第二十四話 対峙
「どうしてあの時、わたしたちを西寺へ連れて行ってくださったのですか?」
と、もうじき大内裏の庁舎群が見えてくるころになって、不意に桜が石丸に尋ねた。
西寺を出て、内裏を目指すため、一路西の門より洛外に出て、都の外縁を迂回する。その一条までの道のりを石丸が数人の部下とともに、警護してくれることとなった。主戦場である場所以外では、比較的人もまばらで静かであった。それは、すでに、戦の前線が内裏に近づきつつあることを示していた。時折、すれ違う反乱軍の兵たちは、桜のことを奇妙に思い、じとじとと視線を送ってきたが、隣に石丸が居てくれるおかげで、何事もなく、内裏を目指すことが出来る。
「あの時って?」
突然に質問を投げかけられた石丸は、少し驚きながら問い返した。
「わたしが、西寺へ行って、朝惟さまにお会いしたいと言った時です。わたしたちは、近衛です。あなたたちの敵なのに……」
「そりゃあ、君が可愛かったから」
と、石丸はおどけて見せるが、もちろんそれが本心でないということは桜にも分かる。桜は、石丸がきちんと答えてくれるまで、視線をそらさずじっと石丸の瞳を見つめた。
「その目だよ……」
ぽつりと、呟くように石丸が言う。
「お館さまにお会いして、戦を止めると言ったときの、お前の目が真剣だった。本当は、敵なら女の子だろうと、切り殺すつもりだった。でも、その目にきっと負けたんだな」
実のところ、石丸にもどうしてあの時、桜たちを西寺に通したのかはよく分からなかった。桜に答えたことは、ほとんど言い訳みたいなもので、あの時はそうするのが一番正しいと直感で思ったからだ。しかし、れっきとした根拠などないということを伝えれば、なんとなく格好悪いような気がしてしまうあたり、石丸もまだまだ若いということなのだろうか。
「それよりも、お前こそどうなんだ? 正直どう思ってる?」
「どう思うって、何をですか?」
「お前の仲間を殺したのは、俺たちだ。恨みに思っているんじゃないかって……ほら、今なら俺たちを殺してあの子の仇を討つのなんて、造作もない」
石丸がそう言うと、ちらりと後続の部下たちに目をやった。しかし、部下たちは周囲を警戒するので手一杯な様子で、石丸の視線には気付いていない。桜の弓矢は、西寺を出るときに、石丸に返してもらった。矢筒にはぎっしりと矢が補充されて。
確かに、石丸を殺め、茜の仇を討つならば、今は絶好の好機かもしれない。石丸の喉でも胸でも良いから、矢を放ち、その足で逃げる。咄嗟のことに驚く部下たちを撒くのは容易なことだ。
しかし、桜にはそのつもりはない。
「恨みに思っていないって言ったら、嘘になります。でも、親友の命を奪ったあなたたちと同じように、わたしも、お侍さまをたくさん斬りました。その人たちにも、友達や家族がいたはずです。恨みを恨みで、憎しみを憎しみで返すだけでは、何も変わらない。だから、わたしは朝惟さまの親書を届けるんです」
と言って、桜は懐にしたためた親書を水干ごしに確かめる。
「割り切ってるってことか?」
「違います。茜のことを割り切るにはもう少し時間が必要です。せめて、石丸さまが、もっと悪い人だったなら、わたしも椿も割り切らずに済むのですが……」
「いや、案外悪いやつかもよ」
石丸がやや自嘲気味に笑う。
「どんなに義をかざしても、戦で命を奪い合うのは正しいこととは言えない。それでも、俺たちは、東宮と右大臣を許せないから、武器を手に取った。武士である俺たちに出来ることは、戦うことくらいだからな。その過ちの報いは、いずれ受けるだろう。それが、誰かの手によるものなのか、それとも神仏が罰を下すのかはわからないけれど、その罰を受ける前に、俺たちは使命を果たす!」
「やっぱり、石丸さまは悪い人ではありません。自らの行いを冷静に理解しておられます。そして、ご自分がここに居る意味を知っている。わたしも石丸さまのように、わたしがここに居る意味を成し遂げたい。茜がその道を開けてくれたんです」
