第四話 五巫司
紫宸殿の前に植えられた大きなサクラの木は、今年も美しい花を咲かせ、ふわりと春風に揺れている。そんな、柔らかな風が、どこまでも広がる青空へと、サクラの花びらを舞い上がらせ、桜の長い黒髪をなびかせた。
九年の歳月を経て、十五歳になった桜は、顔立ちも整い、誰からも「器量よし」と呼ばれるほど、美しく成長した。実子ではないにもかかわらず、どこか香子に似てくるのは、桜にとっても不思議であった。しかし、桜自身は、自分のことを美しいとは、これっぽっちも思わない。母や、九年前に一度だけお会いした中宮苓子に比べれば、水干(男性用の運動着)に括袴、矢筒を担ぐ姿の自分は、まだまだ子どもだと思い戒める。
「そうだ……」
サクラの木を眺めていた、桜はふと思い立ち、白い水干の袂から、小さな麻袋を取り出す。そして、その場にしゃがむと、地の上に落ちた花びらをひとつひとつ拾い集めて、麻袋へとつめた。
「これだけあれば、椿を驚かせてやることが出来るかな?」
友人の驚く顔を思い浮かべながら、少しだけ悪戯心が目を覚ます。わたしってば、悪い奴だ、と苦笑しながら、花びらを集め終えると、再び風に揺れる、自分と同じ名を持つ木立を見つめた。
「さくらーっ!! 桜ってばっ!!」
不意に、建礼門の向こうから声がする。息を切らせながら、現れたのはひとりの少女だった。桜と同じ、水干括袴姿だ。桜には、それが誰だかすぐに分かり、慌ててサクラの花びらを詰めて膨らんだ麻袋を、袂にしまいこむと、その手を大きく振った。
「椿! こっちこっち。どうしたの?」
「どうしたの? じゃないわよ。なによ、呑気に手なんか振って!」
椿と呼ばれた少女は、小走りに桜のもとにたどり着くと、少しだけ睨み付けながら、息を整えた。
「右近さまが、カンカンだよ! 集合の号令をかけたのに、桜だけ来ないって。もう、角を生やして鬼のように怒ってるわよ」
両手の人差し指を立てて、頭の上に添えると、鬼の顔の真似をしてみせる椿。しかし、桜と同い年とは思えないほど幼い顔立ちは、鬼と言うにはあまりにも愛らしく見えてしまう。本人も、そのことは、大いに気にしていた。「せめて、桜ほど可愛くなくても良いから、もうちょっと大人っぽくなりたい」と、日ごろから口癖のように呟くのだが、紙縒りで纏めた長い髪も、クルクルと変わる表情も、むしろその方が可愛いと、桜は内心思う。
「もしかして、桜。号令のこと、完璧に忘れてたでしょう? しっかりしてると思ったら、ときどき、ぼんやりさんだよね、桜って」
「うん……ぼんやりしてた。ほら、暖かい陽気の所為よ」
と、とぼけては見たものの、右近の号令をすっかり忘れ、すっぽかしてしまったことは事実。本当に鬼のような右近の姿を想像すると、暖かい陽気も身を刺すような木枯らしに変わってしまうような気がした。
「ほれっ、桜の弓、持ってきてあげたよ。とにかく早く、右近衛府に行こう」
椿は肩にかけた二本の弓のうちの一本を、心なしか青い顔をする桜に向かって放り投げた。桜は弓を受け取ると、弦の間に腕を通して肩に担ぎ、椿の後を追って走り出した。
大内裏の北西に位置する、瓦葺の大きな建物は、大内裏の中にある他の行政施設よりも一際大きい。その建物は「右近衛府」と呼ばれ、右近衛省に属する武官三百名あまりの、執務室兼詰め所として、機能している。ちなみに、近衛府とは「ちかきまもりのつかさ」とも呼ばれ、宮中(内裏)内郭を警備することをお役目とする官職である。
桜と椿が、近衛府の門扉を潜り抜け、庭先に駆け込むと、そこには仁王立ちの右近こと、右近衛大将が待ち構えていた。長身に屈強な体躯、威厳と威容を備えた男である。
