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妻女山の分水嶺

 内容は眉唾まゆつばとされながらも、その面白さから度々歴史モノでは引用される書物に岡谷繁実が書いた『名将言行録』という本がある。


 その本の中に秀吉の第四次川中島合戦評として

「卯の刻より辰の刻までは、上杉の勝ちなり、辰の刻より巳の刻までは、武田方の勝ちなり」

と言ったとある。


 卯の刻とは日の出のころを指し、だいたい5時から7時の間。

 辰の刻とは朝飯どきで、だいたい7時から9時。

 そして巳の刻は、だいたい9時から11時といった具合。


 戦いの分水嶺は、9時から10時にあった、としたわけである。



 さて、信玄VS謙信(この時はまだ上杉景虎なんだけど)最大の大戦おおいくさである第四次合戦は、映画でもドラマでもさんざん取り上げられているから、ここでは簡単に触れるに止める。


 1561年8月15日に、善光寺に謙信着陣。兵力は約2万。

 7千を善光寺に残し謙信は更に南へ進軍。犀川・千曲川を越え、武田方の出城である海津城に近い妻女山に陣を張る。

 海津城は兵5百ほどしか常駐していない小城だから、謙信が猛攻すれば簡単に落とせたはずなのだけど、謙信はこれを無視する。


 1561年8月16日、謙信来るの報を受け、信玄は兵2万を率い甲府を出発。

 1561年8月24日、信玄率いる武田軍2万は、千曲川沿いに妻女山の左脇を抜けて、犀川に近い茶臼山に布陣する。


 1561年9月9日深夜。

 信玄は2万の兵から高坂昌信・馬場信房ら戦上手1万2千を割き、夜間であるとはいえ妻女山の真ん前を通過・千曲川を渡河して海津城付近に進出させる。

 加えて信玄自身は8千を率い、茶臼山を降りて、上杉勢の善光寺方面への退路を断つべく川中島の平坦部(八幡平)に陣を移す。


 これを察知した謙信は、妻女山に兵が籠ったままに見えるよう大篝火・偽旗の偽装を施し、1万3千の全兵力を率いて山を下る。

 雨宮の渡しで千曲川を越え、甘粕景持(甘粕近江守)1千を渡河点の押さえとして殿しんがりに残し、なおも前進。八幡平で夜明けを待った。


 同日卯の刻(午前5時)、武田軍奇襲部隊は妻女山山頂付近に進出。夜明けを待って謙信の本陣を突く態勢を整える。

 しかし夜明け、突入を敢行するも、襲うべき上杉勢は既に居らず。


 同日夜明け。八幡平の両軍、互いに近距離(2㎞?)で敵と相対しているのに気付く。

 同日6時、まず上杉軍先鋒2千が武田勢へと突入。八幡平で乱戦が開始される。


 同日同時刻、妻女山の奇襲部隊が、戦闘が八幡平で起きているのに気付く。

 奇襲部隊は下山を開始。


 同日巳の刻、奇襲部隊は千曲川河畔の上杉軍殿軍(甘粕隊1千)を撃破。

 八幡平の激戦に参加し形勢逆転、崩れかかった信玄本陣を救う。


 同日10時、八幡平で勝鬨かちどきを上げた武田勢は海津城入城。

 同日16時、残兵を率いた謙信は善光寺に帰着。



 以上がおおよその経緯とされているのだが、甘粕隊1千が、高坂・馬場らの武田軍奇襲部隊(1万2千)の戦闘参加を、更に遅らせることは出来なかったであろうか、という事を考えてみたい。

 例えば甘粕隊1千が妻女山山頂にとどまり、武田軍奇襲部隊相手に遅延戦闘を行なっていたら、というIFを。


「いや、たかだか千の兵で、高坂・馬場の1万2千を押さえるなんて無理ゲー」というのは、「そらそうよ」と承知の上でのハナシである。


 ひとつ参考にしたい戦闘に、大阪夏の陣で大阪方の侍大将 後藤基次(後藤又兵衛)が、2千8百の兵を率いて約10倍の徳川方を、およそ8時間足止めした「小松山の戦い」(道明寺の戦いの前哨戦)がある。

