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第三話 香子と桜

 香子が、乞食の娘を拾ったのは、一年ほど前のこと……。

 都に住む香子には、目の不自由な兄がいた。兄は、幼少の頃に出家し、修行の末に、奈良の寺で立派な僧を務めていた。その兄が、流行病に倒れたと聞き、香子は父の名代として、供の者を連れて見舞いに向かった。幸いにも、兄の病状は思うより軽く、ほっと胸をなでおろした。

 その帰途、大粒の雨が、香子の乗る牛車(ぎっしゃ)の簡素な屋根を叩いた。すぐにも、雨あしは強くなり、帰路は霞がかって見通しが悪い。供の者は、「()よう、早よう」と、車引きの牛を急かした。

 香子がふと、牛車の物見窓を開き外を見ると、雨で早々にぬかるんだ道の上に、何かが転がっている。あれは……、と目をこらす。それは、物ではなく人、それも幼い少女だった。泥まみれの服、垢のこびりついた汚らしい肌。それだけで、道に倒れた子どもが、乞食の類であることは、一目瞭然だった。

「おお、汚らわしい」

 と、供の者は、侮蔑の言葉を少女に吐きかけて、通り過ぎようとした。

 近年、飢饉(ききん)や武士の反乱が相次いでいる。飢えや戦禍で親を亡くした子どもは、乞食になるほか生きる道はなく、そうした者たちが都の周りや羅城門の辺りに、溢れかえっている。この少女も、そうして乞食になったのか、はたまた生まれ付いての乞食だったのか、そんなことはどうでもいい。行き倒れの子どもよりも、雨で立ち往生する前に、早く香子を都まで送り届けることの方が、供の者にとって大事なことだった。

 ところが、香子は物見窓から、供の者に牛車を止めるように言った。

「どうなされましたか、香子さま」

 怪訝に思いながら、供の者が香子に尋ねたが、香子は返事を返さず、雨の中、牛車を降りてしまった。雨粒が泥を跳ね上げながら、香子のうちき(上着)を濡らしていくのもかまわず、香子は行き倒れの少女に駆け寄った。

 うっすらと、少女が目を開ける。瞳にこぼれるのは、涙か雨か分からなかった。ただ、じっと自分を覗き込む、貴族の女を見つめ、小さく何かを呟いた。その声は、あまりにも掠れて小さく、あっという間に、雨の音がかき消してしまったが、香子には、何を言ったのか分かったような気がした。

「たすけて……」

 少女はそのまま、意識を失った。このまま放っておけば、幼い命が失われてしまう。香子の優しき心が、そう訴えた。

 もしも、香子が、その弱りきった虫の息の少女を見捨てたとしても、誰もそれを咎めたりはしない。貴族とは、生まれながらにして高貴であり、乞食とは、生まれながらにして卑しい生き物。高貴の者は、卑しいモノに触れることさえ、あってはならない。それが、世の中共通の認識だった。そういう時代なのだ。しかし、香子の人間的な部分は、それを許すことが出来なかった。

「この子を連れて帰ります」

 着物を泥で汚しながらも、香子は少女を抱き上げて、供の者に言った。供の者たちは皆、汚らしい身なりと、鼻を突くような乞食の臭さに顔をしかめながらも、凛とした表情の香子には逆らえなかった。

 急ぎ、都の三条五坊にある、住まいに帰りついた香子は、自ら少女を介抱してやった。少女は三日三晩眠り続け、一時はもうこのまま目を覚まさないのではないか、と香子は思った。

「乞食の子を助けるなど、言語道断、あるまじきこと!!」

 少女を拾ったと言う話を聞いた、香子の父は顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。乞食の娘など、今すぐにでも捨てて来い。父は憎々しげに香子を責める。しかし、香子は頑として譲らず、少女を見捨てることはしなかった。「わたしは、たとえ高貴の道を外れたとしても、人の(みち)には外れたくありません。目の前で、子どもが息絶えようとしているのを見捨てるのは、人の倫でしょうか!? いかなるときも、いかなる相手にも、慈愛の心と優しさを持ち続けなさいと、お教えくださったのは、他ならぬお父さまにございませんか!」

