第二十六話 戦の終わり
左近の命令に従い近衛大尉は、六名ばかりの手勢を率いて、内裏の奥に逃げ込んだ右大臣の消息を追った。しかし、内裏は広く、その構成はちょっとした迷路のようになっている。気の狂った男一人を探すにも、これでは埒が明かないと、近衛大尉が歯噛みしたその時、絹を裂くような女たちの悲鳴とともに「居たぞっ!!」と言う、舎人の声が聞こえてきた。
場所は後宮。皇族たちが、逃げ惑う中を逆行するように、近衛大尉たちは走った。やがて、薄暗い廊下の奥から、「ひひひっ」と奇声が聞こえてくる。
「間違いない、右大臣だ。捕らえるぞっ!!」
近衛大尉は舎人たちに言うと、廊下の奥へと足を踏み出そうとした。その足に、ぬるりとした感触を感じる。驚き、手に持った松明で足元を照らしてみる。ほのかに琥珀色をした液体が、廊下一面に撒き散らされ、つんとした独特の油の臭いがする。
まずい。直感的にそう思った、近衛大尉たちは、ぬめる床に足を取られぬよう、注意しながら廊下の突き当たりへと急いだ。そして、油壺と松明を握り締めた右大臣を見つける。
「馬鹿なことは、おやめなされ、右大臣さま! 大人しく、縛につかれなされ!」
近衛大尉が叫んだ。松明の炎に揺らめく右大臣の顔は、醜く歪み、目は焦点を得ず、ただ、ただ狂った笑顔をこちらに向けてくる。気味が悪い、近衛大尉たちは皆そう思った。
「うひひひっ、みなごろしじゃ! みなごろしじゃあっ」
近衛大尉の声は届いていないのだろうか。言葉一つ一つを躍らせるように、右大臣がわめく。そして、松明を床に放り投げた。油まみれの床にである。
「いかんっ! 撤退っ!! 逃げろっ!!」
踵を返し、大尉たちは廊下を戻る。背後で、ごうっ、と炎の音がした。熱気とともに、炎が渦を巻いて、大尉たちに迫る。
「もえろーっ!! もえてしまえーっ!! ぜんぶ、ぜんぶもえてしまえーっ! うひひひっ」
紅蓮の炎に体中を包まれながら、右大臣は歓喜の声とも思えるほど、愉しげに笑う。それが、右大臣という男の末路かと思えば、憐れなものである。
近衛大尉たちは、いくつかの廊下の角を曲がり、ようやくの思いで炎から逃れたものの、廊下からは、煙が噴出し、油の勢いと春風に勢いづけられた炎は、すぐにでも内裏を飲み込んでしまうだろう。
「憐れ、右大臣……。ぐずぐずはしておられぬ。あっという間に、内裏は火の海になる!」
腕で鼻を塞ぎながら、近衛大尉が言う。燃え盛る炎を消し止めるには、大尉を含め七名ばかりでは、手に負えない。どうしたものかと思案していると、大尉たちとは反対側の廊下から、女官が駆け寄って来た。
「これは一体、何事でございますか!?」
「右大臣めが、内裏に火を放った。それよりも、後宮の者たちは皆逃げ出したか?」
「はい。残っておられる方は居ないと思われます。ですが、内裏には……」
と女官が言いかけたその時、一際大きな音を立てて、廊下から炎が爆ぜた。女官は驚いて耳を塞ぎ、その場にうずくまる。
「くそっ! 逃げるぞ、皆の者っ!」
近衛大尉は、うずくまった女官の腕を掴み立たせると、六人の舎人衆を従えて、出口へと向かった。女官は、大尉に手を引かれながら、まだ東宮が内裏に残っているかもしれない、と伝えたかったが、背後を生き物のようにうねって走る炎に怯え、言葉が詰まってしまった。
そのころ、椿は葵の傍に居た。僧侶たちは、葵の介抱が終わると、どこかへ姿を消し、寝所には眠る葵と、見守る椿だけが残された。椿は妙に線香くさい部屋の中で、じっと葵が眼を覚ますその時を待っていた。
『大丈夫、葵は弱くない。きっと、明日の朝はちゃんと目を覚ましてくれる』
桜の言葉を何度も反芻しながら、ただひたすらに待った。これ以上仲間を失いたくない。茜と桔梗だけじゃなく、たった一夜で、何人の五巫司の仲間が死んだだろう。みんな、弓矢や薙刀を持たなければ、普通の少女たちだ。恋をして、おいしいものを食べて、仲間たちと笑いあう。それは、椿や葵も同じ。桜も同じことだ。だが、戦に巻き込まれ、多くの者たちが、二度と笑うことはなかった。
桜は、そんな仲間たちのために、いや、もっと大きなもののために、独りで右大臣の下に向かった。その後、桜がどうしているのか、椿は知らない。知る術がないことが、もどかしく、苛立たせる。
「椿……」
