第5話 海と街、そして異世界の輪郭
「……では早速、この世界というものを理解してもらおうか」
イリスは俺の前に立ち、草原を一望するように顎を上げた。
透き通る風が彼女の銀色の髪を揺らし、衣の裾を翻す。その姿はやっぱり神々しく……そしてやっぱり少し、怖い。
「お前が目覚めたここは《セレスティア大陸》の中央部、エルムの平原だ。大地の心臓と呼ばれる場所で、古代から多くの文明が行き交った土地でもある」
「エルムの平原……」
改めて周囲を見回す。見渡す限り、緑。緑。緑。
地平線まで続く大草原は、波打つように起伏している。風に撫でられた草が銀色の穂をきらめかせ、まるで大海原のように揺れていた。
遠くでは群れを成す鳥たちが大きな弧を描き、さらにその向こうには、浮遊する小島が淡い影を落としている。
「……すげぇ。地図帳の中に放り込まれたみたいだ」
「本番はこれからだぞ」
イリスは草原を抜け、切り立つ丘のほうへと歩き出した。
俺も慌てて後を追う。
やがて丘を登りきった瞬間——目の前に新しい景色が開けた。
「……っ!?」
そこには、言葉を失うほどの光景が広がっていた。
視界いっぱいに、果てしない青があった。
どこまでも伸びる海原。太陽の光を浴びて煌めくその表面は、巨大な鏡のように空を映し返している。潮風は草原の風よりもずっと重たく、塩の匂いを含んで肺に満ちる。
その海を抱くように、白銀の山脈が連なっていた。鋭い稜線が天を突き、峰々の上には氷河が静かに眠っている。雪解け水がいく筋もの滝となって流れ落ち、谷を削りながら海へと注ぎ込んでいた。
「山と海が、同時に……」
俺は思わず呟く。
まるで絵画の中に迷い込んだようだ。ファンタジー小説やアニメで見てきた「理想の異世界」が、いま確かに現実の光景として目の前に広がっている。
「見ろ、あれがこの地域の中心都市——《リュミエール港湾都市》だ」
イリスが指差した先。
海と山の狭間に、巨大な街が横たわっていた。
湾を抱くように弓形に築かれた港町。その外縁には堅牢な石壁がめぐらされ、城塞のように街を守っている。壁の内側には大小さまざまな屋根がびっしりと並び、太陽を浴びて瓦や石材が色とりどりに輝いていた。
海辺には無数の船が停泊している。帆を張った木造船もあれば、蒸気を吹き出す鉄の船もある。空を行き交う飛空艇が、港の上空で旋回し、ゆっくりと街に降りていく。
山の麓には、歯車仕掛けの塔がいくつも建っていた。白い蒸気を上げるその姿はまるで心臓の鼓動のようで、街全体を動かしているように見えた。
「……マジかよ。ファンタジーとスチームパンクのハーフだ……!」
俺の声は、感嘆で震えていた。
「リュミエールは交易都市だ。東西の文化が交わり、あらゆる種族が集まる場所でもある。人間はもちろん、獣人、エルフ、ドワーフ……時には竜人さえも姿を見せる」
「うおお……それ、MMORPGで聞いたことあるやつだ……!」
街を包む喧騒がここまで届いてくるような気がした。
海の匂い、船の帆を叩く風の音、人々の笑い声や叫び声、金属を打ち鳴らす鍛冶の響き……そのすべてが、まだ遠いはずなのに脳裏に鮮やかに浮かび上がる。
「この街を拠点にすれば、物資を整え、情報を集め、旅の仲間を得ることもできる。お前の使命を果たすための第一歩となるだろう」
イリスの声は真剣そのものだった。
けれど俺は、その言葉を半分くらいしか聞いていなかった。
だって。
「……あの街に、宿屋あるよな……」
俺の脳裏に浮かんでいるのは、ただひとつ。
ギルドとか冒険とかよりもずっと現実的な“拠点”の存在。
「おい」
「え、なに」
「今、お前の頭の中で一番大きな単語は“宿屋”だろう」
「な、なんでわかるんですか」
「顔に書いてある」
イリスがため息をつく。
「……やれやれ。だがまあ、宿屋もまた必要だ。お前の頭が欲望まみれでも、最低限の生活は確保せねばならん」
俺は思わず笑みを浮かべた。
欲望でもなんでもいい。とにかく今は、この異世界で歩き出す最初の一歩が見えた気がした。
「よし……じゃあ、行こうか」
「そうだな」
海と山と街。その三つが重なり合って描き出す壮大な光景を背に、俺たちは歩き出した。
新しい世界の輪郭が、ゆっくりと俺の中に刻まれていく。
その瞬間、俺は確かに「異世界に来たんだ」と実感していた。