恋
第一章 恋
夕立が去ったあとのアスファルトは、まだ昼の熱を体の奥に残したまま、薄紅色の夕焼けを鈍く照り返していた。
水たまりは完全には乾ききらず、踏みしめるたびに靴底の下で小さな音を立てる。その音が、なぜだか今日という一日を確かめる合図みたいに思えた。
帰路につく僕たちを追いかけるように、光が静かに、そして残酷なほど同じ速さで降り注いでいる。早くもならず、遅くもならない。僕たちが歩く速度に、夕焼けはきっちり合わせてくる。この時間が終わることを、空は最初から知っているみたいだった。
遠くから聞こえる運動部の声が、風に乗って断片的に届く。それはもう自分とは関係のない、別の世界の出来事みたいだった。同じ校舎、同じ時間に生きているはずなのに、境界線の向こう側で起きている音のように感じる。
この夕日を、二人で最後まで使い切ってしまいたい。そんな形にならない焦りが、胸の奥で小さく燻っていた。何かを失う予感だけが先にあって、理由はまだ言葉にならない。
隣を歩く空――天野空が、ふいに口を開いた。
「ねえ、幸せになるって、どんなことだと思う?」
あまりにも唐突で、だけどこの時間に妙に似合う問いだった。少し考えてから、僕は足元の影を見つめたまま答えた。
「誰かを幸せにできたって、思えることじゃないかな」
言葉にした瞬間、自分でも驚くほど、その答えは軽く聞こえた。本気で信じているわけでも、疑っているわけでもない。ただ、その場に一番無難に収まりそうな言葉を選んだだけだった。
空は答えなかった。ただ、僕と同じ歩幅で黙って歩き続けていた。
沈黙が重くなったわけじゃない。むしろ、言葉がなくても成立してしまう時間が、少し怖かった。
ふと空を見上げると、群青色に沈み始めた夜空に、星がいくつか瞬いている。ずっと昔からそこにあった光だと思うと、理由もなく胸が締めつけられた。変わらないものがあるという事実が、どうしてか切ない。
「もうこんな時間だ。また明日ね」
夜の帳が下りるころ、空は繋いでいた手を、ためらいもなく離した。その温度が指先から消えるまでに、ほんの数秒もかからなかった。
振り返りながら遠ざかっていく背中。その輪郭が闇に溶けて見えなくなるまで、僕はその場に立ち尽くしていた。
僕の彼女、天野空は、澄んだ夜空に浮かぶ月みたいな人だった。近くにいると明るくて、どこまでも無邪気で、笑うと場の空気まで少し軽くなる。誰とでも自然に距離を縮められるのに、踏み込みすぎることはなくて、気づけば中心にいる。そんな不思議な人だった。でも、それは彼女の全部じゃない。指で触れたら砕けてしまいそうな危うさを、いつもどこかに抱えていた。ふとした瞬間に遠くを見る目をする。話の途中で黙り込み、理由を聞いても「なんでもない」と笑って誤魔化す。 その笑顔の奥に、何か決定的に触れてはいけないものがある気がした。
同じ部活に入ったばかりのころ、僕たちは決して交わらないと思っていた。
性格も、考え方も、まるで違っていたからだ。
僕は人の輪の外にいることが多く、空はその中心にいた。
会話のテンポも、言葉の選び方も違う。
隣に並ぶ未来なんて、想像すらしていなかった。それでも日を重ねるうちに、気づけば無意識に目で追うようになっていた。
体育館の隅で準備をしているとき。廊下ですれ違ったとき。誰かに呼ばれて振り返った、その一瞬。
特別な出来事があったわけじゃない。
ただ、視界に入るたびに、少しだけ胸がざわついた。
抗おうとする前に、もう惹かれていた。
放課後の図書室。静かなはずなのに、二人でいると妙に落ち着かなかった。
ページをめくる音や、鉛筆の先が紙をなぞる音が、必要以上に大きく聞こえる。
映画館の暗がり。
スクリーンに映る光よりも、隣に座る彼女の横顔ばかりが気になっていた。
物語の細部は、今となってはほとんど思い出せない。ただ、二人で並んでいる時間だけが、妙に確かな重さをもって胸に残っている。いつからだったのか、僕たちが一緒にいることは説明のいらない前提になり、呼吸のように自然なものになっていた。
特別な告白も、胸が張り裂けるような劇的な瞬間もない。誰かが勇気を振り絞ったわけでも、運命的な言葉が投げかけられたわけでもなかった。それでも、気づいたときには互いに「そういう存在」になっていて、その事実を疑う理由もなかった。
