第九話 襲撃
宵の口から降りはじめた雨は、次第に勢いを増し、羅城門前に集まる乞食や陳情の民を無情にも打ち据えた。彼らの大半は、都に入ることも許されない身分で、やむなく雨をしのぐために皆、寄り添うように巨大な門の軒下に駆け込んだ。
「大江少録さまが、牢でご自害なされたらしい……」
「我々の願いを酌んで下さった言うのに、なんとお労しや」
焚き火の前に座る元民部卿、文屋岑延の元に集まった乞食や陳情者たちは口々に言い、皆一様に顔をしかめる。賭弓に乱入し、陛下の御前で陳情した男、大江に対する取調べは、右大臣の命令もあってか、苛烈を極めた。拷問と言うには、あまりにも無残すぎる懲罰は、筆舌しがたいもので、大江は牢の隅で舌を食いちぎって、自らの命を害した。それは、拷問に耐えかねた末のことではない。この世を儚み、せめて自分の命と引き換えに、この国が安定の方向に向かうことを願ってのことだった。
しかし、自害した大江に残されたものは「反逆の徒」という、悪名のみであり、けして彼が民のために口にした陳情が為政者の心に届くことはなかった。それを単に無駄死にと呼んでしまうには、あまりにも大江が哀れすぎる。
「もう、我慢ならねぇ! 貴族どもに一泡吹かせてやらねば、飢え死にしたって、死に切れんっ!!」
乞食や陳情者の中でも、もっとも体格の優れた与七が 固く結んだ拳を突き上げた。
「おうよっ!! 貴族だけが丸々と太って、わしらは骨と皮ばかり! このような生き地獄を味合わされるならばいっそ!」
与七の言に、辺りにいた乞食の若者たちが賛同の声を上げる。小さな焚き火に揺らめく彼らの顔は、どれも怨嗟に歪んでいた。
「待て、待つのじゃ。血気に逸ってはならん。お前たちが逸れば、益々お上は我々の言うことなぞ、聞き届けてくれなくなってしまう!」
今にも噴火しそうな若者たちを、岑延は厳しい表情で咎めた。元、民部卿と言う立場からか、乞食に身を落とした今でも、羅城門に集まる衆人をまとめる役を買って出ている岑延の言葉は、それなりの重さを持っている。若者たちは、彼の声ひとつで、さっと鎮まりかえった。
「しかし、文屋さま。国衙領(領地)を預かる役人どもまでも、右大臣や参議どもに尻尾を振る始末。日々の暮らしに苦しむ者たちが、諸国からこんなにもたくさん集まっているにもかかわらず、お上はずっと何も応えてはくれませぬ。それどころか、故郷へ帰ることもなく、ここで飢え死にする者が後を絶えません。もう、誰もが限界なんです」
振り上げた拳を収めきれない与七が、苦しそうに訴える。彼の言うことは、誰もが言いたいことの代弁だ。飢饉や税に苦しむ人たちは、都の周りにだけいるわけではない。北から南までの諸国で、皆等しく生活に苦心しているのだ。そうして、耐えかねた村々から、農民や乞食がこの羅城門に集まるようになって、どれだけの歳月が流れたか。すでに、羅城門の前に集まる者たちは、百人以上の徒党となりかけている。だがそれにもかかわらず、何ヶ月、何年経っても、この国は快方へと向かわない。
「与七よ、そなたの申したいことは、良くわかっておる。しかし、お前たちが大江どのの真似ごとをして、何とする。検非違使(警官)に捕らえられて、処刑されるがオチよ。それこそ、無駄死にだ」
「では、文屋さまは、飢えて死ぬことは無駄死にではないと、仰せられるのか?」
「そうは、言っておらぬ。良策を考えよ、と言っているのじゃ」
「良策……、もはや、わしらは八方手を尽くしました。有力な公家に仲介を頼んだり、こうして、羅城門の前でたむろしては役人を捉まえて、陳情の限りを尽くしました。しかし、誰もわしら民のことは見向きもしない。 これ以上の策が、文屋さまにはおありなのですか?」
