目覚める城と武神の威厳
本作は、関羽が最期に籠った「麦城」の視点で描く三国志短編です。
人ではなく城が語るため、
心情描写は距離を置いたものになっています。
その距離感を含めて、お楽しみください。
わしは、長らく眠っておった。
いや、正確に言えば、眠っているというより、崩れ落ちていくのを静かに待っていたのだ。
城としての役目を失い、人も寄りつかず、ただ雨風に削られ、苔と蔦に覆われ、石は緩み、瓦は落ちた。そうして朽ちることを、自然の摂理として受け入れようとしていた。
築かれた当初、わしは若かった。
新しい石肌は陽光に映えて、瓦はきらめき、櫓の影は地を引き締めるようであった。
歴代の主がその威を誇るたび、わしは胸を張った。
戦の喧騒もあったが、祭りの日の笑い声も、農人が汗を拭う姿もすべて刻みつけてきた。
だが時は移り、人は去り、やがて忘れ去られる。城とはそういうものだ。
いつの世も人は新しいものを築き、古きものを捨てる。それもまた「人間のすること」だから、わしにはよく分からぬ。
そうして半ば夢の中にいたある日。
ふいに、わしはざわめきに揺り起こされた。
遠くから太鼓の響き、甲冑の擦れる音、そしてざわつく声。草木に埋もれたはずの石垣に人の手が触れ、折れかけた門を押し開く音がした。
久しく聞かぬ重い鉄の匂いと、戦の気配が流れ込んでくる。
わしは思わず呻いた。
「また戦か……」
忘れかけていた記憶が甦る。
怒号、血の匂い、焔が石を焦がす痛み。
ようやく静けさを取り戻していたというのに、再び人は争いを持ち込むのか。
それでも、心の奥底で微かな期待が芽生えていたことも否めない。
わしは廃れた身ながら、まだ役に立てるのだろうかと。
やがて、その姿が現れた。
大柄で、黒き髯をたくわえ、眼光は雷のごとく鋭い。
だが、その佇まいには不思議な静けさがあった。彼が一歩踏み入るごとに、周囲の兵たちの緊張が和らぎ、空気が引き締まる。
わしは名を知っていた。伝え聞いたその武の誉れは、すでに世に鳴り響いていたからだ。
――関羽将軍。
その威風堂々たる武者振りは、とても敗残の将軍とは思えなかった。
疲れ切った兵士たちを従えながらも、その背筋は一本の剣のようにまっすぐに伸び、その威厳は城壁よりも高く見えた。
彼と共にいたのは、一頭の馬。その毛並みは朱に染まり、疲労の色は濃いものの、首を高く掲げ、主人と同じく威風を放っていた。
赤兎馬。
この馬もまた、将軍と同じく、数々の戦場を駆け抜けてきた英雄なのだろう。
わしは、この二つの存在が、敗残の将軍と、疲れ果てた名馬とは到底思えなかった。
その立ち姿には、ただ威厳と、崩れぬ誇りしかなかった。
かつての歴代城主たちの名は、時間とともに風化し、わしの記憶の底に沈んでいった。
だが、この将軍の名は違った。
幾度となく人々の口から語られ、流れ人が歌にし、子らがまねて木刀を振るう。
わしの石垣の隙間で休む旅人すら、その偉大さを話したことがある。
その関羽将軍が、今、わしに身を寄せている。
廃れた、もう誰にも顧みられぬはずの城に。
わしは誇らしさと震えを覚えた。
伝え聞いた姿と変わらぬ、いやそれ以上の威容で目の前に立つのだ。
だが同時に、心の奥で小さな痛みが走った。
――なぜ、天下の武人が、わしのような崩れかけた砦に籠もらねばならぬのか。
城に入る直前、関羽将軍は立ち止まり、背後の兵たちを振り返った。
その表情は、普段の威厳に満ちたものとは異なり、どこか静かで、深い情に満ちていた。
「ここに残ったものたちは、真の強者たちだ。しかし、この麦城に立て籠もっての戦いは、これまで以上、いや、もう何もいうまい。まだ呉軍がここを包囲するまでには猶予がある。ここを離れたとて誰も諌めるものはいない。我が息子関平、そして廖化、周倉、王甫とて同じこと。みなよく仕えてくれた。もちろんみなもじゃ。わし一人とて、呉軍など恐るるに足らぬ。さあ、包囲される前に、ここを離れるのだ!時間はない!みな行くのだ!!」
