第二十三話 兄と妹
桜が朝惟の親書を持って、西寺を出発したころ、内裏に一つの動きがあった。あちこちに掲げられた、篝火を避けるように、武具を携えた一団がすばやく夜の闇から闇を渡り、内裏の正門、建礼門を取り囲む。
「今は、厳戒の体制にございますぞ、内裏に何用でございますか!?」
建礼門を守る門兵たちは、闇から姿を現した一団に戦いて、あとずさる。すると一団の先頭にいた一際大柄な男が、門兵の質問に答える代わりに、腰に帯びた剣を引き抜いた。ギラリと光る刃に「謀反だ!」と門兵が声を上げる。しかし、それよりも早く、大柄な男は太刀を振り下ろし「かかれ!」と一団に命令を下した。
まるで闇の中から沸いてくるように、一団は武器を手に、門兵に襲い掛かった。門兵の数は立った五人ばかり。ゆうに倍を超える人数の一団は、器用に薙刀の柄や太刀の峰を使い、瞬くうちに五人の門兵を昏倒させた。
「よし、手はずどおり。皆、内裏に入れっ!」
大柄な男の指示に従って、一団は門兵のいなくなった建礼門をくぐり、内裏の中庭へと進んだ。
「建礼門を閉めよ! これより先、何人も内裏に入れてはならん!」
一団は二手に分かれて、建礼門の門扉を閉じる。大の男たちが寄ってたからなければ閉められないほど、大きな城門。しかし、一団は声を上げることもなく、静かに、速やかに門扉を閉じると、これまた大きな閂を門ぞ門扉にかけた。
「よいか、皆の者。余計な殺生をすることはまかりならん。狙う首はただひとつ!」
大柄な男が、声を押し殺しながら、太刀の切っ先で指し示す先にあるのは、内裏の中心、紫宸殿である。
「右大臣の首のみぞ!」
それは静けさを纏った一瞬の出来事であり、また、多くの者が反乱軍との戦いに従事していた所為で、内裏に突入した一団のことに気付いた者はほとんど居なかった。無論、紫宸殿にいる者たちもである。
丁度そのころ、紫宸殿の南廂には、参議をはじめとする殿上の文官が集まり、緊急の叙爵儀が執り行われていた。叙爵を受けるのは、譲葉の兄、壬生恒長である。
ことの次第はを話すには、数刻ばかり時を戻さなければならない……。
反乱軍の勢いは凄まじく、終始官軍の武官は圧され続けた。そうして刻々と時が過ぎるたびに、戦火が内裏に近づき、貴族たちはみな浮き足立ち、いろめいた。右大臣によって、今後の方策を議論すべく集められた参議たちも皆、あわを食っており、議論がまとまらない。右大臣は苛立ち、「能無しどもめ」と参議たちを罵りたい気持ちになった。悪態が右大臣の喉からでかかった矢先、参議の一人が手を挙げた。「議事をまとめる者が必要ではないか」と言うのだ。それは一理あると思った右大臣は早速、譲葉の兄、恒長を召しだした。父の官位である大納言の位を授け、その上で議論をまとめさせようと考えたのだ。もしも、それでも議論がまとまらなければ、大納言の責任として処罰すればいい、と右大臣は考えていた。
こうして、急遽、恒長の叙爵儀が行われることとなったのである。
「事態が事態だけに、切迫しており時間がないため、そなたの叙爵儀を前倒しすることとなった。更に、帝はすでに吉野へとご避難あそばされ、内裏に居られぬゆえ、儀は東宮殿下に代わって頂き、略式ながら叙爵儀を執り行う」
右大臣は、玉座の傍らから恒長を見下ろすように言った。恒長は、額を床につけ「ははっ、委細承知いたしております」と返事を返す。周囲からは、参議たちの視線を感じる。皆、どうでも良いから、早々に叙爵儀を終わらせろ、と言いたげである。
「では、壬生兼恒大納言が嫡子、壬生恒長よ、面を上げられよ」