どこかから、かすかに声が聞こえた。思わず、椿は辺りを見回し、視線は声の主に行き当たる。先ほどまで熱にうなされていた葵が薄く眼を開いていた。
「良かった、葵。気がついたのね! 苦しくない? 痛いところはない?」
僅かに、椿が笑顔を浮べる。
「大丈夫。足の傷が痛むだけ。ごめんね、心配かけて」
弱々しいが、はっきりと聞こえる生気のある葵の声。それは、葵が毒に打ち勝った証拠だった。桜が言ったとおり、葵は弱くはなかったんだと、椿は思う。
「椿、戸を開けて。外の空気が吸いたい」
「うん。待ってて」
椿は立ち上がると、寝所の戸を開いた。不意にそよ風がさらさらと駆け抜けて行く。そして、風は部屋の中をぐるりと一周すると、再び戸から外へ出て、庭木の梢に止まり、青々とした葉を揺らした。木の葉のざわめきは、もうすぐやって来る初夏の匂いを運んでくるように、椿と葵は感じた。
「もうじき、春が終わるね……」
と、言いながら、椿が戸から身を乗り出して、夜空を見上げると、東の空が僅かに白んでいるのが分かる。夜が明けるまで、あと少し。
「ねえ、椿。桜は? 桜はどうしたの?」
葵が椿の背中に問いかけた。椿は振り向かなかった。じっと、内裏の方角を見つめている。ここからでは、朝靄に遮られ、内裏の屋根さえ見ることは出来ない。だが、そこに親友は居るはずだ。
「桜は、内裏に戻った。戦を終わらせるために、清浦さまの親書を持って」
椿は葵に背を向けたまま言った。
「無事かしら……」
葵の不安気な声。すると、椿は少しだけ笑って、「大丈夫、桜は強い」と答えた。それは、まるで親友の安否を心に言い聞かせるかのようだった。
「左近どの、お役目ご苦労でござる」
民衆と、反乱軍の兵が見守る中、朱雀門の前で朝惟は馬を降りた。門前には、左近を先頭に、文官たちが土下座をして、朝惟を待っていた。
「我等、官吏一同、その処遇すべて、清浦朝惟さまに一任するものでありまする。如何なる厳しい処罰も厭いませぬ」
左近が代表するように、和睦の意と降伏を朝惟に告げた。右大臣に媚を売っていた、参議たちは、逃げ出して捕まったり、抵抗して首を刎ねられたり、自ら腹を切ったものも居る。そのため、残された官吏の中で、もっとも位が高い左近衛大将である左近が、官吏の代表者ということになった。
「つきましては、清浦さまにお願いしたき議がございます。この国の未来に遺恨を残さぬよう、皇族の皆々さまがたへの処遇、何卒穏便に取り計らわれますこと、お願いいたします」
「勿論です、左近どの。戦は終わった。これより、我等は手を取り合って、この国を立て直さなければならない。そのためには、観国親王殿下を支えるそなたたち、そして皇族の方々は欠かすことが出来ない。どうか、表を上げられよ」
朝惟は膝を折り、左近の手を取り立たせた。その時である、内裏の方から爆音のような音が響き渡り、俄かに振動が、地面を伝わった。周囲の観衆が、ざわめく。その中の一人が「何だあれは!」と、指さした。
見れば、内裏の屋根と屋根が重なる場所から、黒煙が明け方の空に立ち上っているではないか。一気にざわめきが大きくなる。それと同時に、黒煙を割って真っ赤な炎の柱が伸びた。
「左近さまっ!!」
内裏より、血相を抱えた近衛大尉が駆けてくる。大尉は、左近の元までやってくると、息を整えて、
「右大臣が後宮に油を撒き、火をつけましてございます! おそらく、右大臣は火に飲まれ、生きては居りませんでしょう」
と報告する。
「なんとっ! 右大臣め、本当に痴れ者となったか。それで、消火はいかがいたしたっ!?」
左近は右大臣に毒づくと、大尉に問いかけだが、大尉は眼を伏せて首を横に振った。
「油を得た火の勢いは凄まじく、これだけの人数では、消火など出来ませぬ。しかし、幸いにも、内裏に居たものはすべて逃げ出した後でございますれば……」
「いえ、違いますっ!」
と、唐突に大尉の言葉を遮ったのは、大尉が連れてきた女官であった。
「と、東宮殿下がまだ清涼殿に居られるはずですっ!」
「何だとっ!? 何故先ほどそれを言わなかったっ!」
大尉は眉間にしわを寄せて、内裏の方を振り返る。炎が風に煽られて、強く強く燃え上がる。今から東宮の所在を確かめに、内裏に戻ることさえ許さないといった具合に。
「ああっ、申し訳ございませんっ!!」
わあっと、女官は両手で顔を覆い隠すようにして、泣き崩れた。
「これも運命か……東宮よ」
