最終話 千年の約束を君に
夢はそこで終わった。わたしの頭の上で、目覚まし時計が「起きろ起きろ!」と急かすように鳴り響く。まだ起きたくない、夢の続きを。と思っても、眠りの世界から引き戻される速度は異様に速い。カーテンの隙間からこぼれる朝日が瞼に差込み、頭がはっきりしてくると、もう二度と夢の世界に戻れないことを、わたしは悟った。
わたしは布団から手を伸ばし、目覚まし時計の頭を叩きつけて、やかましいベルを止める。仕方ない、といった具合に、背伸びをして布団から這い出そうとして、ふと気付く。
頬に冷たい涙……。夢の中で、わたしじゃないわたし、桜が泣いていたように、ぽろぽろと涙を流していた。あれは夢の中のこと。現実のことではなくて、夢の中の出来事なんだ。それなのに、わたしの手には、夢の中で抱きしめた、あの男の子の感触が残っている。胸の中には、痛いくらいの悲しみが残っている。
どうしてだろう? あれは、本当に夢の中の出来事だったんだろうか。もっと違う、頭の奥底に残る記憶を思い出したような、そんな感じがしてならなかった。
「桜! ねえ、桜ったら、起きてるの!?」
部屋のドアが、激しくノックされる。今にも、ドアを壊してしまいそうな勢いで叩くのは、わたしの母だ。
「もう、そんなに怒鳴らなくたって、起きてるわよっ!」
わたしは涙声にならないように、無理に声を張り上げて、母に言った。すると、ドアの向こうは急に大人しくなり、
「あら、珍しいわね。あんたが、目覚まし時計にちゃんと起こされるなんて……。まあ、いいわ。着替えたら、さっさと朝ごはん食べて、学校に行きなさい!」
と、娘に対して失礼なことと命令を述べると、母は部屋の前から立ち去った。母が階下のダイニングへ向かう足音が聞こえなくなってから、わたしは涙を拭いて、気を取り直すように学校の制服に着替えた。部屋の隅に置かれた姿見に映る、わたしの姿はやっぱり、夢の中の桜にそっくりだった。
階下に下りると、朝食の並ぶ食卓には、家族が座っていた。
父は新聞を広げ、経済面とにらめっこしている。株価が上がったとか下がったとか一喜一憂しているが、公務員の父にはあまり関係ないように思う。その隣で、母はわたしを待つことなく、食パンにかじりついていた。そして、ダイニングに姿を現したわたしの顔をみて、妹が、「わっ」と驚いた顔をする。
もしかして、まだ涙の跡が残ってた? 恥ずかしいなぁ、なんて思っていると、妹は少しばかり悪戯っぽさを瞳に含ませて、
「お姉ちゃんが、早起きしてくるなんて珍しい。超低血圧なのに!」
と、驚きを口にする。勿論、それが失礼だとわかっていて、言っているのだ。もっとも、わたしも悪い。寝つきはいい方なのに、朝目覚めるのが苦手で、いつも学校には遅刻スレスレで走っていく羽目になるのだ。そう言えば、夢の中の桜も普段はどこかぼんやりしていて、右近さまのお呼びに遅刻していたっけ……などと思いながら、わたしはきっと妹を睨みつけて、食卓に座った。
「お姉ちゃん、わたしのゆで卵食べて」
と、隣の席の妹が、わたしのお皿にゆで卵をぽんとのせる。
「こらっ! ちゃんと食べなきゃ、お昼まで頭が働かないわよっ!」
母が目くじらを立てて、妹のことを叱るけれど、肝心の妹は、「ダイエット中なんだもん」と悪びれる様子もなかった。すると、父が新聞から顔を上げて、
「おいおい、中学一年生が、ダイエットなんて、何色気づいてるんだ。育ち盛りは、ちゃんとメシを食わなきゃだめだぞ」