と、右大臣からの指示を受けて、恒長は顔を上げた。威張ったような表情の右大臣の横で、空ろな目をした青年が目に留まる。東宮の春だ。春の心はここにあらず、その視線は恒長ではなく、遠くに見える七条を燃やす炎にじっと注がれていた。
「殿下」
ぼんやりとして、なかなか儀を始めようとしない春に業を煮やした右大臣が、春を呼ぶ。春ははっと我に返り、恒長の方に視線を戻した。まるで、そこに恒長がいる事情を思い出すかのように。
「すまない。考え事をしていた……。帝は、いま吉野へご避難なされており」
「それは、わたくしめが申し上げました。しっかりなさいませ」
「ああ、そうか……右大臣すまない。では、壬生恒長、今宵よりそなたに正三位・大納言の爵位を授ける」
春が、恒長に爵位授与を申し渡すと、恒長は再び額を床につけ、
「恐悦至極のことと存知上げ奉ります。この壬生恒長、帝の御ため、心血を注ぎ、この国を盛り立てていく所存にございます」
と、謝辞を述べた。形式どおりの言葉を並べただけだが、そんなことを右大臣は気にしない。目下、右大臣は儀など早く切り上げ、反乱軍への対応策を恒長に出させたいのだ。案の定、右大臣は恒長の謝辞などそこそこに、さっさと本題へと入る。
「うむ。早速ではあるが、大納言たるそなたに課せられたる急務は、ひとつ。今都を襲う災禍、即ち清浦朝惟との戦を如何に収めるかである」
そう言うと、右大臣は恒長と参議の間に広げられた、内裏の図を指さした。
「反乱軍は烏合の衆なれども、その勢いは一気呵成であり、我が方は圧されている、更に都合が悪いことに、兵部卿が戦死なされ、臆病者の兵部大輔が三条まで兵を引いた。その所為で、大内裏に敵がより迫る形となっておる」
「野蛮な武家の輩は、ここも火の海に帰るつもりなのじゃ!」
参議の一人が、妙に甲高い声で言う。どうやら、敵が今にもここに乗り込んでくるのではないかと、そればかりが気がかりで、声が裏返ってしまったのだろう。
「して、参議のお歴々はどのようなご意見を出されたのでありましょう?」
恒長が、参議たちの顔を見回して問いかける。
「和睦交渉じゃ。やつに金銀財宝をたんまりとくれてやって、軍を引かせるのじゃ」
「いや、兵部省には徹底抗戦させるべきじゃ! 帝のご威光あれば、われらに味方する武家も少なくはないはずじゃ」
「ならん! ここは都を捨てて、われらだけでも生き残る手立てを考えよ! さすれば、帝とともに清浦朝惟を打ち滅ぼす機会を得ることが出来よう」
参議は口々に、自分の意見を述べる。そのどれもが、言葉の根底に「保身」の二文字がちらついているような気が、恒長には感じられた。
「ええい、静まれ!」
ざわめく参議たちを一喝するように、右大臣が怒鳴った。まるで、獣が吼えるようなその声に、参議たちは一斉に声を潜める。それを確認してから、恒長の顔を見下ろしながら、
「壬生恒長大納言どの、いかがなされる? この場をまとめるか、そなたの方策を申されよ」
と言う。恒長は軽く、春の方にむかってお辞儀を返すと、その視線を右大臣の方に向けた。
「それでは、若輩者が僭越ながら……。清浦朝惟と言う人間は、金品に揺らぐような心の持ち主ではありません。彼ほど身持ちの固い人間は他には居ないでしょう。また、徹底抗戦をしたところで、どの武家が我らの味方をしてくれると言うのでしょうか? お味方が居ると言うのなら、もうすでに我らの元に馳せ参じているはずです。また、我々が都から逃げ出すことは、帝の権威に泥を塗ることも同じ」
「では、そなたはどうすると言うのじゃ!!」
苛立ちを露にした参議の一人が、恒長を責めるように、声を荒げた。しかし、恒長は冷静そのものな顔つきをして、再び東宮の方を見る。春はあいも変わらず、空ろな目をしていた。
「東宮殿下、申し上げまする! わたくしには、この戦を止める手立てがあります」