桜はぐっと拳を握り締めた。その瞳に決意の色を見た石丸は「ふうん」と感心したような声を上げる。
「ならば、その親書必ず、右大臣のもとに届けてくれ」
と言って、石丸が指差す先は、内裏へと真っ直ぐ東に伸びる路である。人影はほとんどなく、その突き当りには、月明かりに照らされた上西門が口を開けて待っている。
「俺たちが護衛できるのは、ここまでだ……。ここから先へは、一人で行くんだ」
「はい」
桜が上西門を見つめながら頷くと、石丸は小さく笑って、「じゃあな」とだけ言って、踵を返す。桜は戦場へと戻っていく石丸たちの後姿を見送ってから、上西門へと通じる土御門大路を歩き始めた。
前線から遠いこの大路は、とても静かで、聞こえてくる戦の音はどこかぼやけている。道の両脇には、貴族の邸宅や民家が軒を連ねているものの、そのどれもがひっそりとしており、そこに家人が居ないことを示していた。もうどこかへ逃げてしまったのか、それとも死んでしまったのか、それは桜には分からない。戦が始まって、ずいぶんと時間が過ぎ、もう数刻もすれば、東の空が白んでくるだろう。そうして、朝が来る前に、これ以上の命が潰えるのを止めなければならない。
誰かにそう言われたから、そうするのではなく、これは桜が自分に課した使命。かつて、乞食の娘として死の淵をさまよったその時、香子に救ってもらい、生きる道を得た過去をもっているからこそ、目の前で人々が死んでいく様を黙って見ているわけには行かないのだ。
そんな思いを胸に、桜は独り、大路を駆け抜けた。やがて、眼前に上西門が迫ってくる。
「止まれっ!!」
巨大な内裏の西門には似つかわしくない、たった二人の門兵が声をそろえた。
「わたしは、近衛ですっ!! 敵方大将、清浦朝惟さまより、右大臣さま宛の親書を預かってまいりました。お通し願いますっ!」
桜は懐より親書を取り出し、表に書かれた「御忠信」の文字を門兵に見えるように掲げた。しかし、二人の門兵はちらりと顔を見合わせ、眉間にしわを寄せると、手に持った槍を構える。
「その方、近衛と申したな。右か、左か?」
唐突な門兵の質問に、桜は怪訝に思いながらも「右です」と答える。すると、門兵の顔色が更に曇り、槍に殺意が宿った。
「右近衛であれば、通すわけにはいかんっ!!」
「お、お待ちください、何ゆえでございますか?」
と、桜が目を丸くする。
「何だ、知らんのか? 右近どのが、建礼門を硬く閉ざし、内裏に立てこもったんだ。右近衛は裏切り者だ!」
門兵の言葉に、思わず桜は耳を疑わずにしいられなかった。
「そんな、右近さまが裏切り者だなんて……」
「お前が持っている、その親書こそ、裏切りの証拠ではないのか?」
「右近が何を考えているのかは知らぬが、右近衛大将ともあろう者が、反乱軍に同調するように謀反を起こすとは、許せぬっ!」
槍の穂先を桜に向けながら、門兵二人は、口をそろえて右近を非難する。桜は愕然として、親書を掲げた手を下ろし、一旦は俯いたが、すぐに顔を挙げ門の向こうを見据えた。奥に聳える内裏がうっすらと月明かりに照らされて見える。『これから先、何が起きてもおかしくはない』西寺を目指す前に言った、右近の言葉とは、そういう意味だったのか? 右近が裏切ったなどと俄かに信じられるようなことではないが、その事の真偽は月明かりのしたの内裏にある。それに、朝惟の親書を届けるためには、何としても内裏へ行かなくてはならない。
「押し通らせていただきますっ!!」
桜は叫ぶと、小太刀を抜き放ち、門兵に向かって駆ける。うろたえる門兵の一人は、槍を振って桜突き刺そうとするが、すばやく身をかがめ、鋭い穂先を寸でのところでかわすと、ひらりと舞うように、二人の門兵の隙間を縫って、門扉に近づいた。
「このっ! 裏切り者めっ」
もう一人の門兵が、桜を罵り、大きく振りかぶって槍を振り下ろしてきた。それに対しても、桜は冷静で且つすばやく、小太刀を構え、穂先を受け流し、更に飛び跳ねるようにして、門をくぐる。