「ある」
岑延は、まっすぐに与七の顔を見て断言する。与七は、文屋の以外にも自信に満ちた表情に驚きを隠せなかった。
「今、わしがまだ民部卿であった頃の下官に頼み、一通の書状を持たせ、奥羽へ向かわせておる。信頼のおける下官ゆえ、今頃は奥羽の地にたどり着いている頃だろう」
「奥羽……」
と、与七が岑延の言葉を反芻するように呟く。
「そうじゃ。奥羽には、清浦朝惟どのがおられる。武家である彼ならば、今再びご政道を正すことができるやも知れぬ。最後の切り札だ」
「おおっ! 清浦さまならば!」
岑延の言葉に、一度は消沈した若者たちが歓声を上げる。
清浦朝惟は九年前、今上陛下に政道批判の奏上書提出に失敗し、右大臣たちの「政変」により、豪族の小競り合いを鎮圧するために、奥羽へと左遷された。一年足らずで首尾よく小競り合いは鎮圧したものの、その後も右大臣の圧力によって、北の地に留め置かれ続けている。だが、彼の政道に対する情念は未だ燃え尽きていないことを、岑延は知っていた。遠く北の地にいる朝惟と連絡を取り合っていたわけではないが、まだ岑延が民部卿で時分に懇意にしていた彼の性格を鑑みれば、自ずから想像は付いた。
「して、文屋さま。清浦さまは、いつ都にお戻りになられるかのう?」
喜ぶ若者たちの一人が岑延に尋ねた。
「分からぬ。分からぬが、あのお方ならば、必ずや民のために動いて下される。そうなれば、ここ羅城門で本願叶わず息を引き取った者や、大江どのも報われるだろう」
と、岑延が答えると、今一度、俄かに歓喜が上がる。
しかし、朝惟は直接的には彼の責任ではないとしても、九年前に一度失態を演じた。その結果が、奥羽への左遷である。中宮苓子に連なる人物であり、また武士であることから、反撃を恐れられ左遷と言う形で、事なきを得たものの、一度失敗した人間を最後の切り札と言うのはいささか、心もとなくはあった。
それは、ただ一人歓喜の中にあって、顔色を曇らせる与七の正直な心境であった。無論、岑延の言を信じないわけではない。彼の年の功と知恵、人柄には、他の者たちがそうであるように、与七もまた信頼を寄せている。だが、朝惟が何らかの動きを見せたとして、宮中が変わることなどあるだろうか。もしも、あるのならば九年も前に、この国は変わっていたはずだ。朝惟も結局、大江と同じ道をたどるかもしれない。そうなれば「最後の切り札」を失うばかりか、自分たちの明日は永遠に失われてしまう。
それを待っていることなどできはしない……と、与七は、暖を取ると言うには、小さくて暖かくもない焚き火の炎を見つめながら思った。
夜が更けても、雨脚は弱まるところを知らず、都は靄に覆われる。羅城門の下で、皆が寝静まるのをただひたすらに、雨の粒を数えながら待った与七は、幾人かの仲間を従えて、雨の中に駆け出した。
「どこへいくんですか、与七さん?」
仲間の一人が、与七に尋ねる。与七は、泥水を跳ね上げながら走り続け、その問いには答えなかった。付いて来た仲間たちは、怪訝に思いながらも、与七の背中を追いかけた。やがて、羅城門から続く街道は、牛車が一台やっとと通れるくらいに狭くなり、くねりながら森の中へと続く。与七たちは、素早く道脇の茂みに身を隠した。そして、与七は深刻な顔をして、仲間たちの面を順繰りに見る。
「お前ら、文屋さまの仰ることをどう思う?」
「どうって……清浦さまのことですかい」
「そうだ、今さら清浦さまに、何が出来る。あの人は九年前に右大臣を叩き落とせなかった。今一度、あの人が動いたところで、大江さまの二の舞が関の山だ」