と、恒長が高らかに言うと、春が少しだけ訝る。
「それは、どのような手立てだ?」
春が直接恒長に問いかけた。その瞬間、恒長の瞳が妖しく揺らめいた。
「それは……こういうことです」
すっと、衣擦れの音だけを残し、恒長が手を上げると、それを合図にしたかのように、紫宸殿の外から雄たけびが上がり、同時にいくつもの足音が紫宸殿の階段を登ってくる。
「何事じゃ!?」
参議たちが、どよめく。間もなく、足音は土足のままで紫宸殿の廂へと乗り込んできた。数えられるだけでも十人以上の一団は、皆手に抜き身の武具を備えている。そう、先ほど建礼門に鍵をかけた、武装集団である。しかし、そのことを右大臣も参議も知りはしない。
「これは、何の余興だ? 恒長どの」
慌てふためく紫宸殿でただ一人、苦虫を噛み潰したような顔をする右大臣が、恒長に問いかけた。恒長は、音もなく立ち上がり、腰刀を抜くと、
「余興などではありません。父の仇である、右大臣、貴様の首を取る。そして、内裏取り付いた魍魎から、この国を救う。そうですよね、右近どの」
と、一団の長である大柄な男に言った。大柄な男……右近は右大臣の前に歩み出ると、太刀の切っ先を右大臣に突きつける。
「雁首ならべて、己が身を案じるだけの参議の皆さまには、退席願おう。ここに残るのは、奸臣の右大臣と東宮殿下だけでよい」
右近の口調は穏やかであったが、言葉の端々に恐ろしいほどの冷たさが通い、参議たちはそれに恐れを感じたのか、雲の子を散らすように、紫宸殿より逃げ出していく。後に残されたのは、玉座の隣に座る春と、その横で右近を睨みつける右大臣のみとなった。
「魍魎か。魍魎とは、わしのことではなく、卑しい分際で内裏にたてつく乞食と、清浦朝惟のことだ。ましてや、そなたの父を殺したのは、乞食の男ではないか。それが、どうなったら、わしの罪となるのだ? 刃を向ける先が違うのではないか、恒長どの」
尻尾を巻いて逃げていく参議たちを尻目に、右大臣が言う。
「いや、違わぬ。乞食どもを追い詰め凶行に走らせたのは、貴様だ。わが父の仇は、その乞食ではなく、この国を腐敗せしめる、右大臣よっ」
「いかにも! このような事態を招いたのは、己の身から出た錆と知れ!」
恒長にあわせる様に、右近が怒号を飛ばす。それを右大臣は憎憎しげに睨み付ける。
「右近よ、内裏の警護のために前線より呼び戻したはずが、貴様まで謀反を起こすとは、この不忠者め。このわしに剣を向けるのは、すなわち帝に剣を向けるも同じこと。図体ばかりでかい男だと思っておったが、どうやら頭の中はわしの想像より小さかったようだのう」
右大臣の口から、次々と悪態がこぼれ出るが、右近の冷たい顔つきは動じたりなどとなかった。さらに、悪態の矛先は、恒長にまで及ぶ。
「壬生大納言どの、不忠者と謀るとは、天におわす父君もさぞ悲しまれておることだろう。まあ、そなたの父君、兼恒どのも、そこの右近とたがわぬ、頭の小さき男であったがな、謀反を起こすような不届きな者でなかった分、まだ可愛げがあったというもの。わしの口ぞえあっての、大納言の地位、ゆめゆめそのことをお忘れではなかろうな?」
「地位に未練があれば、このようなことはいたしませぬ。頭が小さくとも、ゆめゆめ馬鹿だとは思われぬよう」
と、恒長は悪態に切り替えしたものの、右近と右近衛の一団に取り囲まれても、なお右大臣の顔に余裕の色が見え隠れするのが気にかかった。
「いや、そなたは紛うことなき馬鹿者よ。大人しくしておれば、大納言としての栄華を保ち続けられたものを……恩を仇で返すとはこのこと。代々、帝に仕えてきた壬生家に賊臣の汚名を着せるつもりかな?」