 小松山は山と名前がついているが大和川近くの小丘陵であり、しかも徳川方には鉄砲隊も含まれていたから、甘粕近江が妻女山に拠るより条件は悪かろう。


 後藤又兵衛は小松山山頂に兵をまとめ、徳川勢が山に取り付くたびに槍兵を駆け下らせ、位置エネルギーを運動エネルギーに変換することで寄せ手を突き崩した。

 そして敵が崩れたら深追いはせず、さっと山頂に引きかえさせて、次の敵襲に備えるという戦法を採った。


 最終的には衆寡敵せず、後藤又兵衛隊は徐々に兵力を消耗して全滅してしまうのだが、徳川勢を8時間翻弄することに成功したのである。


 甘粕隊が妻女山で、6時の戦闘開始から8時間の遅延戦闘を行なったとすれば、壊滅予定時刻は14時ころとなる。

 ただし奇襲部隊が八幡平に戻らなければ、信玄本陣は9時ころには蹂躙されていただろうから、風林火山の旗が倒されたのを目にした奇襲部隊は、この時点で退却、甘粕隊は壊滅を免れ勝鬨を上げて終わった可能性もある。


 ただ難しいなと思うのは、奇襲部隊が八幡平で戦闘が起こっているのに気が付けば、山頂攻撃には高坂・馬場のどちらかが残り、もう一方は山を下ったはず。

 そうすると千曲川河畔の遅延戦闘は行われず、奇襲部隊の少なくとも半数(6千)が、背後から上杉勢に攻め掛かり、上杉勢は8時を待たずして辰の刻のはじめくらいに大敗を喫していたかも知れぬ。



 上杉・武田とも、少数の鉄砲は所持していたが、平地での白兵戦では役に立たなかっただろう。


 ならば謙信は、自軍の鉄砲を思い切って全丁甘粕隊に任せ、夜明けを待たずして山道を攀じる奇襲部隊に撃ち込み、銃声に動揺する武田勢に甘粕隊1千を逆落としに突っ込ませていればどうなっていたか。

 武田軍奇襲部隊先鋒は壊乱、狭い登攀路を縦隊で登っていた奇襲部隊全軍が行動不能になったのではあるまいか。

 しかしこの場合は、奇襲部隊は一旦兵を下げ、海津城近傍で態勢の立て直しを図ってていた可能性がある。

 すると八幡平で遭遇戦が開始されれば、奇襲部隊は海津城から信玄本隊への増援として行動していたはずで

【上杉軍1万2千(甘粕隊1千欠)】VS【武田軍1万8千(信玄本陣8千+再編奇襲部隊1万)】

と、武田軍が数的優位を取っていただろう。


 あるいは妻女山の全兵力1万2千を、八幡平に向かわせるのではなく、満を持して武田軍奇襲部隊の迎撃にあたらせていたらどうか。(この場合は武田軍は奇襲が成立しないから強襲ということになる)

 登攀途中で、味が悪い戦闘隊形しかとれない敵強襲部隊が崩れたところで、勢いのままに海津城まで進出、城を焼いていたらどうなっていたか。八幡平の信玄は、慌てて千曲川を渡らなければならなかったはずだ。

 ただしその場合は、強襲部隊の残兵を収容し1万2千~1万5千程度にまで回復した武田軍を、善光寺から遠く離れた海津城付近で迎え撃つことになり、善光寺への撤退路を完全に失った謙信には、難しい戦いとなりそうだ。



 IFを考え出すと、あれやこれやと思い惑ってなかなか上手く纏まらない。


 ここは太閤にならって「9時までは謙信勝利、9時からは信玄勝利」と逃げてしまうのが賢いのかも?

 秋の歴史2024向けに書いたものを、提出開始時刻前にフライング投稿です!(わはは)


 なお2024向けには「未・関ヶ原」という3万字くらいの中編を投稿する予定です。

内容は、幻に終わった1600年6月18日夜の「石部宿における家康襲撃事件」が仮に実行されていたら?という内容です。


 よかったら、そちらにも目を通して下さい。よろしくお願いいたします。


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