温度だった。洗面所に向かい、顔を洗う。水は冷たく、眠気より先に現実を連れてくる。鏡に映った自分は、昨日と何も変わっていないはずなのに、どこか輪郭がはっきりして見えた。

歯を磨き、髪を整え、服を選ぶ。段ボールの隙間に残しておいた私服は、どれも無難なものばかりだった。派手さも、強い主張もない。今日のために選んだわけじゃない。結果的に、残っただけだ。シャツに腕を通しながら、これでいい、と心の中で短く言う。

朝食は取らなかった。空腹はあるが、食べるほどでもない。台所に立つと、使われなくなったシンクが妙に広く感じられる。最後に水を出し、蛇口を閉める。その音が、やけに大きく響いた。

部屋に戻り、最終確認をする。忘れ物がないか、というより、もう残すものがないかを確かめる作業だった。クローゼットは空で、机の上も何もない。引き出しを一つずつ開けては閉める。その動作に、意味はほとんどない。ただ、ここにいた時間に、きちんと区切りをつけたかった。

楽器に、そっと手を置く。持っていく。迷いはなかった。音楽を続けるかどうかとは別に、これだけは一緒に行くと決めていた。理由は説明できない。ただ、置いていく選択肢が浮かばなかった。

窓を開けると、朝の空気が一気に流れ込んできた。少し湿っていて、少し冷たい。遠くで車の音がする。街は、もう動き出している。自分だけが、ほんの少し取り残されているような感覚があった。

空を見る。雲は少なく、青がはっきりしている。悪くない天気だ、と思う。それ以上でも以下でもない。こういう日は、だいたい何かが始まるか、終わるかのどちらかだと、勝手に思っていた。

玄関に向かい、靴を履く。何度も使ったはずのスニーカーが、今日は少しだけ硬く感じられた。鍵を手に取る。ドアノブに触れた瞬間、一瞬だけ動きが止まる。名残惜しい、というほどの感情はない。ただ、ここで一度区切らないと、前に進めない気がした。

部屋を振り返る。

もう、十分だ。

ドアを閉め、鍵をかける。金属音が、はっきりとした輪郭をもって響いた。その音を最後に、ここでの生活は過去になる。そう理解するのに、時間はかからなかった。

階段を下りながら、胸の奥に、静かな空白が広がっていくのを感じた。悲しいわけでも、不安なわけでもない。ただ、何かが抜け落ちたあとにできる、自然な余白だった。

外に出ると、朝の光が目に入る。少し眩しい。

今日から、別の場所で生きていく。

その事実だけが、淡々と、確かにそこにあった。

大学に入った春、街はやけに明るかった。講義棟のガラスに反射する空は高く、期待という言葉だけが先行して、足元の感触が少し遅れてついてくる。周りは新しい友人、サークル、将来の話で満ちていて、彼も笑ってうなずきながら、その輪の中にいた。学食のざわめき、キャンパスを吹き抜ける風、夕方に赤く染まる空。それらは確かにきれいで、悪くなかった。ただ、胸の奥に小さな空洞があって、そこに何かがはまらないまま時間だけが進んでいった。

卒業後に就いた仕事は、数字と期限と無言の圧でできていた。朝の空はまだ青いのに、出勤する足取りは重く、デスクに座ると世界が急に狭くなる。ミスをしないように、遅れないように、それだけを考えているのに、心はすり減っていった。夜、帰り道に見上げる空は暗く、星が出ていることに気づく余裕もなかった。休日も疲れは抜けず、眠っても起きても、同じ重さが胸に残る。好きだったはずの音楽も、風景も、色を失っていった。

限界だと自覚したのは、ある平日の午後だった。窓の外は澄み切った青で、雲がゆっくり流れているのに、自分だけがそこから切り離されている感覚があった。辞める決断は簡単ではなかったけれど、続ける理由も見つからなかった。仕事を離れてからしばらく、時間はゆがみ、昼と夜の境目が曖昧になった。それでも少しずつ、呼吸は楽になっていった。

引っ越し前日の部屋は、音が少なかった。箱に詰められた本、畳まれた服、壁に残る日焼けの跡。カーテンを開けると、夕方の空が部屋いっぱいに広がる。高いところを飛ぶ飛行機雲が一本、静かに伸びていくのを眺めながら、ここで過ごした時間を思い返す。大学の帰り道、仕事に向かう朝、何もできずに天井を見ていた日々。その全部が、この空の下にあった。

