第七話 再会
磨きあげられた紫宸殿の床は鏡面のように、蔀から差し込む僅かな昼下がりの日差しを跳ね返す。正面には玉座があり、目の細かい御簾が降ろされていた。
南廂だけで、ゆうに百人ちかい人間が入れるほどの広さを兼ね備えているのだが、今そこにいるのは、桜一人だった。心なしか、緊張した桜のいでたちは、いつもの水干姿ではない。季節に合わせたやまぶき色の小袿は、香子がこの日のためにあつらえてくれた。
桜は、正座しながら御簾の向こうの玉座に陛下が現れるのを待つ間、自分にこの服は似合わないのではないか、などと考えていた。小袿は、略式の正装であるが、金糸があしらわれた袿は、多少派手に見える。普段、大内裏では五巫司の水干、家では薄い色の小袖しか着たことのない桜にとっては、妙に落ち着かない。馬子にも衣裳とは、このことではないかと思えてしまうのだ。とは言っても、陛下にお目通りし、お言葉をいただくのに、いつもの仕事着で参内するというわけには、いかない。
そう、賭弓から七日ほどが過ぎて、ようやく賭弓の場での活躍が認められ、陛下が直々に桜に礼を述べたいと伝えてきたのだ。その背後では、右近がかけあってくれたと言う話もある。あの時、桜が矢を放たなければ、陛下のお命は危うかったのだ。それを恩着せがましく「命の恩人」だとまで言うつもりはないが、せめてお褒めの言葉くらいはかけてやってほしい、というのが右近の親心にも似た、ささやかな願いであった。
そんなこともあって、桜は独り紫宸殿の南廂で、陛下が現れるのを待っていた。紫宸殿に入るのは初めての事で、それだけでも緊張してしまうのは当たり前だが、それ以上に自分の行いが認められたと言うことに、多少の嬉しさもあった。そして、不謹慎なことではあるが、賭弓では顔を合わせることも出来なかった東宮の春に会うことが出来るかもしれないと言う、淡い期待も胸に秘めていた。
やがて、桜が紫宸殿に入って半刻も過ぎると「お成りにございます」と女官の甲高い声が響き渡った。桜は慌てて、額を床に近づけてお辞儀をした。
御簾の向こうから、衣擦れの音がする。厳かな雰囲気をまとい、母屋に入ってきたのは陛下であろうか。顔を挙げて確認したいけれど、それは、大変な無礼になる。
「そなたが、右近衛府五巫司の桜どのか?」
着席の音とともに、御簾越しに声をかけられる。思うより若い声だと思いながら、桜はお辞儀したまま、
「はい、右近衛府五巫司、中宮苓子さまの元お読書役香子の娘、桜にございます」
と答えた。床にはね返る自分の声が、ひどく上擦っていることに、桜は気付いた。
「ふむ。面を上げられよ、桜どの」
許しの言葉を受けて、桜はゆっくり顔を上げた。御簾の向こうには影法師のように人がたが浮かび上がっている。それが、賭弓で見た陛下なのだろうかと、桜が思っていると、御簾の傍に立つ女官が紐を引き、みるみるうちに御簾が上がった。
桜のような、下位の官吏が紫宸殿に上がれること自体が、異例のことであるにもかかわらず、儀式の場でもなければ、公衆にその顔を見せることもない陛下が、御簾を上げるということに、少なからず驚きを隠せなかった。しかし、御簾が上がってみると、玉座の手前に設けられた円座に座っているのは、陛下ではない。
「申し訳ない。本来なら、陛下が直々にそなたに礼を述べるべきなのだが、ここ二日ほどお風邪を召されたため養生を取っておられる。よって、代わってこの東宮春がそなたに礼を申す」
と、言ったのは、初老の陛下よりももっと若いはつらつとした声だった。淡い期待が現実のものとなり、賭弓では遠くから眺めていただけの春が目の前にいる。桜はそのことに呆然としながら、固まってしまった。嬉さもあるけれど、それにも増して、これは夢ではないかと思ってしまう。頬でもつねれば、これが現であることが分かるのに、それさえも出来ないほどに、胸が激しく動悸を打っていた。
「賭弓での活躍、陛下はいたく感謝しておられる。右近も褒めるそなたの弓の腕前がなければ、陛下は命を落とされていたかもしれない。まことに、天晴れである。ささやかではあるが、褒美をとらせよと、陛下は仰られた」
春が手を叩くと、母屋の隅に控えていた女官の一人が立ち上がり、奥のほうからなにやら目録のようなものを取り出してきた。
「これからも、内裏のため、ひいては陛下のため、一層の力添え、期待しているぞ」
そう言って、春は笑みを桜に向けた。桜は、胸の奥がどきっとするのを感じた。春が目の前にいる。九年前とはまったく違い、面影こそあるものの、凛々しく精悍な青年に成長した春がいる。それだけで、胸がいっぱいになるのに、春の優しい笑顔はあの頃と何一つ変わっていない。