理由を言葉にしなくていい関係は、思っていた以上に強く、そして脆かったのかもしれない。いつもそばにいるという行為自体はありふれているはずなのに、彼女と過ごす時間だけは、ほかの誰とも重ならなかった。「好き」という感情は、考えて整理する前に、もう伝わってしまっていて、言葉にする前から理解し合っていたような気がする。
沈黙さえ会話になり、未来は当たり前のように続いていくものだと、疑う余地すらなかった。今になって振り返れば、あの頃が人生の頂点だったのだと思う。何も疑わず、何も失うことを知らず、いちばん幸せだった時間。確かにそこにあったのに、もう二度と戻らない、静かで眩しい一瞬だった。
でも、それは長くは続かなかった。
温度差
三年生になってから、時間の流れが微妙に変わった。正確には、同じ速さで進んでいるはずなのに、僕と空の使い方だけが、少しずつずれていった。放課後、校舎を出る時間が違う。僕は参考書を抱えて教室に残り、空は友達と昇降口へ向かう。「先行ってるね」――その一言が、毎日少しずつ軽くなるのを、僕は気づかないふりをしていた。
夜、机に向かいながらスマホを開く。通知は来ない。既読もつかない。五分、たったそれだけの時間なのに、頭の中では最悪の想像が膨らんでいく。――忙しいだけだ。――友達と話してるだけだ。分かっている。それでも画面を閉じることはできず、指先はただ画面に張り付いたまま、どうしようもない焦燥と期待の間で揺れていた。
五分。
たったそれだけなのに、
頭の中では最悪の想像が膨らんでいく。
――忙しいだけだ。
――友達と話してるだけだ。
はっきりとしたきっかけがあったわけじゃない。何かが壊れた音を、僕は聞いた覚えもない。ただ、気づいたときには、空気が少しずつ変わっていた。
空の笑顔の角度、歩く速度、呼吸の間隔さえも、いつの間にか僕の感覚から少しずつずれていった。中学三年生の夏が近づくにつれて、世界は妙に現実味を帯び始め、教室の掲示物や進路希望調査の紙に書かれた文字が、これまで以上に重く、鮮やかに目に映る。「受験」という言葉は、もはや他人事でも冗談でもなく、確実に僕たちの生活に入り込み、誰かの未来が数字や学校名として具体的に語られるたびに、胸の奥が締めつけられるような感覚に襲われた。
空も、僕も、例外ではなかった。将来の話、進む道の話、それまでぼんやりと曖昧にしてきたことが、急に輪郭を持ち、形を変えずにはいられない現実として、僕たちの前に静かに立ちはだかる。時間は同じ速さで流れているはずなのに、僕たちが使う時間だけが少しずつ噛み合わず、知らぬ間に心の隙間が広がっていく。気づけば、空は少し遠くにいるような気がして、でも近づこうと手を伸ばせば、触れられるはずの距離に、ほんのわずかな壁があった。
どこに行きたいのか。
何になりたいのか。
何を、何のために捨てるのか。
言葉にしなくても、避けられないものが近づいているのは分かっていた。
会う回数は、少しずつ減っていった。
忙しいから。疲れているから。理由はいくらでもあった。言い訳を探そうと思えば、いくらでも出てくる。でも、どれも正確な理由ではなかったのかもしれない。
並んで帰る時間も、気づけば短くなっていた。校門を出て、少し歩いたところで別れる日が増え、かつて当たり前だった寄り道や立ち話は、いつの間にか消えてしまった。隣にいても、前みたいに自然に笑えないことが増えていった。笑えない理由が分からないまま、それでも無理に笑おうとするから、胸の奥がどんどん苦しくなる。
沈黙が増えた。それは、気まずさとは違った。むしろ、慣れきった沈黙だった。何も話さなくても一緒にいられる、という意味ではなく、話したいことはあるのに、どれも口にできない沈黙。心の奥にある小さな感情が、言葉にならずにただ積み重なっていく感覚。
「最近、元気ないね」
その一言が、無邪気に聞こえるはずなのに、胸に重くのしかかる。返事をしたいのに、何を言えばいいのか分からない。思わず視線を落とし、歩幅を合わせて歩く。隣にいるのに、手を伸ばしても届かない距離があるような気がして、空気の冷たさと、自分の無力さを同時に感じる。
それでも僕は、何も変わらないふりをして歩く。
笑えなくても、沈黙を抱えたままでも、ただ一緒にいられる時間を失いたくない、そんな思いだけが、ぼんやりと僕の中に残っていた。
でも、その理由を説明できないことが、いちばん苦しかった。言葉にできないもどかしさ。理由を言えば簡単に片付くはずのことなのに、それができない自分の弱さを、無意識に責めている自分がいた。
