第八話 雨の夜道
桜の言ったとおり、東宮が五巫司の少女を連れて、行方をくらましたと、内裏は大騒ぎになっていた。まさか、使われなくなった内裏の隅の倉庫に二人して閉じ込められているとは、誰一人想像するものはいなかった。そもそも、春がかつて桜に出会ったことがあり、ひと時再会を喜び合いたいなどと思っていることを知る者はいない。
二人は、互いに並んで、倉庫の隅に腰を下ろした。そうすると、春が言ったとおり、何だか懐かしい炭小屋を思い出す。あの時は、春が母親の藤子に叱られて、まるで女の子のようにわんわん泣いていた。しかし、今、桜の隣にいる春は、あの頃と違う。素直に、簡単な言葉で言えば「格好良くなった」ということなのだろうか。春の顔を見ていると、頬が染まってきそうで、まともに目を合わせられないのが、きっとそういうことなのだろう。
そういう気持ちを悟られまいと、桜は春の手を取った。
「手の怪我、見せて!」
扉の取っ手が外れたときに、どこで引っかいたのか、春の手のひらが大きく深く抉られて、まだ血が溢れていた。
「こんなの、大したことはないさ」
と、春は強がって見せるが、その顔は明らかに痛みをこらえているようだった。桜はやまぶき色の小袿の袂からのぞく、白い小袖の端を口で噛み切ると、きれとなったそれを春の左手に巻いた。
「化膿したら、大変だもの」
ぎゅっと、強くきれを縛り、ふと春の顔を見ると、何だか恥ずかしそうに春が視線を逸らした。それもそのはず、桜の体がぴったりと春にくっついているのだ。九年前には、寄り添っていても、何も恥ずかしいとは思わなかった。それだけ自分たちは成長し、年頃になったということなのだ。
「ご、ごめんっ!」
近づきすぎたと、桜も少しばかり赤くなって、春から離れる。二人して頬を染めながら、しばし、気まずいような沈黙が二人の間を流れていった。
やがて、天井に差し込む日の光りが夕日の色に変わり始める。一向に現れない助けを待つ間に、話すべきこと、話したいことはたくさんあったはずだ。しかし、二人が会ったのは、九年前の一度きり。思うほど、共通の話題があるわけでもないし、確認しあえるほど、互いの人生を知っているわけでもない。
考えてみれば、どうして春にもう一度会いたいと思ったのだろう……。
「桜が、五巫司になってるとは思っても見なかった」
不意に、春が口を開いた。
「うん。その、わたし書とか読むの苦手だから、出来ることって言ったら弓を引くくらいしかなくて」
嘘だ。本当は、春に会いたかったから、五巫司になった……なんて言える筈もない。その念願が叶って、こうして、春の隣に座っているのは事実だが。
「は、春こそ立派な東宮殿下になったじゃない。執務とか、なんだかカッコいいよ」
「そうかな? 父上……陛下は皆が噂するような人、つまり、どちらかといえば文人だから、ぼくとお祖父さまとで取り仕切らなきゃいけないだけだよ。そうしなきゃいけない、差し迫った事情があるだけなんだ」
「でも、そのためにたくさん勉強したんでしょう? すごいよ!」
「それは……その」
と、春の歯切れが急に悪くなる。桜はそんな春にきょとんとしてしまった。
「言っても、笑わない?」
「何を? 笑わないよ、だからもったいぶらないで、言ってよう」
「絶対笑うなよ! その……立派な東宮になれば、桜に会う機会ができると思ったんだ。まあ、立派になんかなれてはいないけれど、こうして桜と会うことが叶った」
春がそう言うと、桜は思わず噴出してしまった。春の言ったことがおかしくて、笑い出したのではない。春も同じようなことを考えていたのが嬉しかった。「わたしのことを覚えているだろうか」「春はどうおもっているだろうか」とあれこれ不安に思っていたことが馬鹿らしく思えてくるほど、会いたいと願う気持ちも、そのために起こした行動の理由も、何もかもが、すべてが春と同じ思いだった。かつて「似たもの同士だね」なんて、言ったことが思い出される。本当に、似たもの同士。それがおかしくて、桜は笑い出したのだが、春にそんな桜の心境が分かるはずもない。