右大臣の口角が上がる。不敵な笑みというのは、こういうことを言うのだろう。恒長は、その笑みに悪寒を感じながらも、太刀を握り締め右大臣の顔を睨みつけた。
「汚名を被るのは、貴様の方だ。しかし、未だに己の過ちに気付いていないと言うのなら、死して悔いるがいい!」
「血気盛んなことよな……では、右近、貴様に問おう」
右大臣は、鋭い視線を投げかける恒長を一笑すると、今度は右近の方を向いた。
「どちらが先にこのような謀反沙汰を持ちかけたのかは、この際どうでも良い。しかし、右近衛大将の地位を棒に振るつもりか? 貴様も、壬生の子倅と同じように、わしの過ちが云々と、下らぬことを申すのか? それよりも右近衛大将として、その愚かなる壬生の子倅を捕らえよ。さすれば、思いのままの褒美を取らせよう」
「笑止。右大臣、貴様こそが反乱の根、この戦の元凶であることは、誰の目にも明らか。それに目を瞑っているのは、貴様に媚を売る、欲に溺れた佞臣どものみよ。わしをそのような輩と一緒にしないでいただきたい!」
重く響き渡るような声で、右近はぴしゃりと右大臣の甘い誘いを断ち切る。
「このわしが、東宮殿下を操る?」
右大臣がちらりと春の方を見る。相変わらず座ったままの、春は恒長や右近が、祖父である右大臣に迫っても、けして顔色を変えることなく、ただじっと事の成り行きを眺めているようだった。
「面白いことを言う。わしが東宮殿下を操やつるなど、恐れ多い。すべては、殿下の思し召しのまま……どうやら、お互いの主張は平行線。わしが譲歩したところで、そなたたちは妥協したりしないだろう」
再び、右大臣の瞳に、余裕と不敵な笑みがこもる。
「しかし、謀反を起こす逆賊には、悉く滅してもらわねばならん」
そう言うと、右大臣は恒長がそうしたように、すっと右手を高く上げた。すると、先ほど参議が逃げ出した場所から、一斉に甲冑を着込んだ武官が飛び出し、右近衛の舎人たちと退治する。一気に、紫宸殿の空気が騒然とした緊張感に張り詰めた。
「東宮直参の武官どもかっ!」
右近が、甲冑の武官たちの面を見て、舌打ちする。それが、右大臣の余裕だとは感付かなかった。しかし、恒長は武官の出現や右大臣の余裕の正体よりも、もっと別のものに目を丸くし、危うく太刀を落としそうになる。二十名に及ぶ東宮直参武官の列を書き分け、その長らしき男が紫宸殿に連れ込んだのは……。
「譲葉!!」
恒長は思わず、声を上げて妹の名を呼んだ。
「お兄さま……」
武官の長の太い腕が首筋に巻きつけられて居る所為で、譲葉はとても苦しそうにしている。その姿は、人質であると、一目で分かった。
想定していない事態。よもや、恒長の妹であり、東宮の婚約者でもある譲葉が、この場に人質として連れてこられるとは思ってもみなかった。それには、春も驚きを隠せず、
「これは、一体どういうことです、お祖父さま!」
と、東宮と言う立場を忘れて、右大臣に詰め寄る。
「どうもこうも、参議を集める前から、恒長どのに謀反の兆しがあることは、壬生家近習の者より聞いておりました。そこへ、紫宸殿のあたりをウロウロしている、譲葉どのを見つけたのです。これぞ、渡りに船。保険のため、人質として忍ばせておいたのです」
すらすらと、右大臣は春に説明してやった。
「ごめんなさい、お兄さま……。後涼殿の廂でお話したときの、お兄さまの顔色が気にかかって、それで、わたし……」
譲葉がかすれた声で、兄に弁明する。恒長は、「よいのだ、気にするな」と視線で答え、右大臣の方に向き直ると、顔を真っ赤にし、全身を怒りに震わせた。
「おのれ、卑怯者めっ!! これで、よく分かったでしょう、東宮殿下。あなたさまを操る、この邪鬼たる男の本性がっ!!」