朝惟は泣き崩れる女官の姿を見つめながら、誰にも聞こえないほどの小さな声で呟く。朱雀門の前で、朝惟も左近も、官吏たちも、反乱軍の兵たちも、民も皆、呆然と燃えていく内裏を見つめることしか出来なかった。
かすかに煙の匂いがする。七条の火の手が内裏まで来たのか。いや、それはない。七条から内裏まで炎が燃え広がるには早すぎる。誰かが、内裏に火を放ったのだろう。だが、そんなことはどうでもいい。とても静かだ。何もかもが吸い込まれてしまうほどの静寂。いや、無音。
桜は弓を降ろした。そして、ただじっと春のことを見つめた。矢が春の胸を貫くその瞬間、春はかすかに微笑んだ。それは、はじめて彼に出会ったその日から、ずっと胸の奥で桜を支えてきた、あの優しく暖かな笑顔。
その瞬間、桜は、春が最初から死ぬつもりで、桜を挑発するように言葉を選び、あまつさえ譲葉のことを罵り、桜に残された迷いをかき消したのだと気付いた。しかし、放たれた矢を止めることは出来ない。
「桜……」
口元から血を流し、青ざめた顔の春は、もう長くは持たないと感じさせる。だが、まるで搾り出すかのように、桜の名を呼んだ。
「春っ!!」
桜は弓を投げ捨てて、春のもとへと駆け寄り、膝を突いた。桔梗が死んだあのときのように、桜の矢が貫いた春の胸からは、止め処なく血があふれ出してくる。桜は、その傷口に手を当てて、必死に血を止めようとしたが、それが無駄であることは、もう経験済みだった。
「春っ! 春っ、しっかりしてっ! 春っ!!」
泣きながら桜は何度も春の名を呼ぶ。すると、春はまた優しい笑みを浮べて、桜の手を取った。もういいんだ、傷口を押さえても、ぼくは助からない。春の眼はそんな風に言っていた。
「ごめんね、桜。こんなひどい役回りを君にさせてしまった……だけど、他の誰かに殺されるくらいなら、君の手にかかって死にたかった。ぼくのことをひどいやつだと、罵ってもいいよ」
「どうしてっ、どうして、嘘なんて吐いたの!?」
「嘘なんて吐いてない。ぼくが、たくさんの人たちを、死にたくないって思ってる人たちを、殺したのは嘘じゃない。ぼくが、東宮で、為政者だからっていうのも、嘘じゃない。今でも、それを間違いだと思うことが、どうしても出来ないんだ。だから、ぼくは死ななきゃいけないんだ……。もう、それ以外に罪を償う方法をぼくは知らない」
死ぬことを恐れてはいない。春はそう付け加えるように言った。
「なんで、こんなことになったの……?」
「それは、ぼくが過ちを犯したから。あの日、文屋さまはぼくに『どうか、その優しさを忘れぬよう』と言った。でも、そんな忠告も諫言もぼくは耳を貸せなかった。それが、ぼくの過ちなんだ。ぼくは、九年前、君と出会った日から、いつか桜にもう一度会った時、恥ずかしくない立派な東宮になろうと決めた。だけど、どんなに民のことを思って、あらゆる手を尽くしても、この国は良くならない。なのに、民たちはぼくに『国のことを思え』『もっと真剣に政をやれ』って言う。どうしたらいいのか、ぼくが民のために何が出来るのか、それが分からない。悩んで、悩んで、でもその道を教えてくれる人は、ぼくの周りにはいなかった」
そして、春はひとつの答えに行き当たる。国が良くならないのは、ただ為政者に救いを求めるばかりで、自分たちの手で、足で、この国を、暮らしを守ろうとは考えない民たちがいる所為だと。それが、正しい答えか、間違った答えかは、分からなかった。ただ、ひたすらに暗闇の奥にある、心の光明を求め、そして行き着いたのだ。だが、それは、もう引き返すことも進むことも出来ない、どん詰まりであることに、春は気付いていなかった。それに気付いたとき、まさに文屋岑延の物言わぬ亡骸を突き刺したときである。眼前に朧げに浮かんでいた光明は消え、そして残ったのは果てしない暗闇。
「ぼくは、優しさを殺して、暗闇を手に入れた。もうどこにも光なんてない。名も知らぬ誰かを苦しめた分の、心の苦しみを手に入れたんだ。馬鹿だよね……あの欲まみれのお祖父さまと、王の才なき父上の血を引く人間が、民を救うための政なんて、出来るはずがなかったんだ」
春の自嘲気味の笑い。かすれた声。桜ははじめて春の悩みを知った。きっと誰にも話したことはなかったのだろう。
「優しさなんていらない、なんて嘘だ。優しさを捨てたら、ぼくはぼくでいられなくなる。誰かを慈しんだりなんて出来なくなる、それに気付いたときには、もう総て遅かったんだ」
