第二十五話 桜の矢
左近が右大臣の投げ捨てた親書を拾い上げ、その文面を読み上げる。
「吾、内裏に戦を起こせし候らうは、ひとえにこの国の御世を憂いてのことで候。憂いなるは、右大臣どのの罪問いて候らえども、御身その罪を認めざれば、その意なきものと考え候。しからば、その是非を民草に問い、その罪を天に代わり誅することといたしたく候……」
「もうよいわっ! それ以上、その汚らしい文言を耳にしたくはないっ! 清浦め、わしが官位を返上し、右大臣の座から退き、あまつえ東宮殿下の皇位継承権を観国親王に譲らなければ、朱雀門に集まった民どもに武器を持たせ、ここに攻め込むと言いよった! 卑しい民どもを扇動して、この神聖なる内裏に乗り込むだとっ!? おのれ、清浦、浅ましき男よっ。これだから、武家はゴミ同然なのじゃ! 武器を振って戦うことしか知らぬ、愚かで卑しい、野蛮で傲慢な武家は皆殺しじゃっ!」
右大臣は、ギリギリと歯を軋ませながら、怒鳴り散らす。いや、むしろわめき散らすといった方が正しいだろうか。右大臣の姿は、まるで、どもがただをこねているように、その場にいる皆の目にも映った。
左近はそんな右大臣を横目に、親書を桜にも見せた。親書を預かってから、その文面に眼を通すのは、これがはじめてである。白い紙には、朝惟らしい几帳面な文字がつづられてはいるものの、それは脅迫にも近い怒りが見え隠れしていた。
その時である。一人の文官が、右大臣の名を叫びながら紫宸殿へと飛び込んできた。文官は額に汗を浮かべ、真っ青な顔をしながら、何事かを伝えようと、口をパクパクさせる。
「落ち着かれよ。何事か?」
左近が諭すように言うと、文官は唾をごくりと飲み込み、
「一大事でございます、右大臣さま! 兵部省の部隊は、兵部卿さま、兵部大輔さまがお亡くなりになられ、総崩れ。また、清浦朝惟が、西寺を出陣。自ら反乱軍の兵を纏め、大内裏へ進行しておりますっ!」
と、告げた。皆の顔が騒然と色めき立つ。
「さ、更に、朝惟は朱雀門前の民を煽り、民たちは鍬や鎌を手に、暴れ始めております。も、もはや、このままでは、反乱軍が内裏に攻め込んでくるのも、時間の問題っ。帝がご不在の今、敵との和睦が結べるのは、内裏でもっとも位の高い、あなたさまの他にございません! お願いです、民衆が、内裏に押し寄せてくる前に、今すぐにでも、大内裏に残る者を集め、和睦して下さいませ」
必死の形相で訴える文官の顔を見ながら、左近はついに最後の時が来たかと、深いため息をついた。ところが、報告を聞いた、右大臣はまたもや、声を荒げる。
「ならんっ! 和睦など断じてありえぬ! わしに歯向かう者は、たとえ誰であろうと、皆殺しにするのじゃ!」
狂気に彩られたような叫び声は、だんだんと甲高くなっていく。
「右大臣さま! まだそのようなことを仰られるかっ!? 後どのくらい、生き残っている武官がおいでと思われる。我が左近衛の手勢も、他の衛府の者たちも、兵部の者たちも、皆死んでいったっ! 更に、右近衛は、あなたさまが皆切り殺した」
左近は眉間にしわを寄せ、張り詰めた空気を吹き飛ばすような鋭い声で、右大臣に言った。
「もう、戦える者など一握りも残ってはいないっ! それがお分かりになられませんか、右大臣さまっ!!」
「なんじゃ、左近。このわしに、意見するというのか? この国の王を誰だと思うておるのじゃ、このわしぞっ! わしこそが、この国を統べる大王ぞっ!!」
ギャハハハと、下品に醜く右大臣は笑う。左近たちは、皆一様に顔をしかめた。
「他人の血を吸いすぎて、痴れ者にでもなったか……」
左近が右大臣の笑い声でかき消されるほど、小さな声で呟き、獣よりも醜くなった男の姿を少しばかり憐れんだ。
「右大臣さま……」