余裕がなくなっていることも、自分でしっかり自覚していた。
好きでいることが、少しずつ「努力」に変わっていくのを感じていた。
無意識にできていたことが、意識しないとできなくなる。笑わせようとしても、自然に手を繋ごうとしても、言葉をかけようとしても、すべてが少しぎこちなく、少し重く感じられる。
その変化が、怖かった。
幸せだった記憶のうえに、不安だけが静かに積もっていく。
過去の明るさが、余計に今の自分の心の陰影を際立たせる。
空を見れば笑顔を向けられるのに、僕はその笑顔にどう応えればいいのか分からず、ただ黙って頷くしかない自分に苛立ちを感じる。
そして夜になって、一人になったとき、ため息とともに胸の奥に沈む重さを、どうにもできずに抱え込む。
言葉にできない不安は、ただじわじわと心を冷やし、幸せだったはずの思い出まで、遠くに感じさせる。
中学最後の夏休み
逃げるように、僕たちは二人で海へ向かった。
海へ行くと決めたのは、前日の夜だった。正確には、「決めた」というより、 他に選択肢が残っていなかった。
夏休みの夜は、やけに音が多い。窓の外を走る車の音。遠くで鳴る虫の声。風に揺れるカーテンの、かすかな擦過音。
そのすべてが、眠りを拒んでくる。
布団に横になりながら、天井をぼんやり見つめていた。蛍光灯の紐が微かに揺れていて、リズムも意味もない動きにさえ、心がざわつく。――このままで、本当にいいのだろうか。問いは形を持たず、答えも行き先もない。ただ胸の奥で、重く、繰り返し響くだけだった。
空のことを考えないようにしようとすると、逆に思考のすべてが彼女に収束していく。今日、何を話したか、最後に笑ったのはいつだったか、次に会う予定は決まっているのか、どれもはっきりと思い出せない。
手元にあるスマホを開く。メッセージアプリ。すぐに閉じる。また開いて、また閉じる。画面の中の空白が、心の隙間と重なり、指先に力が入らない。「会いたい」――ただこの四文字を打つだけなのに、指が動かない。
その無力さが、胸の奥に静かに積もる。打たないことで生まれる想像の不安、もし返信が来なかったら、もし彼女が忘れてしまっていたら、という恐怖。布団の中で、体は寝ているのに、心だけが彼女の存在の周りをぐるぐると漂っていた。
考えれば考えるほど、単純な願いすら言えなくなる自分に気づく。会いたい、笑いたい、隣にいたい――それだけなのに、それさえ口に出せない。沈黙の重さと、指先のもどかしさが、夜の静けさに吸い込まれていく。
やがてスマートフォンに通知が灯った。空からだった。
「海に一緒に行かない?」
返事を送った瞬間、胸の奥が静かに沈んだ。決断をしたとき特有の、取り返しのつかないもやもやとした感情――まだ何も失っていないのに、すでに何かを失ったあとにいるような感覚だった。指先から伝わる軽い震えと、心臓の奥に広がる鈍い痛みが、妙に現実味を帯びて胸を押す。その夜、布団に横になっても、眠りはほとんど訪れなかった。目を閉じても、空の顔や笑った声、言えなかった言葉が浮かんでは消え、繰り返し頭の中で渦巻く。
翌朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。寝不足で重いまぶたを開けると、窓から差し込む光は、もう夏の色をしていて、昨日の夜の胸のもやもやを嘲笑うかのように鮮やかに部屋を染めていた。カーテンを引くと、雲一つない空が広がっていて、その広さと青さが、妙に皮肉に感じられた。こんな日に限って、世界はやけに澄んでいて、静かすぎるほど静かだった。
朝食を口に運んでも、味はほとんど分からなかった。母の声が遠くで響き、皿のぶつかる音やコップの水音も、どこか遠くの出来事のように感じられる。自分が発した「行ってきます」という声さえ、他人のものみたいに耳に入って、心の奥で小さく違和感が鳴った。
家を出ると、アスファルトはすでに熱を帯びていて、靴の裏からじんわりと伝わる熱が、身体のだるさをさらに強める。日差しは昨日の夜の重さを吹き飛ばすように容赦なく降り注ぎ、頭の中のもやもやを照らしているようだった。それでも歩き出すしかない。胸の奥の沈みを感じながら、ただ歩き続けるしかなかった。
待ち合わせ場所に近づくにつれて、足取りが少しずつ重くなっていく。呼吸がいつもより浅くなり、心臓の鼓動が耳の奥で響くように感じられた。この道を引き返せば、今日という日は、なかったことにできる。そう分かっているのに、足は止まらなかった。止められる理由が、もう残っていなかったからだ。背中にかかる荷物の重みも、胸の奥のもやもやも、すべてがをっしりと足を地面に押し付けるようだった。