右近は、桜の姿を見つけるなり、「この、大馬鹿者っ!!」と、声を荒げた。まるで、都の端まで届きそうなほど、大きな声だ。椿が「鬼のよう」と言ったのは、あながち嘘ではない。想像通りの恐ろしい剣幕だと、桜は思った。
「申し訳ありませんっ!!」
桜は、踵をそろえると深々と頭を下げて、謝辞を述べた。
「桜よ、何故近衛府に令外官として、五巫司が置かれているのか、帝のご意思、よもや忘れては居るまいな!?」
「はい、わたしたち五巫司は、宮中・後宮の警護および、内裏有事の際に、その武力を以って、迅速かつ独立的に行動し、これに対処することを、お役目としています」
「では、聞こう。なぜ、予め通達してあった、集合に遅れたのか!?」
「それは……」
ぼんやりしていたから、とは答えられない。そもそも、右近という人間は歯切れの悪い言い訳など、許したりはしないことは分かっている。妙な言い訳をするよりは、素直に謝ったほうが得策だ。
「以後、このようなことのないように、尽力いたしますっ!!」
「尽力ではない! 我ら近衛は、その身を挺して、陛下をお守りする義務がある。そなたの言う有事が起きたならば、今頃宮中に火の手が上がっておったわ! 良いか、近衛の者はひと時たりとも油断をするな、気を引き締めよっ! 以後遅刻などすれば、お前を任から下ろす! そのつもりで居よっ!!」
「はい、右近さま!」
桜は背筋を伸ばし、声を張り上げた。
「よし、説教はこのくらいにしておいてやろう。明日、弓場殿にて『賭弓』が行われることは、そなたも存じておろう? 今年はそなたを推しておいた」
腕組みを解くと、穏やかな声に戻り、右近が言った。その言葉の意味を図りかねた桜は、思わず小首を傾げてしまう。
「そなたの弓の腕前は、わしも皆も認めるところ。その自慢の技を、陛下にお見せしてはどうだ?」
「はぁ……」
右近の言葉が、冗談にしか聞こえず、桜はぽかんとしたまま、答えに窮してしまった。先に、これは一大事なのだと気付いたのは、脇に居る椿の方だった。慌てて、桜の小脇を肘でつつく。
「桜! 賭弓に出られるんだって! 右近さまが推薦して下さったのよ、ちょっとぐらい喜びなよ!」
押し殺したような小声で、椿が耳打ちすると、桜はようやく我に返った。
「賭弓」とは、毎年春の十八日に行われる、宮廷行事の一つである。左右近衛府の武官が弓の技を競う。その様子を、天皇や親王たちがご覧になられるのだ。と、言っても、出場できるのは、位の高い武官ばかりであり、近衛の近習組織である五巫司の少女などが選ばれるなど、あまりにも恐れ多く、大変に光栄なことだ。
「拝命するな? 桜」
「は、はいっ!! 勿論です!」
ぱっと腰を直角に折ると、桜は深々とお辞儀をした。俄かに信じがたいことだけに、胸が熱くなる。
「ふむ、では本日の警護の任は解く。明日の、賭弓のために精をつけ、ゆっくりと休むが良い」
と言うと、右近はくるりと背を向け、社殿のほうへと引き上げていった。右近の姿が見えなくなるまで見送ると、桜は緊張が解けたのか、へなへなと崩れた。隣で、小さく椿が笑う。
「もしかして、わたしが賭弓に選ばれたことを、知ってたの?」
友人の笑いにふと、疑問を口にする。すると、椿は笑い声をかみ殺して、こくりと頷いた。紫宸殿まで迎えに来た時の彼女は、わざと「賭弓」のことを言わなかったのだ。右近が鬼のようと、脅しておきながら、こうなることを予想していたのだろう。悪戯心というのなら、椿の方が一枚上手なのかも知れない。
「もーっ! 椿の意地悪っ」
「わたしは嘘吐いてないわよ。ほら、右近さまが鬼のようっていうのは嘘じゃなかったでしょ?」
椿は、一向に悪びれる風もなく、ニコニコと笑いながら桜に言った。
五巫司は、二年前に組織された、近衛府近習組織の警備隊である。