そして、空はそれらを等しく見下ろしている。笑っていた日も、立ち止まった日も、何も進めなかった日も。雲は形を変え、光は角度を変え、街は静かに入れ替わっていく。引っ越しのトラックが来るまでのわずかな時間、彼はもう一度だけ空を見上げた。終わるものがあり、始まるものがある。その境目に、空だけは変わらず、ただ広がっていた。

朝が来るのが怖かった。目覚ましが鳴る前に目は覚めているのに、体が動かない。天井を見つめながら、起き上がる理由を探すけれど、どれも指の間からこぼれ落ちていく。会社に行かなければならない、遅れたら迷惑がかかる、そんな考えは浮かぶのに、それを実行に移す力がなかった。布団の中で時間だけが進み、外の光が白から青へ、青から灰色へと変わっていく。

職場では、言葉が遠かった。上司の声も、同僚の会話も、水の中から聞いているようで、意味を理解するのに一拍遅れる。画面に並ぶ文字が頭に入らず、簡単な作業でさえ何度も確認しないと不安になる。ミスをすれば必要以上に自分を責め、何も起きなくても、次に壊れる予感だけが胸に残った。笑顔を作ることが仕事の一部になり、その仮面を外すタイミングを失っていった。

帰宅しても休まらなかった。ソファに座っても、横になっても、心は常に張りつめている。好きだった音楽を流しても、旋律はただの音になり、映画を見ても物語が頭に残らない。何もしていないのに疲れていて、疲れている理由を説明できないことが、さらに自分を追い詰めた。夜になると、空は静かに暗くなるのに、頭の中だけが騒がしく、眠れないまま朝を迎えることも多かった。

「頑張ればどうにかなる」という言葉が、一番遠かった。頑張るという行為自体が、もう手の届かない場所にあったからだ。周りと比べてしまい、自分だけが止まっているように感じる。その感覚が、足首に重りのように絡みつき、一歩をさらに重くした。窓の外に広がる空は相変わらず広く、雲は流れ、季節は進んでいくのに、自分の時間だけが凍りついているようだった。

それでも、完全に何も感じなくなったわけではなかった。夕方、ビルの隙間に見える空が少し赤く染まる瞬間、理由もなく胸が苦しくなることがあった。失ったものなのか、まだ手に入れていないものなのか、その正体はわからない。ただ、空を見上げている間だけ、自分がまだここにいるという感覚が、かすかに残っていた。

限界は、音もなく近づいていた。ある朝、身支度を整えたまま玄関で立ち尽くし、靴に足を入れることができなくなった。ドアノブに手を伸ばせば外に出られる、それだけのことなのに、指先が冷えて動かなかった。頭の中では「行かなきゃ」が反響しているのに、体は別の判断を下していた。ここから一歩出たら、何かが完全に壊れる。理由はわからないが、そう感じていた。

欠勤の連絡を入れるまでに、異様に時間がかかった。短い文面を考えるだけで息が詰まり、送信ボタンを押したあと、しばらく画面を見つめていた。返事が来るまでの沈黙が怖くて、同時に、来てほしくないとも思った。責められる想像と、心配される想像、そのどちらも自分を傷つけた。

その日から、世界はさらに小さくなった。カーテンを開けない日が増え、昼と夜の区別が曖昧になる。食事は義務になり、味はなく、噛んで飲み込む作業だけが残った。鏡に映る自分の顔が他人のように見え、感情の起伏が消えていく一方で、理由のない不安だけが底に沈殿していった。何も起きていないのに、ずっと何かに追われている。

それでも、完全に沈みきることはなかった。ある日、病院の待合室で、窓から差し込む光に気づいた。特別な光ではない。ただの午後の光だった。その光が床に落ちているのを見て、「まだ外は続いている」と思った。その一文が、頭の中に残った。救いと呼ぶにはあまりに小さく、でも無視できない感覚だった。

少しずつ、生活に隙間が戻り始めた。最初は、朝に顔を洗えるようになったこと。それから、短い散歩。人と話すと疲れるから、言葉はいらない場所を選んだ。空を見る時間が増えた。雲の形が昨日と違うこと、風の向きが変わること、そんな当たり前の変化を、前よりもはっきり感じるようになった。自分の中の時間が、ほんのわずかに動き出している気がした。

復帰は劇的ではなかった。元に戻った、という感覚もない。ただ、できないことの中に、できることが一つ混ざる日が現れた。それが二つになり、三つになり、またゼロに戻る日もあった。それでも、完全な暗闇ではなくなっていた。少なくとも、空を見上げる余裕だけは、失わずに済んでいた。