伝えたいことがある。九年間ずっとあなたに会いたかった。でも、春が自分のことを覚えているかどうかも疑わしいのに「お久しぶりです」なんて、切り出すのはあまりにも勇気がいる。
桜は、自分の頬が真っ赤に高潮していることに気付きながらも、身動き一つ取ることが出来ず、手前に置かれた目録も手に取らずただじっと、春の顔を見つめていた。
「殿下がお忙しい中、貴様ごときに謝辞を述べておられるのだ、何か返す言葉はないのか、無礼者」
唐突にしゃがれた声が、桜の春色の気持ちをぶち壊しにする。思いもよらなかった春の登場に気を取られて、その傍に立つ右大臣の姿がまったく目に入っていなかった。
右大臣は苛立ちを隠せない様子だった。桜が下位の官吏だから、と言うわけではない。右大臣という高位の貴族にとって、貴賤の区別と言うのは重要なものだった。目の前にいる少女は、香子に救われたとは言え、元は乞食の娘。口をきくのも憚られると言いたげである。
「はっ、失礼しました! お褒めに預かり、光栄です。これからも、陛下の御ために精進いたします!」
桜は再びお辞儀を丁寧に返した。
「東宮殿下は執務がある、このようなことで時間を無駄に出来ぬ。その方、桜とか申したな、下がってよいぞ。早々に職務へ戻れ!」
フンっと、あからさまに気に入らない様子の右大臣を尻目に、そっと春の顔を見る。母屋から桜のことを眺める春は、変わらずに笑顔を浮かべていた。右大臣がどれほど邪険にしても、その笑顔だけで桜は嬉しさに包まれるような気がした。
今日は右近から職務は免じてもらっているのだが、これ以上長居して、春を困らせるわけには行かない。右大臣の言うとおり下がろう。と、桜が腰を上げようとすると、春がそれを制した。
「まあ、いいじゃないか右大臣。ぼくはもう少し、この子と話をしたい」
「し、しかし、執務が」
「じゃあ、執務は右大臣どのが代わってくれ。彼女は、陛下のお命をお守りした英雄だ。会ってすぐに帰したのでは、失礼と言うもの」
と、言うと春は立ち上がり、慌てる右大臣をよそに、桜の元に近づいた。手を伸ばせば届く距離に、九年もの間、会いたいと願って止まなかった春がいる。桜はびっくりして、再度固まってしまった。胸の動悸はさっきよりも激しくなり、顔中が火照ってくる。
「殿下っ!!」
右大臣が声を荒げるが、春は聞き止めようとせず、いきなり桜の手を取った。驚いている暇などなく、あの日よりもずっと大きな手のひらに掴まれた桜は、半ば強引に春に引っ張られて立ち上がる。
「小うるさい奴から、逃げようっ」
ニッと白い歯を見せて笑うと、春は桜の手を引いて、駆け出した。紫宸殿の南廂から飛び出ると、迷路のような吹き抜けの廊下を走りぬける。どこへ向かっているのか、途中から桜には分からなくなった。内裏の構造は、五巫司の職務上把握しているのだが、自分の手を引く春の背中を見ていると、なんだか二人で逃避行でもしているような気分になってきて、何も考えられなくなってしまうのだ。
「お待ちください、殿下っ!!」
小走りに追いかけてくる、女官たちの声が轟く。春はちらりと後ろを見ると、
「なかなかに、しつこいなぁ。どこかに隠れてやりすごそう」
と言って、廊下の曲がり角を直角に曲がり、行き止まりの先に木の扉をこじ開け、部屋の中に入り込んだ。室内は薄暗い倉庫で、天井近くに小さな格子の窓がひとつあるだけ。あまり使われていないのか、ひどく埃っぽい。
春は倉庫の扉を閉め、扉に耳をつけて外の様子に聞き耳を立てた。ばたばたと言う足音は、桜の耳にも届く。
「お祖父さまは、とても堅い人なんだ。ああいう物言いをするのを許してほしい」
聞き耳を立てながら、春は桜に小声で言った。右大臣は、春の母藤子の父親だ。神経質な表情は、藤子によく似ているが、目の前にいる春とはあまり似ていない。だから、春が「お祖父さま」と言わなければ、危うく右大臣が春の祖父であることを、忘れるところだった。
「いえ、そんな、許すだなんて。わたしみたいな五巫司のために、わざわざお忙しい時間を割いていただいたんです。むしろ、感謝しております」
桜が困っていると、春がくすくすと声を立てて笑う。
「そんな堅苦しいしゃべり方は、桜に似合わないよ」
「えっ!?」
春のあまりに親しげな口ぶりに桜が驚き戸惑っていると、春はまた笑顔を見せながら、
「女官たちは何処かへ行ったみたいだ。ひとまず、場所を変えよう。ここじゃ埃まみれになってしまうからね」