おもむろに、桜が口を開く。強く右大臣を睨みつけ、そして弓を取り、矢を番えた。きりきりと弦を引き、鏃の狙う先は、玉座に腰掛ける右大臣。
「そこは、あなたの座る場所ではありません」
「乞食娘め、身分をわきまえよっ! 王に矢を突きつけるとは何事かっ!! 左近っ! この泥と血にまみれて汚らしいなりをした乞食の娘を殺せっ!! 王の命令じゃっ!」
右大臣が左近にわめく。しかし、左近は動かない。左近衛の舎人たちも動かず、じっと右大臣を睨みつけた。
「わたしも、左近さまも、あなたを王だとは思わない。先人はこう仰いました。国を治める者は、民を愛し、民に愛されなければならない。常に民とともに歩み、民とともに土を耕し、民とともに慶び、民とともに生きる。それこそが、王の姿です。ですが、耳を澄まして下さい。あなたにも聞こえるでしょう、民の怨嗟の声が!」
桜が声を張り上げた。その声の向こう、遠く朱雀門の方角から、うねるような怒号と罵声が聞こえてくる。それは、嵐の唸り声か、遠雷の轟きのようだった。
「あなたのために、民が叫ぶ言葉は、喜びと賛辞ではなく、嘆きと憎しみの声です! どんなに策謀をめぐらせても、どんなに財や権力を手に入れても、あなたは、民を思う一握りの温かな心も持っていない。そんな人のことは、誰も王だとは認めませんっ!!」
透き通った声で、桜は言い放つと、右大臣の足元目掛け、矢を射た。狙い通り、矢は玉座の手前にタンっと小気味よい音を立てて突き刺さる。
「ひいっ!」
やや遅れて、右大臣が悲鳴を上げる。顔を上げれば、左近たちがギロリと睨みつけている。いや、左近たちだけではない、紫宸殿に転がる死体が皆顔をこちらに向けて、睨みつけているではないか。右近も、恒長も、譲葉も、憎しみの総てを、瞳に宿して。
「見るなっ! わしを見るなぁっ!!」
太刀を投げ捨て、顔を覆い隠すようにして、泣き叫ぶ。だが、今更になってその手が、血に濡れている事に気付いた。ドロドロの血がこびりついている……そこから、じわりじわりと込み上げてくるのは、恒長を突き刺したときの、感触。春が、気持ち悪いといった、あの感触だ。
ああ、本当に、気持ち悪い、吐き気がするほど気持ちが悪い!
「ひひひっ、ひゃひゃっ!」
右大臣は奇声を上げた。それは悲鳴なのか笑い声なのか分からない。ただ、空ろな眼をして、立ち上がり、奇声を発しながら、フラフラと北廂から内裏の奥へ向かって、紫宸殿を出て行く。皆その、狂った姿を呆然と眺めていた。
「右大臣を逃がすなっ!! 大尉の部隊は右大臣を逮捕しろ! 少尉の部隊はわしとともに朱雀門へ引き返し、清浦どのを迎え入れる! 残った者は文官全員に召集をかけろ! 及び腰の参議どもも全員引っ張り出して、和睦の準備を行わせろ!」
左近が停滞した空気を引き裂いた。次々と舎人たちに命令を下す。すぐさま、左近衛大尉が、部隊を編成すると、右大臣が消えた内裏の奥へと走っていく。
「この亡骸はいかがいたしましょう?」
舎人の一人が、あたりを見渡して、左近に尋ねた。左近は、亡骸に憐憫の思いを隠しきれない様子だったが、ぐっと顔を引き締め、心を律して、
「今は、急を要する。忍びないが、このままといたせ」
と、命じた。命令を受けた左近衛少尉たちは、左近に先んじて、紫宸殿を降りていく。
「右近衛の待機命令は解く。これより、生き残った右近衛の者たちには、民衆を鎮めるのを手伝ってもらわなければならないが……そなたはいかがいたす?」
左近はゆっくりと、桜に近づき、尋ねた。桜はじっと俯き、泣きたい気持ちを押さえ込もうとしているように、左近には見えた。
「わたしは、わたしにはまだやるべきことが残っています……」
桜の返答に、左近は怪訝な顔をしながらも頷き、軽く桜の肩を叩いた。
「左様か……ならば、わしはもう行くぞ」