「真の裏切り者、反乱の根は近衛ではありませんっ!」
弁明のつもりではなくそう言うと、桜はそのまま大内裏を走った。「待てっ!」と引き止める声が背後から聞こえたが、振り向く余裕などない。桜は風のように駆け抜け、立ち並ぶいくつもの庁舎の隙間を掻い潜って、真っ直ぐに内裏を目指した。門兵たちが追いかけてくる足音は、すぐに聞こえなくなり、代わって内裏の正門である、建礼門が見えてくる。
建礼門の前には、人だかりが出来ていた。皆、甲冑を纏っており、遠目にも武官であると分かる。その人だかりの中で、群を抜いて背の高い、ひょろりと痩せぎすな男が、走ってくる桜に気付いた。
「止まれっ!! 何者かっ!?」
男が声を張り上げる。桜は、篝火に揺らめく男の顔に見覚えがあった。
「左近さまっ!!」
桜は駆け寄りながら、男の名を呼んだ。右近衛府と対を成す、左近衛府の大将、左近である。屈強と言うには、多少頼りない体格だが、その目つきは鋭く、右近に勝るとも劣らない武将然とした風格がある。
「そなたは……右近衛の」
左近も桜の顔に見覚えがあった。
「確か、賭弓の折に、大江少録を射た娘ではないか……名は何と申したか」
「桜です。右近衛府五巫司、桜にございますっ!」
左近の下まで来ると、踵を揃え敬礼をして、桜が名乗った。それを聞いた、周りに居る左近衛の舎人衆が、騒然となる。突き刺すような鋭い睨眼が、桜に注がれた。
しかし、左近だけは冷静な眼のまま、
「して、桜。そなた何用があって、ここへ参った?」と、桜に尋ねた。
「敵方大将、清浦朝惟さまより、右大臣さま宛の親書を預かってまいりました」
「なんと! 清浦どのの親書とな? ……しかし、見ての通りだ。右近は、壬生恒長どのとともに、内裏の総ての門を閉ざし、立てこもった。内裏にはは入れんぞ」
と言って、左近は後ろを振り返った。左近衛の舎人たちは、突然に敵の親書を持って現れた、右近衛の桜に警戒と訝しみの視線を送りながらも、大きな丸太を担ぎ、必死に門を破ろうとしていた。
「では、右近さまの裏切りというのは、真実なのですか?」
桜が声を震わせた。
「ここからでは、中の様子も見えぬ故に、委細は分からぬが、右大臣さまのご命令によって、内裏警護に戻された右近率いる右近衛の主力が、門兵を襲い、門を閉ざしたことだけは確かだ」
「主力ということは、わたし以外の五巫司の子たちは?」
「他の者は、通例に従い捕縛し、右近衛府庁舎にて待機させている。もっとも、そなたにもそうしてもらわねばならぬ。すべては、戦という一大事に重ねて謀反を起こした右近の責任と思え」
冷たく左近が桜に告げたその時だった、左近衛の舎人が「門が破れますっ!」と叫んだ。左近は、舎人の方に向き、腰刀を引き抜く。
「よしっ! 皆の者突撃の準備じゃっ!」
左近が腹の底から声を上げる。
「お待ち下さい、左近さま! わたしも、わたしもお連れ下さい! この親書、必ず右大臣さまに届けるよう、朝惟さまから仰せつかっておりますっ」
食い下がるような桜の目を見た左近は、しばらくその瞳を見つめ、何事か思案すると、「よし、分かった」とだけ返した。
強固な建礼門に、太い丸太が最後の一突きを浴びせ、めりめりと音を立てながら扉を固く閉じていた閂が割れた。その反動で門が、重い音とともに自動的に開く。桜と左近たちの正面には、石畳が続き紫宸殿がある。しかし、紫宸殿はひどく静まり返り、建礼門が破れる音を聞いても誰一人姿を見せない。拍子抜けというよりは、ある種の奇妙で不穏な空気が内裏全体から漂っているような気がした。
桜と左近たちは、とにかく走って、紫宸殿の階段を登る。
「右近さまっ!!」
桜は、身軽に段を飛ばしながら、右近の名を呼んだ。そして、一番乗りで南廂にたどり着いたその時、桜の視界に飛び込んできたものは……。
「これはっ、一体っ!?」
やや遅れて、息を切らせながら現れた、左近が顔をしかめる。