「それなのにどうして、立派な東宮になろうとしたの?」
「それは……君のように、強くありたかったから。譲葉が願ったように。そして、立派な東宮になったとき、君に伝えたかった」
そう言って、春は手を伸ばし、桜の頬に触れる。伝い落ちる涙を指で拭い取る。
「ぼくは君が好きだ。出会った日からずっと君のことを想い続けていた……。他の誰よりも好きだ!」
「春……!」
桜は言葉に詰まる。胸にしみこむような、透き通った言葉だった。ずっと、桜が聞きたかった言葉だった。
「約束を覚えてる? 『もしも将来、ぼくたちがひとりぼっちになったら、寂しいと感じたら、そのときは一緒に暮らそう。そうしたら、ずっと一緒にいられる。そうしたら、一人ぼっちじゃなくなるから、きっと寂しくない』ってぼくは言ったけれど、あの日交わした約束のように、ぼくたちが孤独か、孤独じゃないか、なんてもう関係ない。ぼくは、君と一緒にいたい……。君と一緒にいられないことの方が、寂しくて辛いんだ」
もっと早く聞きたかった。そうでなければ、その言葉は、別れの言葉になってしまう。いや、いままさにそうなろうとしているのだ。
春が咳き込む。口から大量の血を吐き出す。顎から首下にかけて、ドロドロの血が汚していく。桜はいたたまれなくなり、春を強く抱きしめた。
「もういいっ! 何も言わないで。全部分かってる……! だから、だからっ!!」
「いや、もう桜の顔もかすんでよく見えないんだ。ひどく寒いよ……。これが死ぬってことなのか」
「だめっ! 死なないでっ!!」
「いいんだ。ぼくは罪を認めて、死ぬ。だけど、惜しむべきは、君と一緒になるっていう九年前の約束を果たせないこと……。許しを請う代わりに、もう一度だけ約束させて」
青白く、命の灯が消えようとする春の顔が桜の瞳をじっと見つめていた。そして……。
「百年……ううん、千年後、何度生まれ変わっても、ぼくは必ず君を見つけ出す。だから、都で一番大きなサクラの木の下で待っていてほしい。そして、その時、一緒にいよう。寂しくならないように……」
春はそう言うと、静かにゆっくりと瞳を閉じた。急に抱きしめた春の体が重くなる。全身から生気が失われていく。まるで溶けていくように、静かに春は悠久の眠りについた。
「春っ!! 眼を開けて! 死んじゃいやだよう!!」
どんなに叫んでも、どんなに泣いても、春がもうその眼を開けることも、優しく微笑んでくれることもない。ただ、死を受け入れた安らかな寝顔を桜に向けてくるだけ。
「いやだよう……春がいなくなったら、わたしも寂しいよう……」
桜は自分の声が次第に小さくなっていくのを感じた。だが、その声も、とうとう清涼殿を飲み込み始めた炎の音にかき消されていく。
「わたしも、春のことが好き」
桜は春を抱きしめたまま、囁いた。炎が、二人を包み込んでいく。だが、ずっと、ずっと桜は春の傍を離れなかった。永遠に……。
『じゃあ、もしも将来、ぼくたちがひとりぼっちになったら、寂しいと感じたら、そのときは一緒に暮らそう。そうしたら、ずっと一緒にいられる。そうしたら、一人ぼっちじゃなくなるから、きっと寂しくないよ』
少年は、この国の皇子。少女は、貴族に拾われた乞食の娘。二人は出会い、約束を交わし、お互いに惹かれあった。少年は少女のことを、少女は少年のことを想い続け、九年の歳月が過ぎ、少年は東宮という、この国の未来を背負う立場として、少女は彼らを守る兵となった。
少年はその重責に怯え、心を砕き、優しさを捨てた。少女が憧れ、人生の支えとした優しさを。近づくようで、近づかない。すれ違うようで、すれ違わない。二人の運命はやがて、戦禍の炎がつつみこむ。
何を守るため。何を失うため。少年と少女は、まったく違うものと、戦い合った。そして、少年が想いを伝えたその瞬間、少女の放った矢は、彼の命を奪い去った。
死の間際、ようやく通じた心。そして、永遠の別れ。少年は、少女に約束を残す。
『千年後、何度生まれ変わっても、ぼくは必ず君を見つけ出す。だから、都で一番大きなサクラの木の下で待っていてほしい。そして、その時、一緒にいよう。寂しくならないように』
千年の約束を君に……。
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