と、忠告を与える。わたしは、そんな家族の顔をぼんやりと眺めていた。夢の中の桜には、家族と呼べる人は一人しかいなかった。眼鏡をかけて、ちょっと神経質そうだけど、本当はとっても優しいお父さんも、丸顔を気にしてゆで卵を押し付けてくる妹もいない。夢の中の桜には、香子さまという母しかいなかった。わたしは、妹を叱る母の方をそっと見る。とてもじゃないけれど、夢に出てきた香子さまみたいに美人とは言えないし、穏やかで、優しくなんかない。
「おいどうした、桜。さっきからぼんやりして。まさか、お前までダイエットだなて言うつもりじゃないだろうな?」
父の声に、はっと我に返る。家族の視線がいつの間にか、わたしの方に集中していた。
「お姉ちゃんは、美人だし、どうせモテるんだから、ダイエットなんかしなくていいじゃん!」
「桜、あんたまだ寝ぼけてるの? シャキっとしなさい、シャキっと! あんたも今日から、十五歳なんだから。昔の人なら、十五歳って立派な大人よ!」
母と妹が、口々にわたしをなじった。朝から叱責されるいわれはないだろう、とわたしは少しばかり怒りたい気持ちを抑えながら、夢の中の桜と自分がやっぱり違う人間だと確信しながら、妹のゆで卵を頬張った。
「そう言えば、お姉ちゃんの誕生パーティーとかやったりするの?」
と言う、妹の目当てがケーキであることを、わたしは知っている。ダイエットだなんて言っておきながら、甘いものに目がないというのだから、本末転倒だとわたしは思う。勿論、口に出したりしないけど。
「やらないわよ。一つ歳を取る度に、パーティなんかやってたら、人生であと何回パーティすればいいのよ」
わたしがつんとそっぽを向いて言うと、妹は「えーっ!」とあからさまに不満をあらわにした。ひとのパーティで、ケーキのご相伴に預かろうとする方が悪い。すると、わたしと同じく、妹の目当てを知っている父が新聞をたたみ、ニコニコと笑いながら、
「心配するな、今日仕事の帰りにケーキは買ってくるから」
と、妹に助け舟を出した。
そっか、わたし今日で十五歳なんだ。季節を跨げば、受験勉強をして、来年の春には高校生になる。母の言ったとおり大人に一歩近づくんだ。でも、自信はない。朝きちんと起きられないような子どものわたしは、とてもじゃないけれど、夢の中の桜のように、凛と強くあることなんてできそうにもない。
あれは、全部夢の中のこと。手触りや空気がリアルすぎて、記憶の中のことだと勝手に思っているだけ。そもそも、歴史の授業で平安時代のことは勉強している。社会科はあまり得意ではないけれど、わたしの少ない知識の中に、清浦朝惟という人が反乱を起こして、都が燃えたなんて話は聞いたことがない。平安時代は、三百年あまり続き、雅とか風流とかそういう、ちょっとまったりとした感じの文化が栄え、そして、源のなんとかさんと、平のなんとかさんが、戦争を始めて、それに勝った源さんが新しい政府を造って、平安時代は終焉を迎えた。千年くらい前の話。ほら、よく聞く「いいくにつくろう」ってやつ。だから、全部夢の中の話。現実のわたしは、父と母、ちょっとこにくたらしい妹に囲まれた、歯牙ない普通の女の子なんだ。ドラマチックな出会いも、過酷な戦争もない時代に生まれた、ごくごく普通の中学生なんだ。
そう思いたいのに、どうしてだろう、目覚めとともに流した涙は、夢に泣いたのではなく、わたし自身が見聞きしたものに、涙を流したように思える。それが証拠に、学校に着いても、授業が始まっても胸は詰まりそうなくらいに痛んだ。
「であるからして……」
頭の禿げ上がった、通称「電球」先生が板書を終えて、手についたチョークを払う。わたしはといえば、上の空。本当の空を眺めて、授業に身が入らない。電球先生のために弁護しておくと、先生の授業が面白くないわけではない。もちろん、春の陽気に頭がぼんやりしているわけでもない。ただ、教科書を広げても、開くページはもう勉強し終わった、平安時代のページ。古い絵巻物の絵や、当時作られたという仏像の写真を、まるで雑誌でも流し見るように。