 と、香子が毅然と言い放つと、父はそれ以上の言葉を失い、何も言えなくなってしまった。

 献身な介抱の甲斐あってか、少女は四日目の朝に目を覚ました。しかし、少女は目覚めるやいなや、延々と泣き続けた。名前を訊いても、何故道に倒れてのか問いかけても、何一つ答えてはくれない。少女は、いつまでも泣いてばかりで、一向に香子に心を許してくれなかった。それどころか、出された食事に口をつけようともしない。最初は、見慣れない、貴族の料理に不信感を抱いているのかと思ったが、そうではない、少女はまるで、うち捨てられた子犬のように、小さな体を震わせて、何もかもに怯えている。そして、香子を見つめる円らな瞳は、不安と憎しみに満ちていた。

 そうして少女は、とうとう衰弱しきってしまった。生きる気欲もないうつろな顔で、ただ天井を見上げ、死を待つ少女の姿は痛ましく、香子は胸が張り裂けそうになった。

「もしも、あなたが、わたしを貴族の娘だからと嫌っているのならば、わたしはこんな身分など要りません」

 香子はそう言って、うちきを脱ぎ捨てると、少女の折れそうな体を抱きしめた。

「お願いです、何か食べてください。生きようとしてください。わたしは、あなたが死ぬのを見たくない。わたしが貴族などやめて、あなたが生きてくれると言うのなら、わたしは喜んでこんな身分など捨てます。だから、お願い……」

 いつの間にか、頬を涙が伝う。香子は本心から、命尽きようとする少女を救いたかった。その心を、貴族の傲慢や偽善と言うのなら、貴族など辞めてもいい。父が何と罵ろうともかまわない。人として、目の前の命尽きようとする、か弱き少女を見捨てることなど出来なかった。

『薄汚い乞食の娘』『畜生にも劣る』『生きる価値などない』何度も少女に浴びせかけられた言葉。乞食に生まれ、他人から蔑まれ、殴られ、蹴られることが当たり前だと思っていた少女にとって「生きてほしい」と願う香子の言葉の意味は分からなかった。なぜ、この人はわたしのことをこれほどまでに心配してくれるのだろう。汚い生き物のわたしを抱きしめてくれるのだろう。

 それでも、香子が心から、自分のことを抱きとめてくれる。涙を流してくれる。生きてほしいと願う。その温かさに、嘘偽りないことは、少女にも伝わっていた。そのときはじめて、少女は生きる価値を見出したのかもしれない。

 少女は、少しずつ粥に口をつけはじめた。子どもの生命力は、大人の思うよりも逞しい。見る見るうちに元気を取り戻して行く姿に、香子はこの上ない喜びを感じた。

 ある日のこと。

 すっかり元気になった少女は、独り縁側に座り、ぼんやりと庭に咲く桜の木を眺めていた。まさに、春の日差しで、ほのかに色づいた花は、まさに満開を迎えていた。

「桜の花が珍しいのですか?」

 香子は、少女の傍らに腰を下ろすと、問いかけた。少女は、こくりと頷いた。桜など、野山のどこでも咲いている。しかし、こんなにも落ち着いた心地で、桜の花を眺めたことなど、これまで一度もなかったのだろう。

「とてもきれい……」

 ともすれば風に攫われてしまいそうな声で、少女が呟いた。元気を取り戻しはしたが、あいも変わらず、少女は心を開いてくれない。それが証拠に笑うことも、香子の顔を見てくれることもない。

「そうだ。まだ聞いていませんでしたね、あなた、お名前は何というの? いつまでも『あなた』と呼ぶのもなんです。そろそろ教えていただけませんか?」

「ないの。名前なんてないの」

 少女は膝を抱え、寂しそうに答えた。考えてみれば、乞食の娘に名前などあろうはずもない。名前をつけてくれる親も、この哀れな子にはいないのだ。

「では、桜。今日から、あなたの名前は、あの美しい花と同じ名前。桜にしましょう」

 と、香子は言って、少女……桜の頭をそっと撫でた。桜は少し恥ずかしそうに、頷いた。

「桜……、あなたが、笑って暮らせるように、桜の母になりたい」

 突然の申し出。少女は目を丸くして驚いた。貴族の娘が乞食の子の母親になるなど、考えられないことだし、世間の批判の的になるだろう。だが、そんなことは、些細なことだ。土砂降りのあの日、桜を拾ったそのときから、香子は心に決めていた。真の意味で、桜を救いたいと。