待ち合わせ場所には、少し早く着いた。駅前の小さなロータリー。海へ向かうバス停のそばに、日陰がひとつだけある。そこに立っていると、行き交う人たちが、まるで遠足に向かうみたいに見えた。笑っている家族、はしゃぐ子ども、サンダルの軽い音、バスのエンジン音と風に揺れる街路樹の葉――どれも、普段なら何気ない日常の一部なのに、今は胸の奥にひっかかる小さな波紋のように感じられた。
遠くの時計の針がゆっくり進むのを感じながら、指先の感覚に意識を集中させる。手のひらの冷たさや、ランドセルの肩紐の圧迫感、靴底に伝わるアスファルトの熱。すべてが、心の奥で膨らむ不安と混ざり合って、息をするたびに少しずつ胸を締めつける。待っている時間の長さは、現実以上に長く、まるで世界が自分だけを見つめているかのようだった。
それでも、立ち尽くすしかなかった。周囲の笑顔や喧騒が、遠い物語のように感じられ、ここだけ時間が止まったかのように静かだった。今日、何が起こるのか、何を話すのか、頭の中で何度もシミュレーションしてみても、心は結局どこかで逃げ腰だった。それでも足は、この日を迎えるために、確実に一歩一歩進んでいた。
――早く来すぎた。そう思った瞬間、背後から聞き慣れた声がした。 「おはよ」
振り返ると、空が立っていた。白いTシャツに、淡い色のスカート。肩までの髪が風に揺れていて、少しだけ光を反射している。何気ない姿なのに、胸の奥がぎゅっと縮んでいた気持ちが、少しだけ緩んだような気がした。――ああ、まだここにいる。まだ変わっていない。
「……おはよう」
声が、ほんの少し掠れていた。自分でも驚くくらい、言葉に力が入らず、呼吸が少し早くなるのを感じた。空はそのことに気づいたのか、気づかなかったのか、いつも通りの笑顔を向けてくる。何も変わらないような、その笑顔が、逆に胸の奥に鋭い痛みを刺した。
「早いね」
「空も」
それだけのやり取り。特別な言葉は何もなかった。だけど、この“普通さ”が、今の僕にはかえって重く、胸に深く突き刺さる。特別な事件も、告白も、劇的な再会もなかった。それでも、僕たちは確かにここにいて、同じ空気を吸っている。まだ、僕たちは壊れていない。少なくとも、外側から見ればそう見える。
心の奥では、変わりゆく時間や距離に怯えながらも、今この瞬間だけは、まだ二人の世界がここに残っていることを、ひそかに確かめていた。足元のアスファルトの感触、頬を撫でる風、日差しに光る髪の毛――すべてが、胸に小さな安堵を残していく。
バスが来るまでの間、二人並んで立つ。近い。けれど、前より少しだけ、遠い。肩が触れそうで触れない、絶妙な距離。無意識のうちに、互いに一歩分の隙間を残していた。
「暑いね」
空が言った。
「夏だし」
僕は答える。
「それだけ?」
少し拗ねたような声。柔らかいけれど、どこか不安げな響きが含まれていた。
「……それだけ」
笑い合う。ほんの短い笑顔。だけど、どこかぎこちない。久しぶりに会えた日なのに、笑顔はぎこちなく、胸の奥に微妙な違和感が残る。
並んで歩く距離は、昔と変わらない。けれど、同じ距離感でも、心の間には小さな溝ができていることを、互いに感じている。何を話せばいいのか、自然に口から出てこない。受験の話は重すぎる。将来の話は、怖すぎる。「会えなくて寂しい」と言えば、迷惑になるんじゃないかと思う自分がいて、素直な気持ちすら言えない。
それでも、隣にいるだけで心が落ち着く瞬間があって、触れなくても、言葉を交わさなくても、かつての距離感に似た感覚を思い出す。だけど、すぐに現実がその感覚を引き裂く。目の前の空が、昔と同じ笑顔をしているのに、どこか遠く感じる。それが、この夏の、ほんの少し冷たい現実だった。
笑っているはずなのに、心だけが置いていかれる感覚。昔なら、何も考えずに手を伸ばしていた。触れれば安心できることを、何も疑わずに信じられた。今は違う。伸ばした先に何があるのか、どんな距離感になるのか、どんな反応が返ってくるのか、無意識に計算してしまう自分がいる。それが、昔とは違う現実の重さを感じさせる。