「笑わないって、言ったじゃないかっ! 話すんじゃなかった」
春は本気で怒ると、そっぽを向いてしまった。何とか笑いをかみ殺そうと、桜は必死になるが、嬉しさばかりがこみ上げて、笑いはなかなか収まりそうにもない。
「ごめん、ごめんってば。笑うつもりじゃなかったんだけど。でも、きっと春は立派な東宮になったと思う。都の皆だって、春のことを頼りにしてるはずだよ」
「そんなこと……ないよ。ぼくは、立派なんかじゃない。立派な東宮になんかなれないんだ……」
と言う、春の横顔がおもむろに曇ったことに、桜は気付いた。春のことを立派だと言ったことに、お世辞は含めていないつもりだった。素直に、桜はそう思う。しかし、春の顔に浮かんだそれは、今まで見たこともないような、暗い陰りを帯びた表情だった。
「春?」と、不安げに桜が問いかけると、春は明らかに作り笑顔だと分かるほどの笑みをたたえて「なんでもないよ」と返す。なんでもないようには、とても見えなかったけれど、春の笑みはそれ以上聞いてくれるな、と言いたげだった。
「そんなことよりさ、桜はこの九年間どうしてた? 友達は出来た? そう言えば、賭弓のとき、ぼくの方を見て、何か話してなかった?」
話題を変えたいのだろう。春は矢継ぎ早に、桜に尋ねた。
「見てたの?」
「背の低い女の子と、髪の短い女の子の二人と、とても親しげだった。まあ、そのときは、君の事を桜だって分からなくて、右近が君を射手として紹介したときに、気付いたんだけどね」
「ひどい。でも、仕方ないか……お互い、随分と背も伸びたしね。泣き虫だと思ってのに、随分かっこよくなっちゃってるし」
右手を春の頭の上に持っていき、思い出の背丈と比べて、桜が苦笑する。九年前は桜の方が春よりも少しだけ、背が高かった。しかし、今は烏帽子を取っても春のほうが、頭ひとつ分高くなった。それは、何よりもの成長の証だ。
「えっと、わたしより背が低い女の子が椿。古川刑部さまの娘さん。で、髪の短い男の子みたいな子が茜。二人とも、ちょっと意地悪だけど、でもわたしと仲良くしてくれる」
「そっか、そっか。よかった、桜にいい友達が出来たみたいで……もしかして、好きな人もできた?」
「ええっ!? 何で?」
文脈はあるけれど、あまりに唐突な質問に、桜は戸惑った。
「何でって、そりゃ、桜、すごく可愛くなったから。きっと言い寄る男も少なくないんじゃないかって思って。まさか、婚儀の話とかもう舞い込んできたりしてるのかな?」
悪気はないのだろう。十五歳といえば、そろそろ婚儀を念頭に置く時分だ。だから、春がそれを尋ねてきたとしても、何の不思議もない。実際、幾人もの殿方が桜の元にやってきては、愛を和歌に載せた。中には歯の浮くようなものや、素敵な歌もあるけれど、そのどれもすべてお断りした。母香子は「良縁にめぐり合うまで、あなたの好きにしなさい」と言ってくれる。しかし、それだけで真剣な殿方の告白までも断っているわけではない。
総ては、あの日の約束があったからだ。そのことを春は覚えていないのだろうか。春にとって、あの約束は何の意味もない、子どもの戯言だったとでもいうのだろうか。何から何まで、考えていたことが同じだと思っていた桜の心に、雲がかかる。
「覚えてないの?」
あの日の約束を。もしも、ぼくたちが孤独だったら、一緒に生きていこう。まだ泣き虫だった春の言葉。それとも、椿や茜という友人、母や右近のように見守ってくれる人がいるわたしは、孤独じゃなくなった。だから、あの約束は反故だというの?