設置の契機となったのは、ある事件であった。深夜、大江山を根城にする夜盗が宮中に忍び込んだのである。夜盗は程なくして取り押さえられたものの、宮中警護のずさんさは、すぐに公家たちの間で非難の矢面に立たされることとなった。更に、宮中の者たちからも不安の声が飛び交った。そこで、各警護部署の人員増強に伴い、五巫司が新たに設置される運びとなったのである。
その役目は、主に男性武官の入りにくい、皇后や女官の住居がある後宮内郭の警備である。そのために、五巫司はすべて、未婚の十代女性で構成されていた。
彼女たちは皆、白い水干に紺色の括袴、藁で編んだ靴を着用している。水干は、本来庶民の服装であったが、活動的であったことから、貴族の男性が蹴鞠や鷹狩を楽しむときに着用する上着である。また、括袴も同様に、動き易さや機能性に優れたものである。どちらも、本来女性、しかも少女たちが着るような装束ではない。
また、彼女たちは各々に、武器を所持する。桜や椿は弓矢を携えているが、他にも薙刀や小太刀を装備するものも居る。個人個人で得て不得手があるように、それぞれが身の丈にあった武具を選んでいるのだ。彼女たちは女性であるため、階位こそ低いものの、その武芸の腕前は中々のものであった。
普段は、前述のように、後宮の警護を主な任務としているが、桜が右近に言った「有事」の際には、各武官たちと同じように、天皇陛下の守護、ひいては都全体の警護に就くことになる。その際には、五人一組の小隊を構成し活動することから、五巫司という名を与えられている。
では、「有事」とは何か? それは、平安の都の三百年余りの歴史の中で、未だ起こりえない事象であり、五巫司が設置されてもなお、誰一人知りえないことであった……。
「いいなぁ、羨ましいよ、桜。五巫司から賭弓に出場できるなんて、前代未聞だよ!」
とは、もう一人の友人、茜の感想だ。茜も桜と同様に、五巫司の少女である。大内裏からの帰り道にお役目を終えて合流した、桜、椿、茜の三人は連れ立って、都の中心を走る大通り、朱雀大路を歩いていた。
茜は椿から賭弓の話を聞くと、口を尖らせた。友人の誉れを祝いたい気持ちはあるのだが、それにも増して羨ましいと、嘆息と眼差しを向けてくる。
「それは、桜のたゆまぬ努力の成果だよ。それを、右近さまは認めてくださったのよ」
と、自分のことのように自慢げに、椿が言った。
「でも、弓の腕だったら、椿だって相当なものじゃない。どうして、わたしなんかが選ばれたのか、今でも信じられないんだから!」
「そりゃ、簡単だ。椿よりも、桜のほうが可愛いもんね」
にやり、と口元を歪めて笑うと、茜は二人の友人の顔を交互に見比べた。確かに、幼さの残る椿は、それはそれで愛らしいが、たおやかな仕草の似合う桜のほうが、上と言ったところだ。
茜の言い草に、椿は子どもがふて腐れるように頬をふくらませ、
「男の子みたいな、茜に言われたくないわよっ!」
と、言い放ちそっぽを向いてしまった。髪を短く切りそろえた茜は、鼻筋の通った精悍な顔立ちも相まって、時として男子に間違えられる。
「あたしだって、あと一、二年もすれば、桜に負けないくらい可愛くなるもの。心配するなら、もうちょっと大人っぽくなったほうがいいんじゃない? 椿ちゃん」
「言ったわね、茜っ!」
椿が、売り言葉に買い言葉、腕まくりをして今にもアカネに飛び掛りそうだ。そんな友人のやり取りを見て、桜は思わずクスリと笑った。往来で喧嘩を始めそうな友人を笑うと言うのも変な話だが、桜にとっては、二人とも大切な「友人」だ。