と、桜に言い、左近は少尉の後を追って走り去った。やがて、左近の足音も聞こえなくなり、桜一人を残して、誰もいなくなった紫宸殿が急に静かになる……。
桜はその場に膝をついた。ぼろぼろと涙がこぼれてくる。これで、戦は終わるんだ。心の中で、誰かがそういったような気がした。目の前には、譲葉の亡骸があって、自分の周りには、右近や右近衛の舎人たちの無残な姿が転がる。
「もう少し……もう少しわたしが早く、戻ってたら、譲葉さまは、右近さまは死なずに済んだの?」
誰に言うでもなく、桜は呟いた。だが、そこに答えをくれる者は誰もいない。体が震える。寒いからでも、怖いからでもない。心の中に広がる空しさと、哀しさがそうさせるのだ。桜はぎゅっと自分の肩を抱き、小さくうずくまった。
その時、不意に紫宸殿に風が舞い込む。そして、風とともに、どこかから笛の音が響いてきた。繊細で美しい調べ、だけど、とても哀しげな音色。桜は顔を挙げ、涙を拭いて立ち上がると、その笛の音に導かれるように、歩き出した。
紫宸殿の西廂を出て、廊下を北に進む。次第に笛の音は大きくなってくる。桜は、弓を握り締めながら、渡殿を越えて、清涼殿へと向かう。笛の音は、そこから聞こえているようだった。足音を殺しながら、御簾をはぐり、蔀の隙間を避けて、清涼殿の南廂へと入る。すると、月光に照らされる廂に、桜に背を向けるようにして、その人はいた。
まるでそこだけが、戦の喧騒とは別世界のように、切り取られ、青白い月明かりと相まって、幻想的にさえ思えた。黒い直衣に身を包み、瞳を閉じて高麗笛を奏でるその人が誰なのか、後姿だけで分かる。九年間、ずっと想い続けてきた人の後姿、見間違えるはずもない。
風が止む。同時に、春は背後に迫る気配に気付き、笛を吹くのを止めた。辺りが、耳に痛いほど静かになり、桜は心臓が跳ね上がりそうになる。
「ここには、俺以外誰もいない」
そう言うと、春は振り返った。そして、そこに立つ少女の姿をみて、少しだけ顔色を変えた。
「桜、その格好……」
それは、五巫司の水干のことを言っているのか、それとも血と泥で汚れた姿のことを言っているのか、桜には分からなかった。むしろ、そんなことはどうでも良くて、桜には、まだやるべきことが残されている。西寺で朝惟より聞かされたことの、真偽を知りたい。春の口から直接聞きたい。それは嘘だと、聞きたい。でも、もしも真実だと春が言ったら、どうすればいいのだろう。そんな思いが、桜を沈黙させた。
「父上……帝は朝惟が反乱を起こしたと聞いたら、取るものもとりあえず、慌てて逃げ出した」
春は、まるで桜の沈黙を気にするように、口を開いた。
「あれで、この国の天皇だと言うのだから、笑い種だ。しかも、参議の連中は恒長と右近が謀反を起こしたと知って、勝手に都を見限って、これも逃げ出した。だけど、今頃は都を取り囲む反乱軍に捕まっているだろう。五大満足に都へ戻ってきたとき、彼らは、どんな顔をして俺の前に現れるつもりなのか」
そう言って、乾いた笑い声をたてる。その嘲笑は、逃げ出した父親や参議に対してだけでなく、春自身にも向けられている、桜にはそんな気がした。
「その時が愉しみだ。阿呆どもが雁首ならべて、俺におべっかを使う。なんと言って、奴らを罵ってやろうか? なあ、桜、どう思う?」
「春……いいえ、東宮殿下はお逃げになられないのですか?」
ようやく自分を取り巻く沈黙を払いのけて、桜がかすれた声で言う。すると、春は再びくすくすと笑う。
「どこへ逃げる? 逃げる場所なんてこの国の何処にもない。反乱軍の連中も、民も俺の顔を見たとたんに、怒りに任せて斬り殺すだろう」
「どうして……?」
「その理由は、もう分かってるんじゃないか? 再三の陳情も諫言も無視して、貧困にあえぐ諸国の民を見殺しにした。さらに、この国の次の王であるこの俺が、乞食どもを皆殺しにした。文屋も、譲葉の父上を殺した罪人も、男も、女も、ガキも、老いぼれも。みんな、泣き叫んで」