調子が戻ってきた、と思った翌日に限って、足元は簡単に崩れた。できていたことが、急にできなくなる。昨日は平気だった雑踏が、今日は刃物みたいに耳に刺さる。朝起きて、今日は行けると判断した自分を、昼には疑い始めている。回復は一直線じゃない、と頭ではわかっていても、体験として受け止めるのは難しかった。

「もう大丈夫」という言葉は、使うたびに軽くなった。言い聞かせるほど、嘘に近づく気がした。だから、言い換えるようになった。「今日は、昨日より少しだけまし」。それなら、裏切られにくい。少しだけ、という幅の中に、失敗も後退も含められるから。

復帰の日は、拍子抜けするほど静かだった。特別な感情は湧かず、達成感もない。ただ、時計が進み、決められた時間が終わった。それだけで、胸の奥に重みが残った。できた、という事実が、言葉にならないまま沈んでいく。喜びではなく、確認に近かった。まだ折れていない、という確認。

その帰り道、空を見上げた。雲が低く、色の境目が曖昧だった。きれいだとも、醜いとも思わない。ただ、動いている。自分が立ち止まっている間も、世界は勝手に進んでいる。その不公平さが、なぜか救いに感じられた。自分が頑張らなくても、空は空であり続ける。

夜、ベランダに出て、同じ空をもう一度見た。朝より少しだけ濃い色。境目はさらに溶けて、輪郭を失っている。ここまで来られた、と思った。ここから先は、まだ見えない。でも、見えないこと自体が、もう恐怖の中心ではなかった。



空は、何度も同じ場所を見下ろしてきた。人が立ち止まり、また歩き出す、その繰り返しを、名前も理由も知らないまま。今日も、彼はそこにいた。以前より少しだけゆっくりで、少しだけ慎重で、それでも確かに前を向いている。空にとっては些細な違いだが、見逃せない変化だった。

空は、何も祝わない。何も評価しない。ただ、同じ広さで、同じ距離から、等しく覆う。それでも、彼が見上げた瞬間だけ、わずかに近づいた気がした。錯覚だと知りながら、空はその錯覚を否定しなかった。

空は、変わらない。それは強さではなく、ただの性質だった。季節が移ろい、街が塗り替えられ、人の顔ぶれが入れ替わっても、空はいつも同じ高さにあった。期待も失望も抱えず、何かを覚えておく義務もない。それでも不思議と、何度も同じ場所を見下ろしてしまうことがある。彼が歩いている道も、そのひとつだった。

以前の彼は、空を見なかった。正確に言えば、視線を上げることはあっても、空を意識してはいなかった。通過点のようなものだった。けれど今は違う。彼は立ち止まり、呼吸を整え、そこに空があることを確かめるように見上げる。空はそれを回復とは呼ばない。名前を与えない代わりに、ただの変化として受け取っている。

彼は、以前より遅くなった。足取りも、判断も、言葉の選び方も。だがその遅さは後退ではなかった。崩れないために速度を落としているだけだということを、空は知っている。知っているが、伝える術を持たない。

空はすべてを見ている。同時に、何も分かっていない。彼が夜にうずくまり、朝に起き上がるまでの時間を、空はただ覆っていただけだ。苦しみの質も、重さも、理由も、空には届かない。ただ、光の当たり方が変わる瞬間だけが、記憶として残る。

それでも、彼が見上げる回数が増えたことは確かだった。空にとって人は無数の点にすぎない。それなのに彼は、点のままではいなかった。ある日とある日の違い。昨日と今日の差。立っているか、歩いているか、止まっているか。空はそれらをすべて同じ距離から眺めている。近づきも、遠ざかりもしない。その公平さは、人にとって残酷で、同時に救いでもある。

彼は空に何も求めていない。答えも、慰めも、約束も。ただ「ここにある」と確認したいだけだ。空はそれに応えることはできないが、拒むこともしない。覆い続ける。同じ広さで、同じ高さで。

空は変わらない。だが変わらないからこそ、変わっていく人間を際立たせてしまう。彼がまた歩き出したとき、空は少しだけ明るくなった。理由はない。意味もない。ただ雲の切れ目が動いただけだ。それを希望と呼ぶかどうかは、人間の役目だった。

彼は、立ち止まって空を見上げていた。理由はなかった。ただ、そこに空があることを確かめるように、視線を上へ向けただけだった。雲は薄く、輪郭を保ったままゆっくり流れている。夏ほど高くなく、冬ほど鋭くもない、曖昧な色の空だった。

呼吸をすると、胸の奥で小さく引っかかるものがあった。完全に消えたわけではない。思い出せば痛むし、触れれば形を取り戻してしまいそうな感情も、まだ確かに残っている。それでも彼は、目を逸らさなかった。空を見ている間だけは、自分がどこに立っているのかを、少しだけはっきりと感じられたからだ。