それは朝惟に対して、あんまりな言い草ではあったが、与七の言葉に仲間たちはこくりと頷いた。彼らもまた、与七と同じ考えだったのだろう。与七が懐より錆付いた短刀を取り出しても、誰も驚かない。そして、まるでこれから、与七が企んでいることを察したのか、皆街道のほうに眼をやった。
煌びやかな飾りをあしらった牛車が一台、にわか雨に振られて、ほうほうの体で街道をこちらへ向かってくる。牛車を操る御者たちは皆、顔に明らかな疲れの色を浮かべていた。
「好機」
と、与七たちは頷き合わせた。
「文屋さまには悪いが、ここで貴族に一泡吹かせなければ、腹の虫がおさまらねぇ。俺は、生まれ付いての乞食だ。それほど利口でも、賢しくもない。それでも、俺についてくるつもりがあるなら、手を貸してくれ」
「おうよ。やってやろうぜ、与七さんっ」
その声を合図に、与七たちは茂みから一斉に飛び出した。驚いたのは、牛車の一行である。御者は、車を引く牛を止めて、身構えた。道を塞ぐ、見るからにみすぼらしくうつろな目をした集団。それは、乞食の群れ。彼らにとって、野犬にでも出くわしたようなものだったのだろう。しかし、与七は自らのことを「賢しくもない」と言ったが、御者にとっては相手が乞食とは言えども、人間である分、野犬よりもたちが悪い。
「何者だっ!? この牛車が大納言さまの車と知って、道を阻むか!?」
明らかに、嫌悪の表情を浮かべながら、御者が与七に言う。与七はニタリニタリと笑うばかりで、答えようとはしない。
「ええいっ! 道を開けよ、乞食どもめっ!!」
吐き捨てるように御者が言うと、与七たちは奇声を上げ始めた。それは、獣の雄たけびのようで、それよりも恐ろしい憎しみと怨嗟の念が篭り、牛車を包み込んだ。
雨脚が唐突に強くなる。視界が悪くなる。雨音がざわめく。
「その大納言さまに御用があるのさ」
そう言うと、与七は短刀を振りかざした。随分昔に、武家からかっぱらった代物だ。手入れの仕方も分からないため、刃はこぼれ、刀身にぎらつきもない。しかし、人をひとりばかり殺すのには、この錆び付いた短刀でも十分だ。
与七たちは雄たけびを発しながら御者に飛び掛った。その鬼気迫るというよりは、異様な光景に怯んだ御者が腰刀を引き抜くよりも早く、仲間の一人が両手に持った、岩を御者の頭にたたきつける。ぐしゃり。そんな音がしたかどうかは分からない。ただ、人間の最期としてはあまりにもあっけなく、御者の一人は頭をつぶされた。
「この、狼藉者っ!」
残る御者は二人。そのうちの一人が腰刀を抜き放ち、叫ぶ。その声は裏返り、まるで悲鳴のようだ。
与七は、そんな御者には目もくれず、短刀を振り回しながら、牛車へとまっすぐ走り抜ける。与七の背後では、いくつかの悲鳴が重なった。振り返らなくても、二人の御者は頭をかち割られ、脳漿を撒き散らしているだろう。そうでなければ、今頃与七は背中からばっさり斬り落とされているはずだ。
ようやく牛車まで詰め寄り、御簾を開けて中へ乗り込もうとした瞬間、唐突に御簾が開く。そして、車の中から、転げ落ちるようにひとつの塊が落ちてきた。与七には、それが本当に塊にしか見えなかった。人の形をしている塊。
「ひいぃっ。そちたちは何者じゃっ!」
束帯を身に纏ったその塊は、御者の言った大納言その人なのだろう。街道のぬかるみの上でもがく彼は、丸々と太り、どこか動きも鈍い。腰に差した太刀に手を伸ばすこともなく、怯えきった瞳で与七の顔を見上げた。
「乞食のわしには、名乗るほどの名前なんて持ち合わせていねぇ。それに、名乗ったところで、あんたの欲に支配された脳みそじゃ、覚えきれないだろう」
「ぐ、愚弄するのか、貴様っ! 何が目的だっ」
「あんたのお命を奪うことだ」