「やめてっ!!」
桜が春の言葉を遮る。耳を塞ぎ、それ以上聞きたくないと、頭を振る。だが、春は顔色一つ変えないで続ける。
「みんな泣き叫んで、俺に助けを請うた。『東宮さまどうか、お許しを!』『わたしの子どもだけは見逃して下さい』ってな。でも俺は、誰一人許さなかった。逃げるやつもみんな、歯向かうやつもみんな殺してやった!」
と、春は声を荒げて言い放った。予感はしていた。こうなることを予感はしていたが、心のどこかで朝惟が嘘を吐いたと思いたかった。目の前にいる、春は優しい人。その優しい人が、迷いもなく殺戮に手を染めたなんて信じたくはなかった。
「どうして、そんなひどいことを……?」
「ひどいことだって? 桜はおかしなことを言う。帝の御世を揺るがせにする民たちを殺して、何が悪い? 卑しい身分の者たちは、自分たちが幸福に暮らせることだけを望み、貧しさや苦しさはすべて、為政者の責任だと言って、なすり付ける。何とかしろ、どうにかしろって、叫べは、世の中は豊かになると思ってるんだ!」
「それは、権力者の詭弁よ」
「詭弁? ああ、そうかもな。しかし、俺は東宮だ。生まれながらにして権力者だ。国を治め、民を支配する。それは、とても人間らしいことだ。獣には、国という考えかたさえない。その方が、野蛮で愚かなことだと言えるだろう? だから、民は統治者に従い、統治者の命ずるままに生きる。それこそが、叡智ある人間の本来の姿だと言えるんだ」
「そのために、人が人を殺すの? それが叡智だと言えるの?」
「じゃあ、桜は今日、何人の人を殺した? 朝惟の兵をいったい何人殺して、その水干を血と泥で汚したんだ?」
「ちがう、わたしはただ、朝惟様が反乱を起こしたり、都が火の海になったり、茜や桔梗、右近さまや譲葉さまが死なずに済む方法はなかったのかって、聞きたいの! 朝惟さまは何故兵を挙げたの? それは、春の言う詭弁の所為よ。この国を統治するために、邪魔な者は殺すことが、仕方のない必要悪だったとしても、その所為で苦しむ人がいる。だから、みんな怒ってるんじゃないの?」
「そうだよ。だけど、その朝惟だって、新しい統治のために、邪魔な者を殺そうとしてる。戦を起こしてな」
「朝惟さまも、石丸さまもみんな、自分たちが正義じゃないことは分かってる。誰も、正しくなんかない。朝惟さまも、右大臣さまも、帝も、わたしも……あなたも」
「でも、哀しいかな、俺は東宮だ。卑しい乞食の娘だった、お前には分からないだろう」
その一言は、どんな刃よりも鋭く深く桜の胸を突き刺した。東宮……乞食の娘。その遠い身分の隔たりは、一体どれほどの距離があるのか。一歩踏み出して手を伸ばせば、そこに春はいるはずなのに、どんなに追いかけても、春に届きそうな気がしない。
桜は黙りこくったまま、おもむろに左手を袂に引っ込めた。次の瞬間、右手で腰の小太刀を掴む。何をするつもりなのかと、春は眼を見張った。
「心配ご無用! ひと時も目を伏せてはならぬぞ」
桜の言った言葉は、あの日朝惟が言った言葉のままだった。桜は、すばやく小太刀を鞘から引き抜き、空を切った。一瞬のことだった。思わず眼を伏せた春が、再び眼を開くと、音もなく春の頭上にサクラの花びらがはらはらと舞い落ちてくる。それは、季節外れの淡い白雪のようで、春の眼は釘付けとなった。
桜は、はばきの音を立てながら、手早く小太刀を鞘に納めた。
「すごい……一体どうやって?」
と、言いながら春は視線を床に落とした。床には舞い落ちた桜の花びらの他に、小さな布袋が真っ二つに割られて、落ちていた。