同じ空を、誰かも見ているかもしれない。そんな考えが、ふいに浮かんだ。根拠はない。ただ、あの夏から何度も繰り返してきた想像だった。遠く離れた場所で、同じ高さを見上げる視線。交わることはなくても、同時に存在しているという事実だけが、かろうじて彼を現実につなぎ止めていた。

空は答えない。それでも、見上げるという行為そのものが、彼にとっては十分だった。過去をなかったことにしないまま、先へ進むための、ほんの小さな動作。彼は息を吐き、もう一度だけ空を確かめてから、視線を下ろした。

――その頃、別の場所で。

空もまた、空を見ていた。

彼女は立ち止まっていたわけではない。歩きながら、ふと視線が上に引き寄せられただけだった。理由を考える前に、体が先に反応してしまう。そういう瞬間が、最近は増えていた。空を見上げるたび、胸の奥に名前のつかない感覚が生まれ、それが消える前に、また日常に戻っていく。

同じ空だ、と思った。根拠はない。それでも確信に近いものがあった。遠く離れていても、見上げた先に広がっているのは、きっと同じものだ。彼女はそれ以上考えなかった。考えすぎると、思い出してしまうからだ。言葉にしなかった感情も、置いてきたはずの時間も。

空は何も語らない。ただ、等しく覆っている。それだけで、彼女には十分だった。

彼女は視線を下ろし、歩き出す。知らない誰かと同じ空を見ていたことに気づかないまま、それでも確かに、同じ高さを胸の奥に残しながら。


天野空は、朝の電車に乗っていた。吊り革につかまり、足元の広告をぼんやり眺める。特別混んでいるわけでも、空いているわけでもない。いつも通りの時間、いつも通りの車両だった。

窓に映る自分の顔は、思ったより大人びて見えた。目の下にうっすらと影があり、髪はきちんと整えられている。学生だった頃の面影は残っているはずなのに、そこに重なっていたはずの何かは、もう見当たらなかった。

会社に着くと、淡々と一日が始まる。メールを確認し、資料を開き、指示された作業を進める。会話は必要最低限で、雑談はほとんどしない。それで困ることはなかった。むしろ、そのほうが楽だった。

昼休みは、一人で済ませることが多い。選ぶ店も、頼むメニューも、だいたい決まっている。変える理由がない。味に期待もしないし、失望もしない。ただ空腹が満たされれば、それで十分だった。

ふと、窓の外に視線をやる。ビルの隙間に、切り取られたような空が見える。色は薄く、雲は少ない。季節の境目にある空だ、と彼女は思った。どこにも行かず、ただそこにあるだけの空。

昔は、空を見るたびに立ち止まっていた気がする。理由を探したり、意味を重ねたりしていた。でも今は違う。見上げても、何も考えない。ただ「ある」と確認するだけだ。それ以上でも、それ以下でもない。

仕事を終えて、駅へ向かう。人の流れに逆らわず、一定の速度で歩く。スマートフォンの画面を確認しながら、無意識に歩数を刻む。今日が何曜日か、少し考えてから思い出した。

ホームで電車を待っていると、風が吹いた。髪がわずかに揺れる。その感覚に、彼女は一瞬だけ足を止めた。理由は分からない。ただ、胸の奥で何かが引っかかった気がした。

空を見上げる。

青は薄く、奥行きも感じられない。それでも、確かに広がっている。彼女はそれを数秒見つめてから、視線を戻した。名前を呼ばれた気がしたわけでも、記憶が蘇ったわけでもない。ただ、見ただけだ。

――同じ空を、誰かも見ているかもしれない。

そう考えて、すぐにその考えを手放した。根拠がないし、意味もない。過去は過去で、今は今だ。そうやって自分の気持ちに線を引くことは、もう習慣になっていた。

電車が到着する。ドアが開き、人が乗り込む。彼女もその流れに乗り、車内へ入った。吊り革を掴み、足元を見る。視線が、再び上に向くことはなかった。

それでも、胸の奥に残ったわずかな引っかかりは、消えないままだった。気にするほどのものじゃない、と判断するには、ほんの少しだけ、存在感がありすぎた。

電車を降りて、改札を抜ける。人の波に押されるようにして、地上へ出た。夕方の空気は少し乾いていて、昼間よりも輪郭がはっきりしている。街灯が、ひとつずつ灯り始めていた。