やがて、バスが到着する。ドアが開く音が、いつもよりやけに大きく、耳に刺さる。呼吸が少し早くなる。二人で乗り込み、並んで座る。窓の外を流れていく街並み。見慣れたはずの景色が、少しずつ海の色に近づいていくのを、視界の端で追いながら、心の中の緊張が少しずつ増していく。
空は膝の上で手を組んでいた。その指先が、微かに震えていることに気づいてしまう。――気づかなきゃよかった。胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。自分も同じように、胸の奥で小さな波を立てて揺れていることを、自覚せざるを得ない。言葉にできない感情が、胸の中でくすぶっているのを感じる。
会話は続いている。昨日見たテレビの話、学校でのどうでもいい噂話。全部、知っている話で、全部、今でなくてもいい話。けれど、無言の時間よりはましだと思う。言葉の端々に、昔の距離感の片鱗が垣間見えることが、少しだけ救いだった。隣に座っているというだけで、少しだけ安心できる感覚。それでも、心の奥の揺れは止まらず、笑っているはずの自分の内側で、ずっと小さく不安が鳴り続けている。
バスがトンネルを抜けた瞬間、視界が一気に開けた。
一瞬、息を飲む。青。言葉にならないほどの青が、広がっていた。空の青、海の青、そして太陽に照らされた砂浜の淡い光まで、すべてがひとつに溶けていた。
「……来たね」
空が小さな声で呟いた。
その声に、胸の奥が少しだけ震える。期待とも不安ともつかない、複雑な感情が混ざり合う。
「うん」
短く答えた自分の声も、少し掠れている。言葉にしたくても、それ以上のことは出てこなかった。
海は、何も知らない顔で、ただそこにあった。
僕たちの迷いも、不安も、決断も、後悔も、すべて無関係のように、静かに大海原が広がる。足元に打ち寄せる波の音が、心の奥のざわめきを、少しだけ和らげる気がした。
バスを降りると、潮の匂いが一気に肺の奥まで入り込んできた。懐かしいはずなのに、どこか初めて触れる空気のようで、胸の奥が軽くざわつく。砂の感触、波の音、太陽の温もり。すべてが、今この瞬間だけのリアルとして、僕たちの周りに広がっていた。
砂浜へ向かって歩きながら、空がそっと僕の袖を引いた。その感触に、一瞬、立ち止まりそうになる。
「ねえ」
振り返ると、笑顔とまではいかないけれど、どこか安心感のある表情で、空がこちらを見ていた。言葉はなくても、ここにいるという事実だけで、少しだけ胸の重さが和らいだ。
空は、少しだけ視線を落としていた。
「今日さ……」
その言葉の続きを、僕はもう、心のどこかで分かってしまっていた。言葉にしなくても、空気がすでに告げている。夏の光がまぶしい砂浜の上で、僕たちだけが少し取り残された時間にいるようだった。
砂浜は思っていたよりも人が少なく、夏休みの真ん中だというのに、ここだけ時間がゆっくりと流れているみたいだった。遠くで子どもたちのはしゃぐ声が聞こえ、それが波の音にすぐ溶けていく。太陽の光は強く、砂と海を黄金色に照らしていたが、風が時折ひんやりと肌を撫で、少しだけ救われるような感覚があった。
僕たちは、波打ち際から少し離れた場所に腰を下ろした。砂はまだ昼の熱を残していて、座るとじんわりと体温を奪っていく。足先から背中にかけて、ほんのりとした熱さが伝わり、それが、どこか落ち着かない感覚を生んでいた。
空は、膝を抱えるようにして座っている。スカートの裾が風に揺れ、素足に砂がまとわりつく。小さな笑い声が風に乗ってこぼれた。「つくと、気持ち悪いね」
その言葉に、少し安堵する自分がいた。けれど、その笑顔は、ほんのわずかに無理をして作られたもののようにも見えた。
「後で洗えばいいよ」
「うん」
それだけのやり取り。言葉は少なく、簡単すぎて、逆に胸に重くのしかかる。会話が途切れると、沈黙が、波と同じリズムで押し寄せる。波が一つ、音を立てて岸に打ち寄せ、僕たちの間に静かに消えていく。
視線を合わせることもなく、手を伸ばすこともなく、ただ隣に座っているだけで、心の中のざわめきが少しだけ大きくなる。触れられそうで触れられない距離が、互いの不安と期待を映している。空の息遣い、少し震える指先。すべてが、言葉にならないメッセージとして、静かに僕の胸に届いていた。
まるで、この時間を刻むためだけに、海が存在しているみたいだった。
潮の匂いが鼻の奥に入り込み、波の音が耳に染み込む。周りの世界は、遠くの子どもたちの声やカモメの鳴き声しかなくて、僕たちだけが切り取られた時間の中にいるようだった。