「予め、その布袋にサクラの花びらを詰めておいたんです。それを左手で持っておいて、相手の視線を太刀に集中させている間に、天井目掛けて放り投げ、右手の太刀で斬る。わたしが、九年間考えて出した、奇術の方法です。でも、朝惟さまが見せてくれたときには、そんな袋は落ちていなかった。秘伝の奇術は、たった九年じゃ紐解けるものなんかじゃないんです」
そう言うと、桜は布袋を拾い上げた。
「たった九年……わたしには短いような気がしてた。だけど、九年前、薄暗い炭小屋の隅で、わたしが奇術の話をしたとき、眼を輝かせて嬉しそうに微笑んでくれたのは、もう過去のことなの? 九年という月日はそんなにも長くて、人をそんなにも変えてしまうの? 九年前のあなたは、人を平気で殺したり、卑しいと罵るようなことはなかった! わたしのことを乞食の娘と知っても、厭な顔一つせずに微笑んでくれた、あの優しさは何処へやったの!?」
「月日の長さなんて関係ない。人は簡単には変わったりなんかしない。君も俺も、朝惟でさえ。だから、俺はずっと俺のまま、東宮春なんだ」
もしも、春が東宮でなければ、自分が乞食の娘でなければ、約束の果てがこの結末なのなら、いっそ出会うことがなければ、絶望も悲しみも知ることはなかったのだろうか。そう考えれば考えるほど桜は胸を締め付けられる。
「ひとつだけ、お聞きします、東宮殿下。あなたは、乞食たちを皆殺しにしたことを、後悔していないのですか?」
桜は布袋を握り締め、搾り出すように尋ねた。春は「フンッ」と鼻で笑うようにして、
「後悔なんかしていない。俺は、俺のためにゴミどもを始末しただけのこと。それを咎めるなら、この世に住む万民も同じことだ。誰かを傷つけ苦しませずに、生きていけるものなど誰もいない。為政者にだけそれが許されないのであれば、そんな世の中こそ間違っている!」
と、曇りなく言い切った。それは、桜にとって訣別の言葉のように思えた。
「もう、サクラの奇術を見ても、あなたは喜んでくれない。やっぱり九年前とは違う。それでも、あなたがあなたであり続けるというのなら、わたしはわたしであり続けたい」
桜は、矢筒から一本の矢を取り出し、静かに番えた。弦を引き絞る。鏃の先に、春を捉え、狙いを定める。しかし、弦を引く手が震えている。頬を涙が伝い落ちる。
「桜、何をそんなに泣いているんだい?」
春はじっと、桜の方を向いて動かない。せめて、右大臣のようにみっともなくわめき散らしてくれたなら、この手の震えも止まるのに。
「そうだ、良いことを教えてやるよ。譲葉を刺し殺したのは俺だ!」
春の言葉に、桜は息を呑む。
「なぜ、譲葉さまを……?」
「愚か者の兄を庇ったりなんかするからだ。今際の言葉が、『せめて桜さんのように、強くありたかった』だなんて、馬鹿なやつだよ、譲葉は!」
そう言って、春は大声で笑う。その姿に桜は右大臣の醜さを見たような気がした。目の前にあるもの総てが嘘なら、そうであってほしい。しかし、そこにあるものは現実。たとえ、神仏であっても帰ることが出来ない現実なのだ。
「譲葉さまは、本気であなたのことを好きだったのよっ!! 馬鹿なやつだなんて言わないでっ!」
弓矢を引く手に力が篭る。
「さようなら……春」
桜は呟くように言った。
震える手のまま弦を離した。
桜の矢は音もなく、春の胸を貫いた。
ただ真っ直ぐに、その命を奪うために貫いた。
春はうめき声一つ上げなかった。
春の体が床に崩れ落ちる。
床に散らばったサクラの花びらが、ふわりと舞い上がった。
春胸からは、だくだくと真っ赤な血があふれ出す。
桜の瞳からも、涙が止め処なくあふれ出す。
あまりにも静かで耳が痛い。
足が震えている。
手が震えている。
体が震えている。
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