「歴史というものは、遠い過去の出来事を知るということです。昔は、携帯電話もパソコンもなく、記録するメディアは紙ぐらい。私達は、その文献を紐解きながら、つねに新しい発見をするのです。たとえば、平安時代の文化などは、清少納言の随筆や、紫式部の小説などによって知る他ありません。もしかすると、わたしたちが知らない歴史が、どこかに隠れているかもしれない」
先生は、まるで偉い学者の講演会のように高説を垂れる。先生の背後の黒板には、明治時代の議会がどうとか、憲法がどうとか書いてあるのに、何処からどうなってそういう話になったのかと、わたしは思わず小首を傾げたくなった。
教室を見渡すと、真剣に先生の高説を聞く者、机の下で必死にメールを打つ者、ノートの隅に謎の落書きをする者、クラスメイトも十人十色といったところか。だけど、先生はかまわずにつづける。
「昔の人たちが、何を思い、現代に生きる我々に何を残そうとしたか。それを知ることこそ、歴史を学ぶことの本質といえます。皆さんも、定期試験でいい成績を残したいからとか、受験勉強だからと言わず、ロマンを胸に、歴史を勉強してみてはいかがでしょうか」
結びの言葉に、拍手でも送った方がいいのかしら。そんなことを考えていると、拍手の代わりに、お昼休憩を知らせるチャイムが鳴り響いた。先生は、丁度切がいいと満足気に、電球頭をぴかぴかさせながら、教室を出て行った。
教室中が、息苦しいと思っていた授業から一時的に開放されて、ざわめきに包まれる。みんな、さっさとお弁当を取り出したり、学食へと友達を誘って出かけていく。
「桜っ! ご飯にしようよっ!」
突然わたしの目の前に、ハート柄のお弁当袋が突きつけられた。そして、その後ろから、ひょっこりと眼鏡の女の子が顔を出す。クラスメイトの梓だ。梓は、いつもどおりニコニコと顔一面に、笑顔を浮べている。太陽みたいな彼女の笑顔は、男子たちにはおおむね好評で、結構人気がある。本人は、眼鏡のことを気にしているのだが、それも、男子たちにとってはチャームポイントなのだそうだ。
「どうした? なんか、今日はぼんやりしまくりだな」
いつまでも、わたしがぼんやりしていると、太陽に雲がかかり、梓は心配そうにわたしの顔を覗き込む。
「遅刻常習犯の桜が、今日は珍しく遅刻せずに学校に来たかと思えば、今度は一時限目から、ずっとぼんやりしてる。なにかあったの? さては、恋の悩みねっ!? 誰、誰なの相手はっ!!」
そう言って、梓は辺りをきょろきょろして、クラスの男子の顔を一人一人見ては、わたしの反応を探る。
「独りで盛り上がらないでよ。恋の悩みじゃないし、それに恋に悩んでたら、彼氏持ちのあんたになんか相談したりしないわよ。どうせ、のろけ話聞かされるだけなんだから」
わたしは、梓に分かるように呆れ顔を見せた。そして、このまま彼氏とののろけ話にスイッチされるのは面倒なので、「ぼんやりしてたのは、ほら、暖かい陽気の所為よ」と付け加えた。
梓はなんだか納得がいかないという顔をしながらも、わたしの机にお弁当を広げた。わたしも、鞄からお弁当箱を取り出して広げる。
「そうだ、今日は桜の十五歳の誕生日よね。ね、どうせ部活休みなんだし、誕生日のお祝いがてら、藤倉たちと何処かに行かない? ファーストフードか、カラオケか」
「はぁ? それって、あんたたちが遊びたいだけなんじゃないの?」
どいつもこいつも……と思うのだけど、屈託のない梓の顔を見ていると、なんだか怒る気にもなれない、それに、「あたしたちで奢るから」と言われれば、ちょっと厭な気がしないあたり、わたしも現金というものだ。