僕は、何か話さなきゃと思った。
昔みたいに、どうでもいいことで笑い合いたかった。砂の上に足跡を残しながら、くだらない冗談で肩を揺らし合ったあの頃のように。けれど、言葉が胸に引っかかって、すぐには出てこない。何を話していいのか、思いつかない。
「……最近さ」
口を開いたのは、意外にも空だった。声は小さく、少しだけ震えていた。風に髪が揺れて、日差しがまぶしいのに目を細める空の横顔を見て、僕の心もぎゅっと締めつけられる。
「夢、見る?」
唐突な質問。普段の何気ない会話なら、もっと軽く笑いながら答えたかもしれないのに、今は、何もかもが少し重くて、言葉の先が波のように揺れる。
「見るけど」
素直に答える自分の声が、少し遠くに感じた。
「どんなの?」
空の目は真剣で、でもどこか不安げだった。
「……忘れちゃうやつ」
本当は、覚えている夢もあった。空が出てくる夢。何かを言おうとして、いつも途中で消えてしまう夢。嬉しくて、でも言葉にできなくて、朝になると色だけが残る夢。
でも、それは言わなかった。言えば、またこの静かな時間が壊れる気がした。胸の奥で波の音にかき消されそうな想いを、そっとしまったままにした。
空は、小さく頷いた。
「私も」
その一言だけで、僕の心は少しだけ軽くなる。沈黙の中に、小さな温もりが広がった気がした。二人だけの、波の音に溶ける時間。何も特別なことはなくても、確かにここにある今が、胸に刻まれていく。
そう言って、空は視線を海のほうへ向けた。
夕方に近づいた太陽が水面を橙色に染め、波がその光を細かく揺らしていた。まるで海全体が、僕たちの言葉を受け止めているかのようだった。
「ねえ」
また、空が小さく声を出す。声は波の音に紛れそうで、耳を澄ませないと聞き取れないほどだった。
「もしさ」
言葉の先に迷いがあった。空は少し肩をすくめ、唇を噛みながら続ける。
「もし、全部うまくいかなかったら……どうする?」
胸の奥が、きしんだ。冷たい波の音に、熱い不安が押し寄せるような感覚だった。
「どういう意味?」
聞き返しながら、心のどこかで答えはもう分かっている自分がいた。怖くて、でも逃げられない答え。空は少しだけ困った顔をして、視線を手元の砂に落とす。
「ほら……受験とか」
「将来とか?」
「……うん」
言葉を選びながら、間を置く。慎重すぎるほど慎重で、その間に含まれる空の不安が、痛いほど僕に伝わってくる。
「今みたいに、ずっと一緒にいられなくなったら」
風が吹いて、空の髪が頬にかかった。触れたいのに、手は自然に伸びない。体が思うように動かず、胸だけが先に苦しくなる。
「その時にさ」
空は僕を見上げる。その目に、言葉にならない想いと不安が入り混じっていた。波の音に包まれた沈黙の中で、僕はただ、息を整えるしかできなかった。
空は、少し声を落として続けた。
「私たち、ちゃんと笑えてるかな」
その問いに、答えることができなかった。
笑えるかどうかなんて、考えたこともなかった。
ただ、そばにいるのが当たり前で、日常の延長に過ぎないと思っていた。
それが、壊れるかもしれないという想像は、頭の片隅にすらなかった。
「……大丈夫だと思うよ」
絞り出すように、かすれた声で言った。
でも、空は安心した顔を見せなかった。
「そっか」
その一言が、なぜか、とても遠く感じられた。
胸の奥に、小さな空洞がぽっかりと開くような感覚。
時間がゆっくり流れ、世界の色が少しずつ変わっていくのを、ただ見ているだけだった。
太陽は確実に沈み、海を橙色から深い藍色に変えていく。
僕たちには、もう戻れない瞬間があることを、世界が静かに見せつけているようだった。
空が立ち上がる。
風が頬を撫で、髪を揺らす。
その仕草のすべてが、以前と同じようで、でもどこか遠く感じられた。
僕は立ち上がれず、ただ波の音と潮の匂いに包まれながら、空の背中を見つめていた。
空は、少し声を落として続けた。
「私たち、ちゃんと笑えてるかな」
その問いに、答えることができなかった。
笑えるかどうかなんて、考えたこともなかった。
ただ、そばにいるのが当たり前で、日常の延長に過ぎないと思っていた。
それが、壊れるかもしれないという想像は、頭の片隅にすらなかった。
「……大丈夫だと思うよ」
絞り出すように、かすれた声で言った。
でも、空は安心した顔を見せなかった。
「そっか」
その一言が、なぜか、とても遠く感じられた。