桜は困った顔をしながら、心の中で呟いた。瞳で訴えた。しかし、春からは思ったような反応は返ってこない。「何を覚えていないというのか?」と、彼の目は物語っているように思えた。
「春さま。おいでですか?」
突然、取っ手の壊れた扉の向こうから声がする。桜が驚いていると、春は「やっと助けが来たみたいだ」と言って立ち上がり、桜を残したまま、扉のほうへ向かってしまった。
「ああ、ここにいる。すまないが、扉が壊れてしまって開かないんだ。壊してもかまわないから、開けてくれ」
「壊してもいいの?」
小袿についた埃を払いながら、近づいてきた桜が尋ねると、春は笑って「どうせ、作り直すしかないからね」と言った。ところが、扉が何度かゴトゴトっと音を立てると、桜たちが入ったときと同じようにすんなりと開いた。
「この扉、一度上に押し上げないと開かないそうです。女官さまに教えていただきました」
と、扉の向こうから現れた少女が言った。てっきり、女官の誰かだと思っていた二人は、目を丸くして驚く。そこにいるのは、豪奢な十二単を纏った、可憐と言う言葉の良く似合いそうな少女だった。歳の頃は、桜たちと同じくらいだろうか、大きな瞳と丸顔がとても愛らしく見える。
「譲葉どの、どうしてここに?」
春が、その少女の名を呼んだ。譲葉と呼ばれた少女は、なんだか回りの時間が遅くなってしまうような、ゆっくりとした穏やかな口調で、
「夕刻に参内しましたところ、春さまとそちらの五巫司の方が行方不明だと、上から下への大騒ぎになっているではありませんか。それで、春さまを皆でお探ししていたんです。でも、どこにもいらっしゃらない。右大臣さまが『よもや内裏より外へ出たと言うことはあるまい』と仰って、ふとここのことを思い出したんです。昔、わたしもここに閉じ込められたことがありますから、まさか、と思いまして」
と、事情を説明する。見たところ、譲葉は皇族の者ではないようだ。しかし、春とは知り合いらしい。桜が譲葉と言う少女の正体に、怪訝な顔をしているのに気が付いたのか、譲葉はぺこりと頭を下げた。
「申し送れました。わたくし、大納言の壬生兼恒が娘、譲葉と申します」
「え、あっ、わたしは五巫司の桜と申します。壬生大納言さまのご息女とは知らず、失礼しました」
「まあ、あなたが、桜さん?」
ぱあっと顔一面に、まるで昔からの知己にでも出会ったかのような、笑顔を浮かべた。その意味も分からないまま、桜が戸惑っていると、ずいずいと譲葉が近寄ってきて、桜の両手を取った。
「春さま……殿下からお話はいろいろと伺っております。なんでも、先日は賭弓に乱入した者を討ち取ったとか。右近さまもお認めになるほどの、弓の腕前、わたしも見てみたかったですわ」
別に討ち取ってはいない。と言いたかったが、でかかった言葉を桜は飲み込んだ。何だか調子の狂う、この譲葉と春はいったいどういう関係なのだろう、その方が気になってしまう。
「あの、はる……東宮殿下、この方は?」
「あ、ああ。譲葉どのは、ぼくの婚約者なんだ。お祖父さまと譲葉の父君、壬生どのの間で、婚儀の話が持たれたんだ。言ってなかったね」
照れたように、春は譲葉のほうを見て笑う。譲葉も春のほうを向いて微笑んだ。それは、何故か二人だけの、阿吽の意思疎通のように見える。
「婚約者……」
二人には聞こえないくらい、小さな声で桜が呟く。心の中が、突然かき乱されたように、痛みを帯びている。十五歳の春も初冠を向かえ成人しているということ、東宮と言う将来のこの国を背負う立場だということ。今更ながらに、成長したと言うことが、背丈が伸びたり顔立ちが変わったりするだけでないことを知った桜は、足元が崩れるような感覚を覚えた。
「あ、あの。ご迷惑かけて、申し訳ありませんでした。わたし、これで失礼させていただきますっ!!」
桜は、見つめあい笑いあう二人から視線を逸らすように、突然廊下を駆け出した。「桜、待って!」という春の呼び声を、自分を連れて逃げ出し時の春がそうしたように、聞こえない振りをして、まっすぐ内裏の出口へと向かう。追いかけてくる足音は聞こえない。
内裏を取り囲む壁の東側、延政門から外へ出ると、香子がつけてくれた、内裏への送迎の従者は姿を消していた。職場放棄したというよりは、なかなか内裏から帰ってこない桜のことを心配して、香子に伝えに行ったままなのだろう。
仕方なく、桜は小袿の裾を持ち上げて、家路を歩き始めた。いつも身に着けている括袴なら、小走りにさっさと内裏を去ることが出来るのに、こんなひらひらした服では思うように歩くことさえもままならない。それが、無性に腹立たしい。
どうして、こんなにむしゃくしゃするんだろう……?