「ね、いいでしょ? 桜のリクエストがあれば、応じるわよ」
「分かったわよ。放課後までに考えとくよ。でも、あんたに振り回される藤倉が、ちょっと気の毒ね」
「なにそれっ! あたしは本心から、桜の特別な日を祝いたいと思ってるのよ。それは、藤倉だって同じよ! ちょっと、なに? その疑いの眼差しはっ」
信じらんない! そんな顔をして見せてから、梓は吹き出すように笑い始めた。どうにも図星を突かれて、我慢できなくなったのだろう。それでもきっと、わたしの誕生日を祝いたいという気持ちには嘘はないと思う。三年間も轡を並べてきた親友だもの、それくらい、言葉にしなくても分かる。きっと、夢の中の桜の友達、椿や茜も、梓みたいな子だったのだろうか……。親友というのは、とてもありがたいものだと思うけれど、それを口に出すのは恥ずかしい。だから、「わたしのお祝いと、遊びに行くの、どっちがついでなんだか」なんて、憎まれ口を叩いてしまう。
「まあまあ、どっちにしたって、十五歳になるのって特別なことよ。一歩大人に近付く訳だから」
わたしの憎まれ口など気にも留めず、梓は笑って言う。朝も母にそんなことをいわれたような気がした。だけど、いきなり今日の明日に、シャンと出来るわけもない。一つ歳をとることは、これまでの十五年の人生でそうであったように、けして特別なんかじゃなくて、誰もが通るべきイベントの一つなんだと、実感のないまま過ぎていく。
つつがなく昼食を終えると、午後の授業が始まる。午前中にも増して気だるい空気が、教室中に、まるで新手のインフルエンザウィルスみたいに蔓延して、なんだか、数学の先生まですこし眠そうに、黒板に数式を書いていく。流れ作業のような授業の中で、わたしはと言えば、梓の心配を他所に、やはり窓の外をぼんやりと眺めていた。思うことは、昨夜の夢のこと。
夢の中の桜が恋をしたあの男の子。自らの心に鬼を宿し、葛藤と後悔の据えに、好きな女の子に殺められる道を選んだ。そうするしか道はなかったのか、だとしたらなんてひどい結末なんだろう、と思ってみても、あれはわたしの身に起きたことではなくて、夢の中の出来事。だけど、最後に男の子が残した約束、
『千年後、何度生まれ変わっても、ぼくは必ず君を見つけ出す。だから、都で一番大きなサクラの木の下で待っていてほしい。そして、その時、一緒にいよう。寂しくならないように』
それだけが、喉に小骨が刺さったときのように、胸の奥につっかえてならなかった。千年後と言うのなら、今のことだろうか。もしかしたら、この世界のどこかに、あの男の子の生まれ変わりがいるんだろうか。そして、広い世界の片隅で、桜を探しているんだろうか。それは、わたしのことなんだろうか。同じ顔、同じ声、同じ名前を持つ、わたしのことなんだろうか。いやいや、そんなはずはない。何度も言うように、あれは夢の中の出来事。なまじっか、頭の奥に眠っていた記憶だなんて思うからいけないんだ。
だけど、一度疑問に当たると、気になって仕方がない。わたしが今日で十五歳になることや、梓がお祝いしてくれることも、どうでも良くなった。もっと知るべきことがある。知りたいことがある。あの夢はなんだったのか、それを知らなきゃいけない気がする。
そんなことばっかり考えているから、終業のチャイムが鳴ると、梓がお昼の時よりも、心配そうに眉を下げ、わたしの顔を覗きこむ。彼女の目は「なんでもない」とは言わせない、と物語っていた。どうでも良いなんていっても、やはり心配してくれる親友に、あんたには関係ないと言い切れるほど、わたしの心はスレていない。
