第1話 なんでも言うこと聞いてくれるんですよね?
気がつくと、俺は白い空間に立っていた。いや、「空間」と言っていいのかすらわからない。足下は光の大理石みたいに透きとおっていて、頭上には星でも太陽でもない、銀色の何かが滲むように輝いていた。
なるほど、ここがあの世か。思えば、俺の人生は短かった。不慮の事故だ。道路に転がっていたスケボーを避けようとして、ガードレールを突き破ってそのまま——記憶はぷつりと途切れた。
気づけばここである。
「——目覚めましたか、降臨者よ」
声がした。俺は振り返った。そして息を呑んだ。
そこには、一人の女性がいた。
いや、女性なんて言葉では表現が貧弱すぎる。白銀の髪が滝のように流れ、肌は月光に照らされた雪のよう。ドレスの布地は夜空をすくったみたいに黒く光り、首筋から胸元にかけては、危険なほどのラインを描いている。
そして目だ。青。深海よりも、星空よりも、ずっと吸い込まれる青だった。
思わず言葉を失った。いや、正直に言おう。理性が吹き飛んだ。
(なんだこのSSS級美女……!?)
俺は即座に悟った。ここは天国とか極楽とか、そういうやつだ。そして彼女はきっと、天使とか女神とか、そういうカテゴリの存在に違いない。
彼女は一歩近づき、唇をひらく。
「私は〈女神イリス〉。あなたは選ばれし降臨者です。世界を救うため、この場に導かれました」
「……あっ、はい」
内容が全然頭に入ってこない。声は天上の音楽。スタイルは完璧。胸部装甲は、もはや兵器。そんなものを前にして、俺の貧弱な脳がまともに稼働するわけがなかった。
イリスは困ったように首をかしげる。
「……聞いてますか?」
「聞いてますよ? えっと……世界がやばいんでしたっけ?」
「やばい、ではなく、崩壊の危機です。あなたが唯一の希望なのです」
「うーん……」
俺は腕を組んで考え込む。いや、考えてるフリをしていた。だって正直、どうでもよかった。世界がどうとか、秩序とか混沌とか、そんなことより俺は、事故死してここに来ただけのしがない男だ。
しかもこの女神、顔が好みすぎてまともに話が聞けない。——いや聞けるか!こんなの集中できるわけねぇだろ!
「正直めんどくさいんで、やめときます」
「……は?」
女神イリスが固まった。数秒の静寂。
そして、すごく困惑した表情を浮かべた。
「い、今なんと?」
「だから、めんどくさいって。俺、そういう冒険とか、世界救済とか、まったく向いてないんで。はい、成仏コースでお願いします」
「ちょっ……待ちなさい! この機会を逃せば、次の降臨者は数百年後になるかもしれないのですよ!? 世界が持ちません!」
「そうは言われても……俺、ただの一般人ですし……」
俺は頭をかきながら言った。
女神はぐっと唇を噛みしめ、そして観念したように息を吐く。やたら色っぽい仕草に俺の脳はますます死んだ。
「……では、こうしましょう。もし、あなたが私の願いを聞き入れ、この世界に降り立ってくれるならば——対価として、私が“あなたの願いを一つだけ”叶えましょう。現世に戻ること以外なら、なんでも」
「なんでも……?」
耳がピクリと反応した。
なんでも。つまり「なんでも」だ。チート能力でも、莫大な財宝でも、ハーレムでも。夢のような報酬である。
俺の胸の奥で、長年押し殺していた、たった一つの願望がもぞもぞと蠢きはじめた。
そう、俺にはずっと心に抱えていた願いがある。
いや、願望なんてもんじゃない。人生の汚点、存在の呪い、青春の墓標。
俺は深く息を吸い込んだ。
「本当になんでもいいんですか?」
「……はい。ただし、命を弄ぶようなことはできませんが」
「なるほど……」
俺は拳を握った。そして、魂の底から叫ぶ。
「俺の願いはただひとつ……!!」
女神イリスは息を呑んでこちらを見つめる。
期待、畏怖、そして少しの警戒。その全てが混じり合った視線。
そして俺は、全力で宣言した。
「童貞を捨てさせてほしい!!!」
——静寂。
この世の時間が止まったかのようだった。