「お母さん?」

「ええ、そうです。桜の母になりたいのです。いけませんか?」

 香子の言葉に、桜は首を大きく左右に振った。そして、驚きの表情が少しずつ、硬さを失い、やがて満面の笑みを浮かべた。愛らしく、子どもらしい笑みに、香子は思わず嬉しくなった。

 すぐさま、香子は父に、桜を引き取る旨を報告した。香子は結婚していなかった。すでに、適齢期を迎えてはいたのだが、自分はこの日のために結婚しなかったのだと、香子は確信していた。無論、報告を耳にした、父は気を失いかけた。父としては、近いうちにでも、由緒ある貴族の家にでも嫁がせるつもりだった。しかし、乞食の子を娘とする、と言うことは即ち、香子は一生独身であると決意したに他ならない。

「ならん! 貴族の娘が、乞食を養女とするなど、あり得んぞ!」

 と、父は何度も怒鳴ったが、香子は頑として譲らない。我が子ながら、頑固な姿を忌々しく思いながらも、香子に寄り添う桜のことを、無闇に放逐することは出来なかった。

 香子が乞食の娘を引き取った、という話題は、瞬く間に都中の貴族の話題に上った。口々に囃し立てては、誰もが桜に対して冷たい視線を浴びせかける。「まあ、なんと卑しい、乞食の子」香子は、必死にそんな視線から、身を挺して桜を守った。

 また、ある時には近隣の貴族の子どもたちから、いじめられて泣く桜に、「桜は、わたしの子です。何も恥じることはありません」と、何度もなぐさめた。そんな優しさに、いつしか桜は香子のことを「お母さま」と呼ぶようになっていった。おそらく、桜にとって、はじめて出会った、唯一の味方だったのだろう。

 季節を跨ぐたび、桜は徐々に明るさを手にしていった。子どもらしくわがままも言えば、時折素直にもなる。母の背を見て優しさを知り、何よりも愛らしい笑顔を香子だけでなく、周りの者たちにも見せるようになっていった。

 そして、一年余りの後、桜は人生で二人目。乞食の子であった自分を「卑しい」とは言わない人に出会った。その少年は、母親にぶたれ「価値のない子」と罵られ、炭小屋でうずくまって泣いていた。気弱で、絶望と孤独を背中で背負ったようなその姿が、香子に拾われる前の自分の姿と重なった。しかし、少年は桜が乞食の子であると知っても、嫌な顔ひとつしない。

「桜が乞食の子とか、そんなのは関係ない」と言った少年の眼差しも、握り返してきた手の温もりも、生きてほしいと涙を流した香子の優しさとおなじ、温もりを持っていた。そして、桜と同じく、深い孤独を抱えていることにも気付いた。

 皆から乞食の子と揶揄される桜。帝になれなければ価値のない春。立場も孤独の意味も異なる二人が、将来、孤独のままでいたならば、そのときは共に暮らそう。そうすれば、寂しくない。幼い指と指で、二人は約束を交わした。

 そんな心優しき少年が、この国の帝位を継ぐ立場にある、東宮であることを知ったのは、それから程なくしてであった。東宮といえば、たとえ貴族であっても、雲の上の人。それでも子ども心に、すぐにまた春に会う日が来ると信じていた。ところが、桜が春に会えたのは、あの日一度きりとなってしまった。

 大内裏で「政変」が起きた、と言っても、幼い桜には良く分からなかっただろう。ただ、香子はその政変の片鱗に巻き込まれ、中宮苓子のお読書役を辞さなければならなくなった。そのため、桜は二度と内裏に上がる機会を得ることは出来なくなってしまったのである。しかし、桜は春のこと、春との約束のことを、片時も忘れたりはしなかった。

 何度か、香子には内緒で、大内裏の入り口にある朱雀門の前まで足を運んだこともある。

「春さまに、合わせて下さい」

 と、門兵に言ったところで、それがたとえ桜でなくとも「だめだ」と言われるのは当然のことで、門前払いされるたびに、大内裏を取り囲む高い土塀を見上げて「春に会いたい」と思うのだ。その壁の向こう、内裏には春がいるはずだ。会いたいと思えば思うほど、桜の胸には、慕情が募っていった。


 そして、幾度も季節は巡り、時は流れ、九年の月日が流れていった……。



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