クラスメイトたちが、帰宅や部活のために出て行き、わたしたち二人だけが残されると、わたしはおもむろに、夢のことを梓に打ち明けた。笑うと思った。そんなことで、今日一日ぼんやりしてたのかと。だけど、梓は真剣にわたしの話に耳を傾けてくれた。そして、真剣な顔をして、
「それで、あんたはどうしたいの? その男の子に会いたいの?」
と、唐突な質問を返してくる。どう答えたらいいのか一瞬迷った。だけど、この期に及んで誤魔化すのも、話を聞いてくれたあずさに悪いと思って、正直に今の心境を伝えた。
「会えるのなら、会ってみたい……。でもでも、夢の中の話だから、真剣に取り合うのも、変な話よね」
「絶対、それは夢なんかじゃないよ。あたしには分かるっ!」
「どうしてっ? わたしのバカ脳が勝手に作り上げたお話かもしれないじゃない?」
「直感! ほら、午前中の授業で電球先生も言ってたじゃん。歴史には知らないことが、まだまだ隠されてるって。もしかしたら、桜が見た夢は、本当にあった出来事で、あんたは夢の中に出てきた桜の生まれ変わりなのかもしれないわよ!」
と、梓は目を輝かせて言う。きっとわたしの話に、何かしらのロマンでも感じたのだろうか。多少のお節介笑顔に含ませながら、わたしの手を引っ張る。
「あんたが十五歳になる夜に、その夢をみたことには意味があると思う。さあ、行くわよ! サクラの木の下へ。きっと、そこに待ってる人がいるはずよ。あんたに好きだって伝えるために!」
ぐっと左手で拳を握り、断言する梓にわたしは呆然とするほかなかった。
荷物をまとめるのもそぞろに、半ば梓に引っ張られて学校を出る。途中で、例の藤倉が「あれ? 今日は桜の誕生会かねて、遊びに行くんじゃなかったの?」と、狐につままれたような顔をしていたけれど、わたしが謝るよりも先に、
「ごめん、キャンセルっ! 埋め合わせは今度するから!」
と、梓が言い放つ。振り向くと、藤倉はなんだか知れない梓の勢いに、ぽかんとしていた。ごめん、藤倉! と心の中でわたしは叫びながら、梓に引っ張られ学校を後にした。
そして、午後の街角を、家のある方角とは反対に向かう。行き先は、駅。梓が「切符は奢りだ」と言って、わたしに切符を渡す。切符に刻まれた駅の名前は、都心部を示していた。プラットホームに入ると、電車はお客を待っており、わたしたちは取り残されないように乗り込む。車内には、わたしたちと違う学校の学生や、会社員、それに主婦の人がいたけれど、その数はあまり多くなく、座る席に困ることはなかった。
「都って言うと、東京のことよね……」
駅を滑り出した電車の車窓から、流れる街並みを見つめながら、梓が呟く。確かに、千年前の都なら京都府だけど、現代の首都は、高層ビルの立ち並ぶ東京都ということになる。もっとも、都心に近い場所に住むわたしたちが、今から京都へ行くことなんて出来ない。そんな小旅行するほど、お小遣いももってないし。
「ねえ、梓。あんた、サクラの木に心当たりがあるの?」
わたしの夢の話を前提に、梓に問う。梓の行動は、それだけ確信に満ちているような気がした。
「ほら、新都心ビル。あそこに、大きなサクラの木があるでしょ?」
「あるけど……」
「あの木って、昔々、あたしたちのおじいちゃんやおばあちゃんが若かったころ、京都から移設して植樹されたんだって、聞いたことがあるのよ。っていうか、あんたの話を聞いて思い出した」
と言って、梓がニッと笑う。
「もしもの話として、あんたが桜の生まれ変わりの桜だとして、京都から、あんたの暮らすこの街の近くにサクラの木が運ばれてきた。もしも、これが偶然じゃなくて、サクラの木の下で、その男の子が待っていたとしたら、すごい奇蹟じゃない?」
