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第二話 空白

――痛みは、いつも静かに始まる

あの出来事があってから、時間の流れが少しだけ速くなった気がしていた。

朝のホームで電車を待つ時間も、授業の合間のチャイムも、放課後の校舎に残る光も、すべてが昨日より短く感じられる。

理由は、たぶん分かっていた。

終わりが、近づいていたからだ。

「あと6ヶ月だね」

誰かが何気なく言ったその一言が、胸の奥に沈んで、なかなか浮かび上がってこなかった。

六ヶ月“も”あるのか、六ヶ月“しか”ないのか。

その違いを考えるだけで、頭が少し痛くなった。

空は、相変わらず僕の隣を歩いていた。

教室の窓際、帰り道の自販機の前、駅へ向かう坂道。

距離は変わらないはずなのに、前よりも会話が少なくなった気がしていた。

沈黙が嫌になったわけじゃない。

ただ、その沈黙に意味が生まれ始めたことが、怖かった。

以前は、何も考えずに笑えていた。

くだらない話をして、意味のない冗談を言って、時間を浪費することが楽しかった。

でも、三年生になってからは違った。

進路、将来、夢。

誰もが口にする言葉が、僕たちの間にも入り込んでくる。

空は、よく考え込むようになった。

遠くを見る目をして、僕の知らない世界を見ているような顔をすることが増えた。

「どうしたの?」

そう聞くと、空はいつも同じように笑った。

「なんでもないよ」

その言葉が、本当じゃないことだけは分かった。

でも、それ以上踏み込む勇気は、僕にはなかった。

踏み込んでしまえば、何かが壊れてしまいそうだったから。

この関係が、音を立てて崩れてしまう気がしていたから。

放課後、教室に残る光が少しずつ薄くなっていく。

黒板に残った文字も、机に落ちた影も、全部が曖昧になっていく時間。

その中で、僕は一人、考えていた。

このまま、何も言わずにいればいいのか。

それとも、何かを言わなければいけないのか。

答えは出ない。

出ないまま、時間だけが進んでいく。

痛みは、いつもこうして始まる。

大きな出来事じゃない。

泣くほどの理由もない。

ただ、少しずつ、確実に、

「今までと同じじゃいられない」と気づいてしまうことから。


――言えなかったこと、言われなかったこと

空が変わった、と言い切るには弱すぎて、

でも、何も変わっていないと言うには、確かに違いすぎていた。

昼休み、空はよく誰かと話すようになった。

クラスの中心にいるわけでもなく、特別楽しそうというわけでもない。

ただ、僕の知らない話題で、僕の知らない顔を見せていた。

その輪の外から、それを眺めている自分に気づいたとき、

胸の奥で、何かがひっそりと音を立てた。

嫉妬、とは少し違う。

怒りでも、悲しみでもない。

名前をつけるには、まだ早い感情だった。

放課後、いつものように並んで歩く。

歩幅も、距離も、昨日と同じはずなのに、

会話だけが、どこか噛み合わない。

「最近、忙しそうだね」

何気なく言ったつもりだった。

責めるつもりも、探るつもりもなかった。

「うん、まあね」

空はそれだけ答えて、少しだけ歩くスピードを上げた。

その背中を見ながら、僕は思う。

——ああ、もう追いつけていない。

前は、同じ景色を見ていたはずなのに。

今は、空の背中しか見えていない。

言葉にすれば、楽になるのかもしれない。

不安だ、とか。

置いていかないでほしい、とか。

でも、それを口にした瞬間、

この関係が「守られるもの」から「縛るもの」に変わってしまいそうで、

僕は黙るしかなかった。


最近、海が静かだ。

前は、何でも言葉にしてくれたのに。

今は、笑ってはいるけれど、どこか遠い。

本当は、分かっている。