しかし、恒長の言葉に、春は何も答えず、恒長からも、譲葉からも、右大臣からも、顔をそらした。
「先ほども、申したであろう、すべては殿下の思し召しのまま。そなたらの謀反を知ったとき、殿下は仰せられた。『いかなる手を使っても、壬生恒長の謀反を許すな』と。わしは、その指示に従ったまでのこと。もっとも、殿下のご婚約者である譲葉どのには申し訳ないが、残念ながら、謀反人の妹をわれらが東宮殿下に嫁がせるわけには行かない」
まるで春に代わるように、右大臣が言い放つ。恒長は太刀を握る手に力を込めた。
右大臣と言う男が、狡猾で容赦のない男であることは分かっていたが、それでも地位も名誉も擲つ覚悟を決めて、右大臣に好感を持っていなかった右近とともに、謀を練った。その始末が、妹を人質に取られるなどと、考えても見なかった。それは、自分たちの落ち度か、それとも内裏に譲葉がいたという偶然のなせる業なのか、いずれにしろ、形成は右大臣に傾いたことだけは間違いない。
「失うものがある人間は、謀反などと言う愚かなことを起こすべきではない。もしも、恒長どのが自ら腹を切ると言うのであれば、譲葉どののお命はお救いいたそう。もっとも、壬生家に与えられた爵位も財産もすべて没収の上、都より放逐されることとなるが、それはそなたの過ちゆえ、仕方ないことよ」
と言う、右大臣からの宣告を聞きながら、恒長は、右大臣と譲葉の顔を交互に見た。不意に、譲葉が頭を左右に振る。
「お兄さま、修羅の心に囚われてはなりません。お兄さまの優しいお顔がそのように復讐に歪むのをわたしは見たくないのです……。右大臣さま、お願いです。どうがわたしの命と引き換えに、兄をお許しください。そして、ご自分の罪を素直にお認めになられ、東宮殿下を開放して差し上げてください」
人質になりながらも、譲葉は気丈な口調で、兄と右大臣に嘆願した。この場で鏡を見るすべはないが、妹が恐れるほどに、自分の顔は歪んでいるのかと、恒長は自らの頬を触る。一方、右大臣は譲葉の言葉を、高らかに笑い飛ばした。
「兄も馬鹿なら、妹も馬鹿者というわけか。ならば、まとめて始末してくれよう」
右大臣がニヤリと笑う。その顔を見た恒長は、自分の顔が右大臣ほど醜く歪んではいないと確信して、
「うおぉっ!」
と腹の底から唸り声を上げ、恒長は太刀を振り上げた。たとえ修羅に心囚われようとも、すべてはこの国のため。何千万人もの民を救うため。「許せ、譲葉!」と、恒長は心を鬼にして、その思いを刃に乗せた。
「覚悟! 右大臣!」
掛け声とともに、母屋の段上に駆け上がり、右大臣の首目掛けて、太刀を振る。その切っ先は、真っ直ぐに右大臣の首筋を捉えていた。だが、その隣に空ろな目をして座っていたはずの春が、おもむろに立ち上がり、腰に帯びた太刀をすばやく引き抜いた。交差する二つの殺意。ひとつは右大臣に、ひとつは恒長に向けられ、恒長の太刀が右大臣に届くよりも早く、春の殺意が恒長の身に爪を立てた。
「恒長どのっ!!」
武官たちとにらみ合う、右近が叫ぶ。その瞬間、恒長の胸元が袈裟に斬られた。恒長の手から太刀がこぼれ、床に転がり、乾いた音を立てる。
「殿下……! 何ゆえっ」
ばっくりと割れた傷口からは、ぽたぽたと赤い血が流れ落ち、床にしみを作る。恒長は悲鳴を上げることなく、胸元を押さえて痛みを必死にこらえながら、春をにらみつけた。
「恒長、悪いな。お祖父さま……いや、右大臣を死なせるわけには行かない」
そう言うと春は再び太刀を構える。今度は、恒長の命を奪うつもりだ。
「お兄さま!」
譲葉が叫ぶ。そして、自らを捕らえて離さない武官の腕にかじりつき、その縛から逃れた譲葉は、全力で兄の元に走った。