胸の奥に、小さな空洞がぽっかりと開くような感覚。
時間がゆっくり流れ、世界の色が少しずつ変わっていくのを、ただ見ているだけだった。
太陽は確実に沈み、海を橙色から深い藍色に変えていく。
僕たちには、もう戻れない瞬間があることを、世界が静かに見せつけているようだった。
空が立ち上がる。
風が頬を撫で、髪を揺らす。
その仕草のすべてが、以前と同じようで、でもどこか遠く感じられた。
僕は立ち上がれず、ただ波の音と潮の匂いに包まれながら、空の背中を見つめていた。
「少し、歩こ」
「うん」
並んで歩き出す。
砂に二人分の足跡がくっきりと残る。
波がゆっくり押し寄せ、ひとつずつ、丁寧に消していく。
そのたびに、僕たちの存在も、少しずつ儚くなるような気がした。
「ねえ」
歩きながら、空がぽつりと口を開く。
「私ね」
一瞬、立ち止まる。
僕も足を止めて、彼女を見た。
夕日に照らされる空の顔は、いつもより少し赤くて、今にも泣きそうな表情をしていた。
その視線の奥にある、言葉にできない感情の重さが、胸の奥にずしんと落ちる。
「幸せになるって、どんなことだと思う?」
その問いが、波の音に溶けずに、僕の心の奥底に深く沈んでいく。
静かに押し寄せる感情。少し怖くて、でも逃げられない感覚。
――ここだ。
この瞬間が、まさに、答えのない問いと向き合う時だと、僕は確信した。
一瞬、立ち止まる。
僕も、自然と足を止めて、夕日に照らされる空の顔を見た。
空もいつもより少し赤く、頬も耳も、太陽の光に溶けるように熱を帯びている。
目はうるんでいて、今にも泣き出しそうだった。
その視線の奥に、言葉にできない感情の重さが隠されていて、胸の奥にずしんと落ちていく。
「幸せになるって、どんなことだと思う?」
その問いは、波の音に混ざることもなく、僕の心の奥底に深く、静かに沈んでいく。
押し寄せる感情。怖くて、逃げたくても逃げられない、そんな感覚。
――ここだ。
この瞬間が、まさに答えのない問いと向き合う時だと、僕は確信した。
歩き出す足は止まったまま、二人の間に波の音だけが満ちていく。
時間はゆっくりと、しかし確実に、僕たちを包み込み、溶かしていくようだった。
風が頬を撫で、砂の熱が足元からじんわりと体に伝わる。
この言葉から、もう戻れない。
小さく、しかし深く息を吸い込む。潮の匂いが肺の奥まで入り込み、胸の奥のもやもやをわずかにかき混ぜた。
「誰かを幸せにできたって、思えることじゃないかな」
口に出した瞬間、その言葉は思ったより軽く響いて、自分でも驚いた。
空はすぐには返事をしなかった。
ただ、小さく波打つ海を見つめ、水平線の先にある光を目で追っている。
夕日の赤が、彼女の横顔を静かに染め、髪の毛の先端まで橙色に輝かせていた。
微かな風が、スカートを揺らし、彼女の息づかいまで運んでくる。
言葉は少ない。けれど、沈黙の間に、たしかに何かが通い合っている。
僕はその空気を胸いっぱいに吸い込み、これ以上何も言わなくてもいいのだと感じた。
「……そっか」
しばらく沈黙のあと、ようやくそれだけ言った。
肯定でも、否定でもない。
けれど、声に宿る揺れが、答えを受け取ったのかどうかさえ、僕には分からなかった。
歩き出す。
さっきより、ほんの少しだけ距離を詰めて。
肩が触れそうで、触れない。
その微妙な距離感が、なぜか怖くて、足元の砂の感触まで硬く感じられる。
「ねえ」
空が、小さく、けれどはっきりと声を出す。
「私、怖いんだ」
言葉の重さが、そのまま風に乗って僕の胸を打つ。
「何が?」
僕の声は、思ったより小さく、頼りない。
「全部」
短い、でも重く、逃げ場のない言葉。
「今が終わるのも、怖いし」
「このまま続くのも、怖い」
僕は何も言えなかった。
慰めの言葉も、抱きしめるような約束も、今の僕にはどれも偽りのように思えた。
彼女を安心させるどころか、逆に傷つけてしまう気がした。
足元で波が小さく弾け、砂を濡らしては引いていく。
そのリズムが、胸の奥に静かに迫ってくる。
夜の気配が、確実に近づいていた。
空が立ち止まる。
僕も、自然と足を止める。
潮の香りが、波打ち際の冷気と混ざり、二人の間にじっとりと沈黙を落としていく。
互いに見つめ合うこともなく、ただ並んで立つ。
言葉の代わりに、潮風と波音だけが、二人の胸の揺れを映し出している。
それだけで、今の僕たちの不安も、恐れも、そして少しの希望も、すべて伝わっているような気がした。