私が少しずつ、未来のほうへ歩き出していること。

海が、まだ今に留まろうとしていること。

置いていきたいわけじゃない。

ただ、立ち止まれなくなっただけ。

それを言えば、きっと傷つける。

言わなければ、もっと傷つける。

どちらを選んでも、

同じ空は見られない気がしていた。

――

駅のホームで電車を待つ。

風が強くて、空の髪が少し乱れる。

「先、帰るね」

その一言が、思った以上に重く落ちた。

前なら、一緒に帰るのが当たり前だったのに。

「うん」

それしか言えなかった自分が、悔しかった。

電車が来る。

扉が閉まる。

空は振り返って、小さく手を振った。

その仕草が、なぜかひどく遠く感じられて、

僕は、手を振り返すことができなかった。

このとき、まだ知らなかった。

これが「始まり」だったのか、

それとも、もう「途中」だったのか。

ただ一つ分かっていたのは、

この沈黙が、いつか言葉よりも重い意味を持つ、ということだけだった。

高校生活

――同じ空の下、別の場所で

高校の校門は、中学よりも少しだけ遠く感じた。

家を出る時間が早くなったせいか、それとも、もう隣に誰もいないせいか。

理由は分からなかったけれど、朝の空気は確実に違っていた。

制服は新品で、まだ身体に馴染んでいない。

鏡に映る自分は、背だけが少し伸びて、

中身だけが、取り残されたままのように見えた。

入学式の日、体育館はざわついていた。

知らない名前、知らない声、知らない笑い方。

それらが一気に流れ込んできて、頭が追いつかない。

席に座って、前を向く。

名前を呼ばれて、返事をする。

それだけのことなのに、胸の奥が妙に重かった。

——ここには、空はいない。

当たり前の事実を、何度も頭の中でなぞる。

同じ市内にいるはずなのに、

同じ時間を生きているはずなのに。

休み時間、クラスの誰かが話しかけてくる。

ぎこちなく笑って、無難に答える。

「いい人」くらいにはなれたと思う。

でも、放課後になると、急に世界が静かになる。

校舎を出て、夕方の風に当たった瞬間、

胸の奥の空白が、はっきりと形を持つ。

中学の頃なら、

「今日どうだった?」

そんな一言が、帰り道にあった。

今は、それがない。

スマホを取り出して、画面を見る。

通知はある。

けれど、そこに空の名前はない。

もう、分かっている。

高校が違えば、生活も、距離も、簡単に変わる。

誰かを責める話じゃない。

それでも、

制服の色が変わっただけで、

こんなにも世界が別物になるなんて、思っていなかった。

夜、ベッドに横になる。

天井を見つめながら、

ふと、同じ時間に空も空を見ているんじゃないか、と思ってしまう。

すぐに、その考えを打ち消す。

そんなことを考えるほど、弱くなりたくなかった。

明日は、また学校だ。

新しい友達、新しい授業、新しい毎日。

前に進まなきゃいけない。

それは、分かっている。

でも、

心のどこかで、

まだ中学の校舎に立ち尽くしている自分がいることを、

僕は無視できずにいた。

二学期に入って少し経った頃、クラスの中でようやく名前を呼ばれる回数が増えた。特別に親しいわけではない。昼を一緒に食べる相手ができたわけでもない。ただ、席替えをきっかけに、どうでもいい会話が生まれ、「今日の数学どうだった?」そんな言葉が自然に投げられるようになった。それだけで、止まっていた世界がほんの少しだけ現実に戻った気がした。

放課後、昇降口で靴を履き替えていると、クラスの女子が声をかけてきた。その声の高さに、心臓が一瞬だけ跳ねる。似ている、と思ってしまった。声の質も、話す速さも、言葉を選ぶときの間の取り方も。自分でも嫌になるくらい、反射的だった。「まあ、なんとか」そう答えながら、授業内容なんてほとんど頭に残っていなかった。