五巫司になった時から、二人は桜と親しくしてくれる。二人とも、桜の生まれのことは知らない。乞食の子だと知れば、二人の友人は自分のもとを去ってしまうかもしれないという、不安はいつも桜の心にしこりとなっている。それでも、二人が居てくれることはとても嬉しい。香子に拾われてから長い間、出来なかった友人の存在は、桜を強く支え、大きく成長させてくれたと思うのだ。だから、嬉しくてつい笑ってしまう。
「なによ、他人事みたいに笑って!」
茜と言い合いをしていた椿が、桜の笑顔を見咎めて、食いかかってきた。
「だいたい、桜は自分の可愛さが分かってないんだよ!」
「そうだよ、あたしが男の子だったら、桜のこと放っておかないね」
褒めているのか、怒っているのか、茜が桜の鼻先に人差し指を突きつけて言う。二人が言うほど、自分が可愛いなんて、これっぽちも桜は思ってなんか居ない。
「それがね、聞いてよ茜! 桜ってばひどいんだよ。桜のことを好きだっていう、殿方は多いんだけど、この子ったら、全部『ごめんなさい』って、お断りするの。殿方が寝ずに考えた素敵な和歌も、一瞬でごみくずに変えちゃうんだから!」
「ええっ!? ひどいっ。まさか……桜って男嫌い?」
茜が桜の顔を覗き込むようにして尋ねる。何だか、話題が随分ずれてしまっていることに、桜は困惑しながら「ちがいます」と、きっぱり言い切った。
「そう、桜は男嫌いってわけじゃないのよ……むしろ、問題はそこなのよ!」
「問題? どういうことよ、椿」
と、茜が首を傾げる。椿は悪戯っ子よろしく、ニヤニヤとしながら「言ってもいい?」と桜に目配せする。桜は強く頭を左右に振って、椿の袖を引っ張り、
「絶対、言っちゃだめだからね!」
と、念押しした。しかし、どれほど睨め付けても、椿と言う友人が、内緒話を腹に収めて置けるような娘でないことは、桜も知っている。
「実はね……桜には好きな人がいるの」
「本当に? それこそ初耳よ。誰? 誰なの、桜の好きな人。椿、知っているんでしょ? あたしにも、教えてよっ」
いつの時代も、女子という生き物は、恋の話が好きだ。俄然、話題に食いついてきた茜が、椿に詰め寄る。
「聞いて、驚けっ! なんと東宮殿下なのっ」
桜が止めるよりも早く、椿の口からその名が飛び出した。それと同時に、茜は目を丸くして驚き、次の瞬間には、往来の真ん中でお腹を抱えて笑い始めた。
「あははっ、桜ってば。それ、本気なの?」
「何でも、小さい時に一度だけお会いしたことがあって、その時からずっと片思いなのよ、この子」
「わあ、純情そのものだね」
「そうそう、一介の貴族の娘が、東宮殿下と結ばれるなんて、夢を見すぎよ」
と、二人の友人は口々に好き勝手なことを言い始める。しまいには、椿が両手を胸の前で合わせ、潤んだ瞳で空を見上げながら、
「ても、許されない恋とは知っているけれど、ああ……それでも桜は、あなたさまのことをお慕い申し上げております」
などと、恋する乙女な桜を演じて見せるのだ。桜は、急に恥ずかしくなってきた。
椿に春と出会ったことを話すんじゃなかった……。そもそも、無理やり椿が問い詰めてきたのだ。「好きな人はいないの? 白状しないよ」と。押しに弱いところのある桜は、つい春のことを話してしまったのだが、笑う椿と茜の顔を見ていると、いまさらながらに、後悔先に立たずとは、この事だと思えてくる。
「こ、恋とかそんなんじゃなくて……」
何とか、言い訳しよう、と試みたその時だった。
「この、薄汚い乞食野郎めが!!」
大路に怒声と悲鳴が響き渡り、辺りが一瞬静まり返る。荷車や牛車がまばらに行きかう、通りの反対側。貴族の若い男たちが数人で、何かうずくまるものを取り囲んでいるのが、三人の目に入った。
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