梓の口調は踊っていた。友達のことなのに、何故だか自分のことのように、わくわくを胸の奥に湧かせているような、そんな感じがする。
「もしかしなくても、梓ってば楽しんでる?」
「楽しくなきゃ、こんなお節介を焼いたり、切符代奢ったりしないわよ。あたしだって、今月のお小遣いピンチなんだからっ!」
梓のちょっと悪戯っ子みたいな笑顔に、わたしはため息を吐き出しながら、窓の外に目をやった。流れていく街の景色のあちこちに、ちらほらと薄いピンク色が見える。ソメイヨシノの木だ。今まさに、サクラの花は満開のシーズン。きっとサクラの木の下では、全国的にお団子とお酒の消費量が上がっているはずだ。
そもそも、わたしの名前が桜になったのも、四月のサクラのシーズンに生まれたからで、別に運命的にその名前になったわけじゃない。秋に生まれれば「紅葉」になっていたかもしれないのだ。ぼんやりと春の霞にぼやけたその先にうっすらと見える都心を眺めながら、わたしはふとそんなことを思った。
と、その時。車内にけたたましい着信音が鳴り響く。車内のお客さんたちの視線が一斉に、わたしたちの方に向く。ところが、そんな視線気にもかけないで、梓は鞄から携帯電話を取り出して、愉しそうに話しを始めた。
受話器の向こうの相手は、梓の彼氏みたいだ。妙に猫なで声を出す梓に、ちょっとだけあきれてしまう。ちょうど、彼女の向かいの席の上には、「車内での携帯電話の通話は、他のお客様のご迷惑になります」というポスターが貼られている。どうやら、梓にはそのポスターが目に入らないみたいだった。
たっぷり二十分くらい、彼氏との甘いトークに花を咲かせていた梓は、切符のチェックに現れた車掌さんに叱られ、ようやく携帯電話を切った。
「常識なさ過ぎって、怒られた……」
と、梓がしゅんとする。
「まあ、自業自得なんじゃないの? のろけてるからよ」
「そんなの、あんたも彼氏作れば、あたしの気持ちがわかるわよ。って言うか、あんたが今まで誰とも付き合ったことがないってことが、あたしにとっては結構意外なんだけどねぇ」
「どうして?」
「だって、桜ってば可愛いし、ちょっとツッコミに棘を感じることもあるけど、性格もいいし。あたしが男子だったら放っておかないわね」
「お褒めに預かり光栄ですわ。でも、残念ながらいい人がいないのよ」
「ほら、三組の天文部の此木くんとかどうよ? ちょっと性格暗そうだけど、背も高いし顔も結構かっこいいし、かえって大人しくて陰を帯びてるとこなんか、ちょっと大人っぽくない?」
どういう評価だ。ほめてるのかけなしてるのか。その此木くんとやらが聞いたら、きっとしょげるか怒ると思う。
「気に入らない?」
と、梓がわたしに訊く。気に入るとか、気に入らないの問題ではない。
「此木くんって人が、そんなにかっこいいんだったら、もう彼女とか居るよ。ほら、それこそ同じ三組の藤倉とかさ」
「藤倉は陸上一本だもん。我が校きっての陸上のホープじゃん。恋愛とかに現を抜かす暇なんかないわよ」
「ごめんね、ヒマジンで」
「いや、そういうつもりで言ったんじゃないけど、まあ……あんたが気乗りしないんじゃ、仕様がないか。それに、これから前世からの愛しの君に、会えるわけかもしれないんだしね!」
梓はそう言うと、何を思ったのか両手を胸の前で合わせ、乙女な顔をして天井を見上げる。そして、
「ああ、前世の君よ……、桜は、あなたさまのことをお慕い申し上げております」
と、どこかの歌劇団みたいなお芝居がかった口調になる。それは、まるで夢の中で桜をからかった椿のしぐさに良く似ていた。
「何よそれっ!」