「……ごめんね」
突然の言葉だった。
その小さな声が、砂浜の風と波の音の間に、ぽつんと落ちるように響いた。
「何で謝るの?」
そう聞いたつもりだったけれど、指先が少し震えているのに気づいた。
声は平静を装っても、胸の奥の動揺は隠せなかった。
空は、じっと僕を見た。
真正面から。
その瞳に、夕日が映り込み、金色の光が揺れる。
まぶしくて、でも逃げられない。
「ちゃんと、好きだよ」
短い言葉なのに、胸に刺さる重さ。
「でもね」
その一言の後、空は言葉を一つずつ選ぶように、ゆっくりと、確かめるように続ける。
「このまま一緒にいたら」
「もっと、傷つけ合う気がする」
胸の奥で、何かがガシャリと音を立てて崩れたような感覚。
不意に、言葉を飲み込んだ。
「……それでも」
そう言いかけて、言葉はそこで止まる。
“それでも一緒にいたい”
その一言が、喉に詰まって出てこない。
言おうとすればするほど、重さがのしかかる。
空は、それを待たなかった。
躊躇する僕を置き去りにするように、静かに一歩近づく。
その距離は、波打ち際の潮風と同じくらい自然で、でも心臓を震わせる。
額が触れる。
僕の胸に、彼女の額がそっと触れた。
言葉も理由もいらなかった。
ただ、存在だけが、二人をつなぎ止めている。
波音と夕日の光の中で、世界は静かに、二人だけの時間を刻んでいた。
潮の香りと、少し甘い匂いが混ざった空気が、肌にまとわりつく。
この距離が、もう戻れない距離だということを、僕ははっきりと感じた。
空が、ゆっくりと顔を上げる。
夕日の光に照らされて、彼女の瞳が揺れている。
唇が、すぐそこにあった。
一瞬、ためらう。
触れたら、本当に何かが終わってしまう気がした。
それでも、逃げることはできなかった。
唇が、重なる。
時間は長くはなかった。
でも、その短さの中に、今までのすべての想い、すれ違い、笑い合った日々、静かな沈黙、少しの不安とたくさんの温かさが、ぎゅっと詰まっていた。
息が苦しくなるほどの一瞬。
離れたとき、空の瞳から小さな涙がこぼれた。
「……バイバイ」
その声は、すぐに波の音に溶けて、砂浜の空気に消えていく。
追いかけることも、引き留めることも、もうできなかった。
空は、振り返ることもなく、歩き去る。
砂の上に残る足跡が、波に一つずつ消されていくのを、僕はただ静かに見ていた。
夕日は、完全に沈んでしまった。
空を赤く染めていた光は消え、夜だけが、静かにそこに残る。
僕は立ち尽くして、まだ動けないまま、暗くなった空を見上げた。
心の奥に、静かで重い感情が沈み、波音だけが、過ぎ去った時間のすべてを優しく刻んでいく。
泣き声が、誰にも届かないという事実が、ほんの少しだけ救いだった。
夜の海辺は思っていた以上に静かで、波の音がすべてを覆い隠してくれる。
嗚咽は喉の奥で砕けて、外に出る前に消えていった。
歩きながら、何度もスマホを取り出した。
メッセージを打っては消し、また打っては消す。
送信されないままの画面だけが、暗闇の中でやけに明るく光っている。
指先に残る微かな温度が、まだ彼女と繋がっている錯覚を生んだ。
返事は、来なかった。
それが当然だと分かっているのに、通知が鳴らないたび、胸の奥が小さく沈んでいく。
もう、彼女に触れる方法は、ほとんど残されていなかった。
声も、言葉も、仕草も、全部、思い出の中に閉じ込められてしまった。
それでも、胸の奥には、確かに何かが残っていた。
消えきらない温度。
名前を呼ばれた記憶。
笑ったときの、ほんの少しだけ息を吸う癖。
空を見上げると、星が一つ、また一つと浮かび始めている。
さっきまで夕焼けに溶けていたはずの夜が、いつの間にか、ちゃんと夜になっていた。
雨上がりの道を歩く。
靴底が、小さな水音を立てる。
その規則的な音が、この日が本当に終わったのだと、淡々と告げているみたいで、胸がじくりと痛んだ。
家に着き、鍵を回す。
ドアを閉める音が、やけに大きく響く。
部屋に入り、電気もつけないまま、ベッドに倒れ込んだ。
枕に顔を埋めた瞬間、何かが決壊した。
我慢していたものが、一気に溢れ出す。
涙で濡れた枕が、まるで世界地図みたいに広がっていくのを、ぼんやりと感じていた。
問いと、迷いと、あの夏。
笑った日も、黙り込んだ時間も、全部まとめて胸の奥に沈めながら、僕は泣いた。
――これが、
僕にとって、最初で最後の本気のの恋だった。