将軍の言葉に、兵たちはついぞ動かなかった。誰もが、ただ黙って将軍を見つめている。
「将軍!命が惜しいものなら誰一人ここにはおりませぬ!」
「そうです!ずっと将軍のお側にいるものばかりです!」
一人の兵が叫ぶと、他の者たちも口々に同じ言葉を繰り返した。
その中で、まず関平が前に出た。彼の瞳には、父を慕う深い情が満ちていた。
「父上!父と共におらぬ子がどこにありましょうか!わたしは父上のお側から離れとうはございません!」
続いて廖化が、周倉が、王甫が前に進み出た。
「将軍、お言葉ですが、我らとて将軍を置いては行けませぬ!」
「どこまでもお供する所存です!」
「この城にて、将軍とまだうまい酒を酌み交わしたいと願っております!」
彼らの言葉は、それぞれの魂の叫びであった。その言葉に、兵卒たちの間に新たな炎が灯るのが見えた。
「将軍と共におらぬは、恥にございます!」
「共に戦いまする!」
兵士たちの叫び声が、まるで怒涛のようにわしの石垣を揺るがした。
わしは、その光景を見て、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
人間は、旗や名分のためなら、簡単に寝返るものだと、これまでの歴史の中で何度も見てきた。
だが、この者たちは違った。
彼らが忠誠を誓っているのは、地位や金ではなく、この将軍という一人の男の魂そのものだった。
将軍は手勢を率いて城内に入った。
兵の数は少なく、顔には疲労の影が濃い。だがその瞳は、いずれも消えてはならぬ炎を宿していた。
荷駄から糧秣を降ろし、崩れかけた櫓に布をかけ、雨漏りを防ごうとする。
誰もが必死で生き延びようとし、誰もが将軍を信じていた。
わしはただ黙って、それを見守る。石垣の隙間に咲いていた小さな花が、兵士の一人の目に留まった。
「まだ生きている花があるぞ」
彼は仲間に見せ、わずかに笑みを浮かべる。乾いた笑いではあったが、重苦しい空気を少し和らげるものだった。
わしは胸を張った。朽ちかけの身でも、この花を育むことはできたのだと。
戦の予感は濃く、血の影が迫る。それでも、関羽将軍がここにいる限り、わしもまた崩れ落ちるわけにはいかぬと感じていた。
人間のすることは、よく分からぬ。だが、この将軍の気高さだけは、石の身であるわしにも鮮やかに伝わってくる。
こうして、わしの静かな眠りの日々は終わった。
そして始まったのは、誇りと無念とを同時に刻む、最後の籠城の日々であった。
籠城は、静かに始まったわけではなかった。
関羽将軍の一団がこの廃れた城に身を寄せた、その日の夕刻には、すでに遠雷のような音が響き、大地が微かに震え始めていた。
それは、敵軍の蹄の音と、行軍する兵たちの足音だった。
夜が帳を下ろす頃には、城を取り囲むように、無数の松明が星の群れのように灯り、わしの石垣に影を落とした。
城内は、にわかに活気づいた。いや、活気づいたというよりは、誰もが不安を隠そうと必死に動いている、そんな様だった。
崩れかけたわしの石壁に土嚢が積まれ、わずかに残る物見櫓には見張りの兵が立つ。
互いの顔を不安げに見つめ合いながらも、誰もが黙々と命じられた作業をこなしていく。
それは、嵐の前に必死で窓を閉ざす人間の姿に似ていた。
「敵は我らの疲労を突いてくるはずじゃ。隙をみせず、夜が明ける前に備えを固めよ!」
関羽将軍の声が、冷たい夜の空気を切り裂く。その声には、疲労の色は微塵もなく、むしろ鋭い剣のように響いた。
その一声で、兵たちの動きに迷いが消え、士気が蘇っていくのを、わしは感じた。
人間のすることだから、詳しくはわからぬが、名のある将軍というものは、人の心を操る術に長けているものらしい。
それでも、腹を空かせた兵たちが、互いの顔色を伺いながら、そのごくわずかな糧食を分け合う姿は、見ていて、わしの胸を締め付けた。
この城が見たものは、
まだひとつも終わっていません。
人が去るまで、
麦城はただ、崩れながら見続けます。