誰も、譲葉をとめることが出来ず、すべては一瞬のことだった。春の右手から、太刀が突き出され、恒長は心の中で「無念」と叫び声をあげた。しかし、春の太刀が胸を貫くその刹那、恒長の眼前を人影が覆う。それは、譲葉だった。譲葉は、兄を庇うため両手を目いっぱい広げて、春の前に立ちはだかる。しかし、一度繰り出された、刃は止まることを知らず、春は譲葉の胸を真っ直ぐに貫いた。
「ゆ、譲葉っ!」
春は太刀から手を離してあとずさり、婚約者の名を呼ぶ。
「殿下……」
太刀の突き立てられた譲葉の胸から、血があふれ出す。悲しみを眉目にたたえ、まるで、婚約者によって命を絶たれることを覚悟していたかのように、じっと春の顔を見つめる譲葉。
春は目を背けた。婚約者を指してしまった現実から逃げるように。その瞬間、譲葉の体が崩れ落ちる。すかさず、恒長は妹の体を抱きすくめた。
「しっかりいたせ、譲葉っ!!」
胸を切られた痛みも忘れ、妹の名を必死で叫ぶ。しかし、春の太刀は譲葉の胸を深く貫き、もはや助からないであろうことは、明白だった。
「なぜ、このような無茶をするのだっ!? これでは、あの世におられる父上に、俺が叱られてしまうではないかっ!」
「ごめんなさい、お兄さま……でも、せめて桜さんのように、強くありたかったのです。わたしの、わがままです」
兄の腕の中で、譲葉はか細い声を上げた。その意味を恒長は図りかねた。だが、譲葉はそれ以上何も答えることはなく、静かに目を閉じた。命の光が、ゆっくりと消えていく。
ふっ、と悲しみに包まれる恒長を影が覆う。妹を抱きすくめたまま、顔を上げるとそこには、いつの間にやら、右大臣が立っていた。獣と言うよりは、醜い妖怪のような顔つきで、恒長を見下ろしている。その腕には、恒長が落とした、太刀が握られていた。
「謀反人を処罰いたす」
右大臣は短くそう言うと、何のためらいもなく恒長の胸を貫いた。恒長は抵抗しなかった。ただ、その代わりに、右大臣の手には、柔らかいような硬いような、人の肉を突き刺す鈍い感触が伝わる。
なんと、気持ちの良いことか。人を殺めるのは、これほどに気持ちの良いことだとは知らなかった。右大臣は、人を斬る感触に酔いしれた。春は、吐き気がするほどだと言ったが、むしろ高揚感さえ感じる。きっと、これほどの快感は、都中、いやこの世の何処を探してもないだろう、と右大臣は思った。
「地獄へ落ちろ、右大臣……!」
恒長は、今際にそう罵ると、妹の傍らに斃れた。兄妹そろって、胸を貫かれて死ぬその様さえ、右大臣には滑稽に映る。
「わしに、歯向かえば待っているのは死! 右近と右近衛の反逆者どもを残らず殺せっ! 皆殺しじゃっ!」
恒長を貫き血に塗れた太刀を、ブンっと振り、直参武官たちに命じる。固唾を呑んで成り行きを眺めていた武官太刀は、その声に飛び跳ねるように我に返り、右近たちを取り囲んだ。
「万事休すか。おのれっ、おのれ!!」
右近が吼える。そして、玉座の前で呆然としながら、譲葉の亡骸を見つめる春をにらみつけた。すると、春はその視線に気付いたのか、空ろな目をして俄かに笑った。何がおかしいのか。婚約者を殺しておいて、笑うことなど何一つないはずだ。
ひとしきり笑うと、春は踵を返す。右大臣が「どちらへ行かれるのですか? これから右近めが串刺しにされるのが、見ものというのに」と尋ねると、春は振り向くことなく「後はまかせる」とだけ言って、紫宸殿を後にした。
右近は、直参武官たちと切り結びながら、春の背中に言い知れぬ影を見た。それが何であるか、今の右近には到底分からない……。
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