広い紫宸殿の床は赤黒くぬめり、血の臭いが充満している。左近の足元には、それが誰のものであるかも分からぬ腕が転がり、少し視線をずらせば、斬られたばかりの生首がぎょろりとした生気のない視線をこちらに向けている。今しがた、斬り合いが行われたことを示すかのように、いくつもの死体が転がる凄惨な光景は、思わず眼を背けたくなるほどだった。
「右近さまっ!」
死体の一つ。床に斃れた血まみれの大男が、右近であることに気付いた桜は、形振りかまわず駆け寄った。もはや、右近に息はない。恒長が殺された後、直参の武官と切り結んだ右近は、あっという間に太刀の串刺しとなった。都の武官でも、一、二を争う屈強な男も、形成と多勢には敵わなかったことを、桜は知らない。そして、何故こんなことになったのか、それを問い質そうにも、尊敬し続けた師である男はすでに、この世を後にしていた。
「憐れよのう……」
何処からか、しゃがれた声が聞こえてくる。桜は辺りを見回してその声の主を探した。
「あの右近めが、悲鳴を上げながら死ぬ姿を、そなたにも見せたかったぞ」
引き攣ったような、奇妙な笑い声とともに、玉座に腰掛ける声の主を見つけた桜は、小太刀を握り締め身構えた。
「右大臣さま……」
と、声の主の名を口にする。右大臣は、愉快そうに笑いながら、桜の顔を見た。その手には、血でドロドロになった太刀が握られている。そして、血塗られた太刀の先を眼で追い、そこに斃れた二つの亡骸に、桜は息を呑んだ。
譲葉とその兄恒長である。二人は胸を貫かれ、寄り添うようにして眠っていた。けして安らかな寝顔ではない。譲葉の顔は哀しみに溢れ、恒長の顔は悔しさが滲んでいた。
桜は、脚が震え、涙がこぼれそうになるのを必死でこらえながら、口元を押さえた。
『あなたが恋敵でよかった……』
譲葉の優しい微笑と言葉が、心の底を去来する。椿や茜のような親友とは違う。しかし、同じ人を好きになってしまった者同士、少しだけお互いの心を通わせることが出来、そしてこれから先、親友となり喧嘩したり笑いあえたであろう少女の無残な姿に、桜の胸はきつく締め付けられた。
「右大臣さまっ、これは一体いかがなされたのだっ!?」
今すぐにでも桜が右大臣に問いたいことを、右大臣の前に歩み出た左近が尋ねた。すると、またもや右大臣は奇妙な笑い声を上げた。
「この馬鹿者どもが、わしに立てついたのだっ! 故に謀反人にふさわしく死罪を申し渡したまでのこと。壬生め、親子兄妹そろって、愚か者よっ!」
右大臣の言葉に、左近があからさまに嫌悪の顔を示した。死体が転がり、血の海となったこの場所で、笑っていられるなど尋常ではない。
「愚か者だなんて……」
桜の胸の内に、悲しみをかき消すように怒りがこみ上げてくる。譲葉さまは、けして愚か者などではない、と叫び、小太刀を右大臣の腹に突き立て、すべての仇を討ちたいと思う気持ちをぐっと飲み込みながら、桜は懐より、朝惟の親書を取り出した。
いくつもの死。人を殺すことに怯えながら死んでいった桔梗、親友のために戦った茜、ともに笑いあった譲葉、五巫司の少女たちを育てた尊敬すべき右近、桜のために道を開いてくれた名も知らぬ武官、桜が殺めた反乱軍の侍たち……。今怒りに身を任せれば、その死総てが、無駄になる。
「右大臣さま。清浦朝惟さまよりの親書にございます……」
悲しみも怒りも総てを必死で飲み込みながら、桜は握り締めた親書を、右大臣に差し出した。右大臣は何も言わず、親書を受け取ると、しげしげとその文言にめを通す。その間、桜は譲葉の亡骸に眼を合わせないようにした。譲葉の亡骸を見つめていると、きっと泣き崩れてしまう。いろんな悲しみがあふれ出してしまう。そして、刺し違えてでも、右大臣を殺したくなってしまう。だが、そんなことのために、内裏に戻ってきたわけじゃない。
「清浦めっ!」
突然、右大臣の声色が曇る。そして、怒りを露に、親書を投げ捨てた。
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