第2話 …………は?
「…………は?」
女神イリスの青い瞳が、かすかに揺れた。
たぶん今、彼女の脳内で何かが盛大にクラッシュしたのだろう。無理もない。なにせ俺が発した言葉は、世界を救うだの崩壊を防ぐだのという壮大な話を、秒速でぶち壊すものだったのだから。
「ど、童貞を……?」
「はい。捨てさせてください。もう切実に。世界のためでも未来のためでもなく、俺のために」
俺は胸を張って堂々と答えた。清々しいほどに。
イリスは片手で額を押さえ、深く息を吐いた。溜め息に含まれる気品すら女神級だ。
「あなた……降臨者として選ばれし存在が、世界の命運を背負う立場の人間が……そのような……くだらない、いや、卑小な……」
「くだらなくないです! 俺にとっては死活問題なんです!」
「し、死活問題……?」
女神の眉間に皺が寄る。青い瞳がすこし泳いでいる。どうやら“童貞”という概念自体が、彼女の高尚な価値観には存在していなかったらしい。
そりゃそうだ。千年の時を見渡す女神にとって、人間の性事情なんて豆粒ほどの意味もない。
「いや、わかりますよ? 女神さんにとっては取るに足らないことかもしれません。でも俺にとっては超重要なんですよ! このまま成仏したら、俺の人生“未経験”で終了ですよ!? それ、めちゃくちゃ後悔するやつじゃないですか!」
「……」
イリスの目が遠くを見始めた。たぶん、女神としての尊厳と、俺のしょーもない欲望をどう折り合わせるかでCPUがフル稼働しているのだろう。
やがて彼女は俺を見下ろし、低い声で言った。
「あなたは……世界を救う力を授かる可能性を前にして、己の——その……夜の経験を優先するのですか?」
「はい。即答です」
「……」
しばしの沈黙。女神イリスはもう一度ため息をついた。今度はさっきよりも深く、重い。
その後、彼女は俺の真正面に立ち、ぐっと身をかがめて目を覗き込んできた。至近距離で見るその顔は、やはり人智を超えて美しい。
ただし眉間にはしっかり皺が寄っていた。女神の威厳、若干崩壊中。
「……纐纈五月。あなたの願いを叶えると言いましたが、流石に限度というものがあります。女神に向かってそんな——そのようなことを頼むなど、前代未聞です」
「いや、だからこそですよ! 他の誰にも頼めないことだからこそ、女神さんにお願いするんです!」
「逆に説得力がありませんっ!」
バン! と光の床を踏み鳴らし、イリスが声を張り上げた。
その迫力たるや、世界を揺るがす神の威光——といいたいところだが、俺にはただの美人のお怒り顔にしか見えなかった。……それはそれで最高に眼福だけど。
「いいですか五月。あなたに託された使命は、この二つに分かたれた世界を救うこと。千年を超えてなお続く混沌と秩序の争いを鎮め、再び調和をもたらすこと。それが“降臨者”の役目なのです!」
「なるほど……」
俺はしばらく考えるフリをしてから、ゆっくり頷いた。
そして一言。
「じゃあ成仏します」
「——待ちなさい!!!!」
女神の声が空間を震わせた。もはや天界のスピーカー全開である。
イリスはわなわなと肩を震わせ、しかしどうにか感情を抑え込んだ。理性と威厳のフタを必死で閉め直すように。
「……わかりました。人間という種族が、ここまで……そのような、下らない欲望に支配されているとは……。千年の時を見渡してきた私ですら驚愕です」
「いや、普通に大事ですからね? 人類にとって」
「……っ」
女神は何かを言いかけ、口を閉ざした。どうやら反論の言葉が見つからないらしい。
かわりに、額を押さえながら小さく呻いた。
「これが……人間の愚かさ、なのですね……」
「違いますよ、これは人間の“リアル”です!」
「リアル……」
女神はぶるっと震えた。神々しい存在が、人間の価値観にこんな動揺を見せる姿はちょっと新鮮だった。
数秒の沈黙ののち、イリスはすうっと姿勢を正した。瞳にはまだ困惑が残っていたが、その奥に、決意のような光が宿り始めていた。
「……いいでしょう。あなたの願いを真正面から叶えることは、女神としての尊厳が許しません。ですが——」
彼女はきっぱりと言葉を区切り、まっすぐに俺を見据えた。
「私には一つ、提案があります」
「提案?」
「ええ。あなたの願いを……その本質を、少し別の形で満たす方法です」
彼女の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。それは余裕というより、必死に自分を立て直そうとしている笑み。
俺は思わず身を乗り出した。
「な、なんですかその提案って……?」
「それは——」
女神は言いかけて、ふっと口を閉じた。
そして、わざとらしく俺に背を向ける。