わたしが、お芝居モードの梓を睨めつけていると、車内に到着を知らせるアナウンスが流れる。わたしはお芝居を続けたそうな顔をする梓の手を引っ張って、電車を降りた。
梓の言うとおり、わたしは、自慢じゃないけど、って言うか、自慢にもならないけれど、恋をしたことがない。好きになった同級生の男の子もいなければ、憧れの先輩もいない。勿論、恋人なんて居るはずもない。そうやって、十五年の人生を歩んできた。その理由が、あの夢にあるのだとしたら、わたしはサクラの木の下へ行かなくてはならないのかもしれない……。
駅を出ると、レンガ色の空と太陽が高層ビルとビルの間から、金色に輝いていた。人通りが多く、車や電車が右へ左へと右往左往する都心の街並みは、どこか忙しなく夕刻を迎えている。
わたしたちは、歩道を真っ直ぐに、通称新都心ビルへと向かう。新都心ビルは、複合商店施設で、いくつものお洒落なお店が入っている。だけど、わたしたちが、ここへ来たのはお買い物が目的じゃない。やがて、通りの先に、その近代的な高層ビルが見えてくると、わたしたちは入り口の近く、噴水公園になったあたりに、一本のサクラの木を見つけた。
大きなサクラの木。夢の中で見た木よりもずっと大きい。有名なソメイヨシノは、樹齢がとても短い品種だが、目の前にあるサクラの木はヤマザクラの木。とても長命で、日本古来の野生種とされている。もっとも、その木を見ただけでは、ただ単に「大きいな」と思うくらいで、品種までは、梓の口から聞くまで分からなかった。
「平安時代から生き続けるサクラの木……もしかしたら、平安時代の桜もこの木を見ていたかもね」
梓は、ぽんぽんとサクラの幹を叩きながら言うが、それは、梓が勝手に夢の話と現実のわたしを結び付けているからに過ぎない。そして、その動機は、他人の恋の話に興味津々だからだ。このサクラの木がたとえ平安時代から現代に至るまで生き続けて、見上げるほどに大きくなったのだとしても、梓の言うようなことがあったとは、到底思えなかった。
「でもさ、梓。この木には、サクラの花が咲いてないね……」
太い幹から、まるで傘でも広げるかのように伸びる枝には、まだ花も葉も生えてはいない。未だ冬の名残のように、枯れ木のままで、その大きさとは裏腹に、貧相に映る。
わたしも梓も知らないことだが、ヤマザクラはソメイヨシノに比べて、開花時期が遅いのだ。だから、世の中が、お花見ムード一色になっても、この古のサクラはつぼみのまま、花開くときをまだ待っている。
「まあ、とにかく待ってみましょう。夢の中の君が現れるかどうか」
と、言うと、梓はヤマザクラの周りに置かれた、簡素な石のベンチに腰掛けた。その姿は、外野席から野球観戦でもしているようだ。わたしは、そんな親友にため息を送って、仕方なく隣の席に腰掛けた。ちょうどヤマザクラと向き合うような格好になる。
そうして、サクラの背景としては似つかわしくない、近代的なビルを見上げながら、どのくらいの時間が過ぎただろう……。ビルの隙間から見える四角い空は、いつの間にか藍色の夜空に変わり、僅かな光を放つ星が、申し訳なさ程度に瞬いている。そして、それにも益して、ライトアップされた新都心ビルが、きらきらと輝いていた。
そんなビルの真ん前に、モニュメントのように植えられた大きなサクラの木は一際目立ち、待ち合わせ場所としては重宝するのだろう。友達や恋人を待つ人が、携帯電話を片手に、今や遅しと待ち人が来るのを待っていた。やがて、そういった人たちも居なくなると、新都心ビルの入り口に置かれた、仕掛け時計が和やかなオルゴールの音を響かせて、わたしたちに帰宅の時刻を知らせた。
「梓、帰ろう。明日も学校なんだし」