と、桜に言った。
ところが、春が扉を開けようとしても、重たい木の扉はびくともしない。鍵は開いたままなのだが、どうやら長い間使われなかった部屋だけに、扉の立て付けが悪くなってしまったようだ。何度か、無理やりこじ開けようと試みてはみるが、引っ張っても押し込んでも、扉はまるで壁のように張り付いて動こうとしなかった。
「くそっ、開かないぞ。困ったな……おーいっ! 誰か、いないかっ!?」
扉を叩きながら、助けを呼ぶために声を上げてみる。しかし、女官たちはとうに何処かへ行ってしまい、廊下の奥の使われなくなった倉庫に近寄る者は、まずいないことは、春にも分かっていた。
「桜と、ゆっくり話をしようと思って逃げ出したのに、これじゃ本末転倒だな……。ごめん、格好悪いところを見せてしまって」
春は少しばかり恥ずかしそうに、振り向いて頭をかいた。そのはにかんだ顔も、少年の頃と同じままだ。
「でもさ、こうしてると、何だかあの炭小屋を思い出さない? もっとも……あそこほど暗くはないけれどね」
「殿下……?」
「殿下なんて言わないでくれよ。春って、昔と同じように呼んでほしい。」
そう言うと、春は満面の笑みで、小袿の袂からのぞく桜の手を取った。今度は強引に、ではなくそっと優しく、手のひらの温かさが伝わるように。
「あのっ、えっと……その」
桜は胸が熱くなって、言葉に詰まった。春がわたしのことを覚えていてくれた。あの日のように桜と呼んでくれる! 夢にまで見た再会の瞬間なのに、何から話せばいいのか分からない。話すべきことが見つからないのではなくて、溢れかえりそうなのだ。
「ぼくのこと、覚えてない?」
桜か何も言ってくれないことに、俄かに当惑した春が眉をひそめた。九回も巡った季節は長く、春にとっても桜が自分のことを覚えていてくれるか自信がなかった。勿論、そんなことはお互いに知るはずもない。そんな不安が、春の顔にもたげていると気付いた桜は、言葉に返すより先に、全力で首を振って見せた。
ちゃんと覚えてる。一度だって忘れたことなんかないよ……。
「良かった。ぼくも、ずっと桜に会いたかったんだ。今日その日が巡ってきた。こんなところに閉じ込められる羽目になるとは思っても見なかったけどね」
「わ、わたしも!」
会いたかった、と言いたかったのだが、緊張のあまりに声がかすれてしまう。その声を聞いた春は、愉快そうに声を立てて笑い始めた。あまりにも愉しそうにするものだから、ちょっと癪に障った桜は、頬を膨らませて、
「ひどい。そんなに笑わなくてもいいじゃない!」
と、春を睨みつける。睨みつけて、自分でもひどい声だったと、おかしくなってきた。二人して顔を見合わせ、大声で笑いあう。そのおかげで、桜はすこしだけ緊張がほぐれたような気がした。
二人が笑い声をたてても、誰も来てくれないところを見れば、この埃の積もった倉庫に閉じ込められてしまったということは明白だ。
「よし、もう一度、開くか試してみよう」
と、春は桜の手を離すと、再び扉に向かった。桜は春の手の温もりをすこし名残惜しく思ったが、流石に口に出すのは恥ずかしい。
「えいっ」
掛け声よろしく、春はぐいっと力任せに扉を引く。その拍子に、メリメリと派手な音を立てて、扉の取っ手が取れてしまった。
「痛っ……!」
春が顔をしかめる。見れば左手から、鮮やかなほど赤い血がポタリポタリと滴っているではないか。どうやら、取っ手が外れる瞬間に、手のひらを切ってしまったらしい。
「もしかして、扉が壊れかけているから、使われなくなったのかも知れないな……」
苦々しく、春は扉と自分手のひらの傷口を見つめた。
「これじゃ、本格的に閉じ込められてしまう」
「すぐに助けが来るわよ、それまで、大人しくしておいた方がいいんじゃない?」
扉に近寄ってきた桜が言う。今頃、内裏では東宮が自分のことを連れて、行方をくらましたと、大騒ぎになっているはずだ。ならば、そう遠くないうちに、助けが来るはずだ。開かない扉を無理にこじ開けるよりも、大人しくしていた方がいい。
「そうだなあ、仕方ないか……。ごめん、なんだかとんでもないことになっちゃって」
「ううん、全然!」
とんでもなく騒々しくて、情けない再会のはずなのに、桜は春と再会できたことが嬉しくて仕方がなかった。その気持ちは、春も同じはずだと、今なら確信を持って思える。
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