駅までの帰り道を並んで歩く。他愛もない話をして、テストや部活や音楽の話をする。その会話の中には、最初から空の存在がないみたいだった。それでも、人と一緒に歩く帰り道は久しぶりで、駅前のコンビニで別れるときに「また明日ね」と言われた瞬間、胸の奥がわずかに温かくなる。——これでいいのかもしれない。そう思えたのは、ほんの数分だった。

家に帰り、制服を脱いでベッドに腰を下ろした瞬間、その温度は急速に冷えていった。似ているだけだ。同じじゃない。分かっているのに、比べてしまう。あの時、空ならこんな言い方はしなかった。こんな表情はしなかった。比べるたびに、目の前の誰かが少しずつ薄くなっていく。それが相手にとっても、自分にとっても失礼なことだと分かっていたから、距離を取った。話しかけられても一歩引いた返事をする。笑顔も必要最低限にする。救いに見えたものは、触れた瞬間に形を失った。

夜、窓を開けると風が入ってきて、カーテンが静かに揺れる。同じ風が、別の場所で空の髪を揺らしているかもしれない。そんな考えが浮かんで、すぐに自己嫌悪が追いかけてくる。前に進みたい。でも、忘れたくはない。その矛盾が、高校生活の真ん中で、静かに、確実に、僕を削っていった。


空は、廊下の端で立ち止まったまま、窓の外を見ていた。二学期の光は夏よりも低く、ガラス越しに入る風は少しだけ冷たい。校庭の声が遠くで弾んでいる。その中に、彼の声はない。それが分かるまで、無意識に耳を澄ませてしまっていた自分に気づいて、空は小さく息を吐いた。

すれ違うかもしれない。そう思うだけで、心臓が速くなる。けれど、実際に目が合ってしまうことはなかった。合いそうになって、逸らす。逸らされていることにも気づく。その一瞬のやり取りだけで、もう十分だった。話せば、きっと壊れる。壊れたあとに戻れる場所がないことを、空は彼よりも先に理解していた。

放課後、駅へ向かう人波の中で、ふと同じ背中を探してしまう。見つからないと、安心と失望が同時にやってくる。選んだのは自分だ。それでも、選んだ結果の重さは、毎日少しずつ増していく。空は、誰にも見せないまま、その重さを抱えて帰路についた。

――――――

高校に入ってからの生活は、音のない水の中を歩いているみたいだった。呼吸はできる。前にも進める。ただ、すべてが鈍い。教室のざわめきも、授業の説明も、周囲の笑い声も、膜を一枚挟んで聞こえてくる。現実に触れている感触だけが、どこか欠けていた。

一年生になった夏、僕は軽音楽部の扉を叩いた。理由は単純だった。考えなくて済む時間が欲しかった。音を出している間だけ、頭の中が空白になる。その空白が、唯一の救いだった。スタジオの湿った空気、アンプの低い唸り、ドラムスティックが皮を打つ乾いた音。それらは、言葉よりも正直に、僕を現実につなぎ留めてくれた。

そこで出会った星野綾香は、驚くほど自然に、僕の視界に入り込んできた。最初は偶然だと思った。似ている名前、似ている声。笑うときに少し首を傾ける癖。重ねるつもりはなかった。けれど、重ならないように意識するほど、意識の中心に居座っていく。過去を見ているのか、今を見ているのか、その境目が曖昧になっていった。

ライブの帰り、熱を帯びた夜気の中で、勢いだけで言葉がこぼれた。告白は静かで、逃げ道も用意していなかった。返ってきたのは、短い謝罪だった。その一言で、音楽が急に遠くなる。翌日から、スタジオは居場所じゃなくなった。噂は軽く、笑いは無責任で、視線だけがやけに重い。音はまだ鳴っているのに、僕だけがそこにいなかった。

学校からも、音楽からも、少しずつ距離ができた。誰にも分かってほしくない。でも、誰かに見つけてほしい。その矛盾が、毎日同じ形で胸を削る。前に進んでいるつもりで、実は同じ場所を踏み続けている。高校生活は、そうやって静かに、僕をすり減らしていった。