口元をゆがめ、与七は大納言を見下ろした。いつも、見下され続けてきた、与七にとってその瞬間は心地よい一瞬だった。そして、見下し続けた大納言には、混乱と恐怖だけが渦巻く。
「金か? 金を無心しておるのか、貴様」
自分を高貴だと言って憚らない奴らの口にしそうな言葉だと、大納言の命乞いとも思える言に、与七は虫唾を走らせる。
「金? 誰がそんなもの欲しいなんて言った。わしが欲しいのは、あんたの命だ」
そう言うと、与七は地面を蹴りつけた。ぬかるみをつま先で救い上げ、泥水を大納言に浴びせかける。「ぎゃっ」と短い悲鳴が聞こえたかと思うと、その数瞬の後、与七の短刀が大納言の胸を貫いた。人を殺すのは、これが初めてだが、その感覚に嫌な気分はなかった。何故なら、目の前にいるのは、欲におぼれた塊なのだ。
与七は、大納言の命が事切れるまで、何度も刃を突き立てた。何度刺したかは覚えていない。気が付くと、あたりには血と雨水の交じり合った川が出来上がっていた。
「ひどい顔だな……」
雨に打たれる、大納言の死に顔を見据えて、与七は毒づいた。恐怖に歪んだ大納言の顔は、世にも醜い生き物の断末魔のようだった。
「与七さんっ!!」
仲間の一人が駆け寄ってくる。与七は短刀を振って、刃にべっとりと付いた油のような血を払いながら、振り返った。
「大納言なんてたいそうな名前してるくせに、殺すとなれば、あっけないものだな。、おい、こっちは誰かやられたのか?」
「すみません、孫六と彦八の二人が御者に殺されました」
と言う、仲間の腕からも血が溢れている。幸いに深手ではないようだが、彼は御者の死体の傍に倒れる孫六と彦八という若者の方を見て、痛ましい顔をする。
「仕方ねえさ。二人は、この近くに埋めてやろう……」
「はい。それで、大納言と、御者どもはいかがするんですかい?」
「このまま捨てておけ。いずれ、街道を通る奴らが何とかするだろう。わしらの、苦しみの分、雨ざらしになるがいいさ」
与七は、もう一度大納言の死に顔をちらりと見て、言った。
仲間の死を悼んで、あまりぐずぐずとしている暇はない。与七たちは、にわか雨が上がる前に、命を落とした仲間を森の奥に埋め、簡素な墓を立ててから、急ぎ羅城門へと引き返した。夜明けごろには雨も上がり、与七たちは羅城門前にたどり着いたが、雨にどれほど濡れようとも、衣服に飛び散った血の黒ずんだ染みまで、抜けることはない。そんな、与七たちの姿を見咎めた、岑延は青ざめた顔をし、頭を抱えた。
「この、愚か者どもがっ……! 与七よ、貴族を一人殺したくらいで、宮中の者たちに、一泡吹かせることが出来ると思っているのか!?」
普段穏やかな岑延がここまで、語気を強めるようなことは珍しい。もはや、大納言は帰らぬ人となった。今更言い訳をするつもりはないが、羅城門に帰ってきてはじめて、人殺しの後味の悪さを思い知らされた与七は、言い訳などしなかった。ただ、怒りの捌け口を得たかっただけだと、胸に言い聞かせる。
「それで、お前たちが殺した相手と言うのは、どこの誰なのじゃ?」
終わってしまった事を、とやかく問いただしたところで始まらないことは、岑延にも良く分かっていた。むしろ、血気に逸る与七たちを押しとどめられなかった責任は自分にあると言っても良い。与七たちの行いに、諦めと失意を感じなから、彼らの標的となった人物の名を尋ねた。
「壬生大納言。おそらく間違いありませぬ」
「なんと……っ!」
岑延は絶句した。その絶句が、どれほど重いものであるのか、与七には分からなかった。やがて、彼の軽はずみな行動が、大事件を起こすことになるということも……。
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