見上げる空は、すでに夜の帳を下ろしていた。しかし、空に星はひとつも瞬いていない。それどころか、桜の心にかかった雲と同じような、真っ黒で重たい雲が空一面を覆っていた。雨が降りそうだ、と思ったのもつかの間、桜の鼻頭に雨粒がひとつ、ポツリと落ちてきた。ひとつ雨が落ちれば、たちまちのうちに雨脚は勢いを増していく。
雨が叩く夜道を独り歩きながら、桜は地面をにらみつけた。ややもすれば、土の道はぬかるみを作るだろう。いまの桜の心のように。
十五の自分に言い寄る殿方がいるように、春にも素敵な恋人が出来ていたとしても、何の不思議もない。だから、約束のことを忘れていたとしてもおかしくない。いや、もしも覚えていたとしても、幼い日の約束で、良縁を壊してしまいたくない。そういう気持ちがあったから、約束のことを覚えていない振りをしたのかもしれない。わたしは、ずっとずっと、あの約束のことを覚えていたのに……。どんなにいじめられても、頑張ってこれたのは、香子のおかげだけではない、あの約束があったからだ。それなのに、春はそれを忘れてしまった。
疑い始めると、ひどく自分が嫌な奴に思えてくる。それに比べて、譲葉はどうだろう。長時間、春と二人っきりでいたというのに、何の疑いも持たず、それどころか桜の両手を取って、笑顔を向けてくれた。その純真とも言う瞳が、やたら憎らしく見えてくる。
「わたしって、嫌な奴だ……どうして、どうして、こんなに胸苦しいんだろう。春に恋人がいたからって、どうしてこんなに腹が立つんだろう?」
誰に問いかけるわけでもなく、桜は呟いた。その声は、雨の音によってかき消されていく。そして、声に出して呟いてみて、初めて、ひとつのことに気付いた。
わたしは、春のことが好きなんだ……。
九年前、出会ったその時。桜が乞食の子であっても「そんなの関係ないよ」と言ってくれた春に、最初から恋をしていた。だから、九年もの間、ずっと会いたいと願った。香子の反対を押し切ってもなお、春に会うために五巫司になった。それは、椿の言葉を借りるまでもなく、「好きな人」な会いたい一心だったのだ。
どうして、そのことに気付かなかったのか、気付いたときには、春の隣には可憐な婚約者がいた。それを、憎らしく思ったりする心は、嫉妬の心なんだと、気付く。そして、こんなに胸苦しいのは、これが失恋なんだと、知る。
折角再会を果たせたと言うのに。もう少し早く、自分の気持ちに気付いていれば、何かが変わったかもしれないのに、総てが遅い。急転直下の気持ちは、まるでこの空と同じ。黒い雲の隙間から、大粒の雨が落ちて、やまぶき色の小袿をぬらしていく。それは、肩に重い錘がのしかかったような、気分だった。
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