それからの日々は、均質だった。特別に悪いことは起きない。特別に良いこともない。ただ、同じ時間が、同じ速さで流れていく。教室の時計は正確で、チャイムは決まった瞬間に鳴る。けれど僕の中の何かだけが、少しずつ遅れていった。

昼休み、誰かが笑っている輪の近くを通ると、笑い声が少し遅れて届く。遅延した音は、意味を持たない。相槌を打つタイミングも、視線を合わせる瞬間も、どこか外れる。外れていることに気づくたび、修正しようとする。その修正が、またずれる。そうして一日が終わる。

家に帰ると、部屋はいつも同じ匂いをしていた。埃と、紙と、電源を落とした機械の匂い。机に向かっても、文字は並び替えられた記号にしか見えない。意味を追うより先に、目が疲れる。眠ると、夢は見ない。目を閉じた時間が、そのまま消える。

連絡先は増えなかった。減りもしなかった。ただ、通知が鳴らない時間が伸びた。画面を伏せる癖がついた。期待していないふりをするのが、いちばん楽だったからだ。軽音のスタジオ前を通ると、ドアの向こうで音が鳴っているのが分かる。中には入らない。入らない理由を考えないようにする。その積み重ねが、いつの間にか選択になっていた。

季節が進むにつれて、街の色が薄くなる。紅葉は赤いはずなのに、遠い。夕焼けは綺麗なはずなのに、記録写真みたいだ。世界は動いている。動いていることだけは、はっきり分かる。その中で、僕だけが置き去りにされている感覚が、静かに、しかし確実に重なっていった。



十一月のある日、外の空気が必要になった。理由はなかった。部屋の天井が少し低く感じただけだ。歩くと、靴底が地面を叩く音がやけに鮮明だった。アスファルトのざらつき、白線の滑り、段差の微妙な高さ。世界は、触覚だけでできているみたいだった。

交差点で足を止める。赤い信号は、感情を持たない。車の流れは一定で、遠くのクラクションが短く鳴る。人の声が混ざる。どれも、今ここで起きているはずなのに、どこか別の場所の出来事みたいだった。

視界の端で、小さな動きがあった。ほんの一瞬の揺れ。意識がそこに吸い寄せられる。子どもが、何かを追って前に出る。信号は、まだ変わらない。頭の中で言葉が形になる前に、体が前に出ていた。正しさも、理由も、後から追いつくものだと思った。

腕を伸ばす。掴む。引き寄せる。世界が、わずかに歪む。音が遅れて届く。光が強くなる。地面が近づく。そこで、時間が薄くなる。痛みより先に、重さが来る。背中に冷たい感触が広がる。誰かの声が、遠くで波打つ。

子どもは、もうそこにいない。胸の奥が、不思議なほど静かだった。恐怖も、焦りも、後悔も、順番待ちをしているみたいに遠い。代わりに、納得に近い感覚が落ちてくる。考えるのが、面倒になる。

視界の端が滲む。街の輪郭が溶ける。最後に思い浮かんだのは、空の横顔だった。海の匂い。言えなかった言葉。やり直したい、という願いは浮かばない。ただ、少しだけ、誰かと同じ場所に立てた気がした。

まぶたが重くなる。掴み続けていたものが、指の間から静かに抜け落ちる。そこにあったのは、痛みでも孤独でもない。長い息を吐いたあとの、空白だった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


この物語は、「忘れられなかった時間」について書いたつもりです。

それが恋だったのか、後悔だったのか、あるいはただの記憶だったのかは、

読んでくれた方それぞれの中で違っていていいと思っています。


もし、空や海を見たときに、

ふと誰かのことを思い出してしまったなら、

この物語は、あなたの中で少しだけ生きたのかもしれません。


感想など、コメントで教えてもらえたら嬉しいです。

第三話もお楽しみに

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