スマートフォンが震える。画面を見ると、会社の先輩からのメッセージだった。

「さっきの資料、数字合ってた?」

短い文。責める調子ではない。ただの確認だと分かっている。

「確認します」

そう返してから、立ち止まった。もう一度、頭の中で資料をなぞる。確かに見直したはずだった。でも、その「確か」が、急に信用できなくなる。胸の奥が、わずかに重くなる。

帰宅してからパソコンを開き、該当のデータを探す。画面に並ぶ数字を、何度も目で追う。間違いはない。少なくとも、表面上は。

それでも、安心はしなかった。

「見落としている気がする」

理由のない感覚だけが残る。

最近、こういうことが増えた。

失敗していないのに、失敗したような気分になる。

問題が起きていないのに、起きる前触れだけが先に来る。

先輩から「大丈夫だったよ」と返事が来る。

それを見て、ようやく息を吐いた。気づかないうちに、肩に力が入っていたらしい。

夕食は、冷蔵庫にあったもので簡単に済ませた。味は、ちゃんと分かる。でも、美味しいとも、不味いとも思わない。ただ「食べ終わった」という事実だけが残る。

風呂に入り、髪を乾かし、ベッドに腰を下ろす。時計を見ると、まだそれほど遅くはなかった。けれど、何かをしようという気にもなれず、そのまま横になる。

天井を見つめながら、空の色を思い出す。

今日、何度も見たはずの空。

なのに、どんな色だったのか、はっきりとは思い出せない。

目を閉じると、昼間の数字や文字が、断片的に浮かんでは消える。その合間に、理由の分からない不安が、静かに混じる。名前も形もないまま、胸の内側に沈殿していく。

「大丈夫」

口に出してみる。

誰に向けた言葉でもない。

返事は、もちろん返ってこなかった。



それからしばらく、特別な出来事はなかった。

仕事は続き、通勤電車は毎朝同じ時間に揺れ、街の景色も、季節なりに移り変わっていった。

調子は、良くも悪くもなかった。

極端に落ち込むことは減ったが、完全に晴れたとも言えない。霧が薄くなった分、世界の輪郭は見えるようになったけれど、その分、距離感の掴めなさが残っていた。

休日は、できるだけ外に出るようにした。

理由はない。

部屋にいると、時間が固まってしまう気がしたからだ。

歩く。

ただ、それだけ。

目的地を決めない散歩は、不思議と楽だった。右に曲がっても、左に曲がっても、失敗にはならない。選択に、意味を持たせなくていい。

ある日、知らない道に入った。

昔からあるはずなのに、今まで一度も通ったことのない道。そこに小さな花壇があった。手入れが行き届いているわけでもないのに、季節外れの花が、いくつか咲いている。

足を止めるほどの理由はない。

それでも、なぜか視線が引っかかった。

そのとき、ふと思った。

自分は、どこへ向かおうとしているのだろう、と。

答えは出ない。

でも、以前のような焦りはなかった。

分からないままで立ち止まれる、という感覚が、少しだけ戻ってきていた。

空を見る回数が、増えた。

朝の空。

夕方の空。

夜、帰り道で見上げる空。

雲の形や色を、無意識に覚えている自分に気づく。

同じ空は、二度とない。

分かっているのに、どこかで「誰かと共有している気がする瞬間」があった。

その感覚は、説明できない。

懐かしさとも、期待とも違う。

ただ、「近づいている」という確信だけが、根拠もなく残る。

一方で、空もまた、同じような日々を過ごしていた。

東京の生活は忙しく、刺激に満ちているはずなのに、ふとした瞬間に、立ち止まってしまう。

駅のホーム。

信号待ち。

人混みの中。

理由もなく、足が止まる。

そのたびに、視線は自然と空へ向かった。

同じ時間、同じ空。

交わるはずのない二人の視線が、まだ見えない線で、少しずつ引き寄せられていく。

それは、運命と呼ぶほど劇的なものじゃない。

偶然と呼ぶには、あまりにも静かで、確かだった。

そして、ある朝。

特別な予定のない一日が、何の前触れもなく始まる。

ただ、それだけで、十分だった。

その日が、すべてを動かす日だと、まだ誰も知らないまま。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

この物語は、「忘れられなかった時間」について書いたつもりです。

それが恋だったのか、後悔だったのか、あるいはただの記憶だったのかは、

読んでくれた方それぞれの中で違っていていいと思っています。

もし、空や海を見たときに、ふと誰かのことを思い出してしまったなら、

この物語は、あなたの中で少しだけ生きたのかもしれません。

感想など、コメントで教えてもらえたら嬉しいです。

第4章もお楽しみに

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