親友をこんなバカなことにつき合わせてしまったことへの申し訳なさと、やっぱりあれはただの夢だったんだという確信が、わたしにそう言わせた。春とはいえ、まだ気温の低い季節。夜ともなれば、指先やつま先が冷たくなってくる。もしも、風邪でも引いたら元も子もない。
実際のところ、この世はとても平和で、とても穏やかで、人間関係や社会の仕組みに悩むことがあっても、わたしたちが、あの夢の中で死んだ茜や桔梗のように、命を奪われるようなことは、きっとない。戦争なんて、あまりに身近じゃない、今を生きるわたしにとって、あれは総て夢の中のお話なんだ。
だけど、梓は「もう少し待ってみよう」と言って、重い腰を上げようとはしなかった。わたしは、とうとう少しばかり苛立って、
「どんなに待ったって、誰も来たりしないわよ。あれは、わたしの夢が作り出した幻。春なんて男の子、居やしないわよ」
と声を荒げてしまった。ところが、
「でも、桜はここにいるじゃない。ほら、あと一時間だけ!」
何故か、わたしのことなのに梓に頼み込まれる。だけど、あと一時間もすれば、きっと風邪を引いてしまうし、それになかなか帰宅しない娘を、わたしたちの家族が心配するに決まってる。
わたしは無理やりにでも、梓の腕を引っ張って帰ろうと手を伸ばした。すると、突然に梓がサクラの木を指差して「あっ!」と驚いた顔をする。
「何よ?」
わたしは、梓の驚く顔につられて、後ろを振り返った。ついさっきまで、ただの枯れ木だったはずのサクラが、いくつもの白い花を咲かせている。まさに、満開。わたしも、驚きに声を失った。辺りのライトの所為だろうか、どこか白い花は、ぼんやりと光ってさえ見える。
「奇蹟よ。すごいっ!」
梓が立ち上がり、飛び跳ねるようにして喜ぶ。その隣で、わたしはその幻想的な光景に、ふと「サクラの奇術」という言葉を思い出していた。
まるで、そのタイミングを見計らったかのように、一人の男の子がサクラの木の下にやって来る。歳の頃は高校生くらい、制服に身を包んだその背は高く、彼が手を伸ばせば、白い花に手が届きそうだ。
男の子は、まだ花が咲くには早すぎるサクラの木を見上げて、わたしたちと同じように驚いたような顔をする。そして、すぐに辺りを見回して、わたしたちのことを見つけると、もっと驚いた顔をする。正確に言えば、わたしのことを見て驚いたのだ。
わたしも、同時に驚いていた。振り返った男の子の顔に見覚えがあった。夢の中、わたしじゃないわたしが恋をした男の子と同じ顔。優しさの奥に、どこか寂しさがある顔は、間違いなく……。
「あのさっ」
男の子は息を整えると、真剣な眼差しをして、ゆっくりとわたしの方に近づいてくる。傍らでは、梓がきょとんとしながら、わたしと男の子の顔を交互に見比べていた。
「あの、こんなコト言うと、ベタな口説き文句みたいなんだけど、その、君の名前は……」
「春……」
男の子がわたしの名を呼ぶ前に、わたしは男の子の名を口にしていた。
「じゃあ、君は桜?」
春の問いにわたしは、強く頷いた。すると、春の顔はぱっと明るくなる。そして、わたしの方に手を伸ばし、
「約束を、千年の約束を果たしに来た」
と、言った。わたしは、そっとその手に触れた。暖かい手のひらがぎゅっとわたしの小さな手を掴む。わたしの目の前に、梓いわくの「夢の中の君」がいる。信じられないと思う以上に、何故だか胸の中が嬉しさでいっぱいになった。わたしは春に、出来る限りの笑顔を見せた。春も、嬉しさをわたしに伝えるように、微笑む。
「わたしも、千年前の約束を果たしに来ました。あの時、わたしがあなたに伝えられなかったこと……。わたしも、あなたが好きです」
不意に、わたしたちを春の暖かな風が包み込み、サクラの梢がサラサラと揺れた。
(おわり)