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第二十二話 親書

 一歩ずつ、床板を踏みしめながら、桜は太刀を手に朝惟へと歩み寄る。そして、朝惟の顔に刻まれたしわまではっきり見える位置まで来ると、桜は「うわあぁっ!」と悲鳴のような叫び声を上げて、太刀を斜に振り下ろした。

 これで総て終わる……。朝惟はそう思いながら、目を伏せた。耳元で、ブンっ、と風を切る音が聞こえる。しかし、いつまでたっても、首は転げ落ちない。痛みも熱も感じない。これは、いかがしたことかと、そっと目を開けば、桜の手は小さく震えながらも、刃を朝惟の首筋まで後一寸というところで、止めていた。

「わたしには、あなたさまを斬ることなんて、出来ません……!」

 桜は上擦ったような、苦しいような声を上げた。本当は、そうすれば戦は終わるかもしれないという気持ちも、胸の中にあった。しかし、本当にそれで、総てが終わるのか。その答えは否だ。謀反の総大将である朝惟の首を取れば、反乱軍は士気を失い総崩れとなり、算を乱して逃げていくだろう。そうして、戦が終わっても、この国に平穏は訪れない。権力に居座る者たちは、再び民を殺す。今度は百人ではなく、何千人も何万人も。朝惟はそうした未来を憂いて、戦が過ちであると知った上で、未来のために戦う決断をした。

 朝惟を斬ることが、戦の本当の意味での終結には結びつかない……。それなら、わたしは一体どうしたらいいのか。太刀を納める桜の心の中で、疑問と困惑が渦巻く。

「誰もが苦しむことなく、戦が終えられないのだとしたら、わたしがあなたの首を刎ねたところで、代わりに待っている未来に責任を取ることはできない。そんなわたしには、戦によって手に入れるまやかしの未来と、強い者のが弱い者を虐げるだけの未来、どちらが正しい道か分かりません」

「正しい道などありはない。それに、未来の責任は等しく皆が背負うものであって、わしの首を刎ねたところで、その責任をすべて姫が負うことはない」

「教えてください、朝惟さま。わたしは、近衛として、何を守ればいいのですか? どうするべきなのですか?」

「香子どのに暖かく育てられた姫君であれば、近衛としてではなく、そなた自身として、守るべきものがあるはずだ。それは、そなたがこれまで見て聞いて、感じたこと総てから、もうすでに答えを得ている。どうすればいいのか、それを誰かに問う必要もないのではないか?」

「それが何なのかを、教えてはもらえないのですか?」

「サクラの奇術と同じだ……、わしの口からそれを教えることはできない。わしやそなたを含めて、未来を背負う人たちが、自分の力で気付かなければ意味はない。しかし、その援けをすることは出来る。もしも姫が、真に戦を止めたいと思うのであれば、ほかならぬ桜姫のため、この不肖朝惟、喜んで手を貸そう」

 朝惟はそう言うと、自らの懐に手を忍ばせた。中から取り出したのは一通の真新しい文。「御忠信」と書かれたその文を、朝惟は桜に差し出した。

「その親書を、右大臣どのに渡してほしい。戦を終わらせる一助になるかもしれん。しかし、それを届けると言うことは、内裏、ひいては近衛を裏切ることになる。その覚悟があるなら、それを姫に託す」

「内裏を裏切る……」

 桜は朝惟の言葉を復唱して呟いた。朝惟の手にある一通の文には一体何が書いてあると言うのだろう。右大臣に宛てられた親書を、勝手に開いて見るわけにはいかない。

「ひとつだけ、教えてください。春は……、春は本当に、粛清を自分の意思で行ったのでしょうか? わたしには信じられません。あの優しい春が、そんなことをするなんて」

「優しかったのは、過去のこと。九年も経ち、人は変わる。大人しく泣き虫だった少年は、歳月とともに鬼になった。そういうことだ」

「変えてしまったのは、右大臣さまではないのですか?」

「その通りであったとしても、自らを強く律することが出来なかったのは、東宮自身だ。その結果が、粛清と言う名の、殺戮につながった。それは、一国を統べる王のするべきことではない」

 朝惟の答えに、桜はうな垂れた。微妙な沈黙が、二人の間に流れていく。

「もしも」

 と、朝惟が月影に照らされた仏像の顔を見上げながら、口を開く。

「姫がわしの言葉を信じられず、逡巡されているのなら、東宮殿下に直に問えばいい。そなたの目で、東宮の真実の人となりを見きわめればいい」

 そう言った、朝惟の岩のような顔には、いつの日か見た優しい笑顔があった。

「朝惟さまは……今も昔も変わらず意地悪なのですね」

「これは、手厳しい。桜姫は九年前にも、同じようなことをわしに仰せになったな」

「ええ。でも、朝惟さまのお教え下さらなかった、サクラの奇術。あれから九年の間に、必死に考えて、ようやくその方法を見つけました」

「なんと!」

 朝惟がはじめて驚きの表情を見せる。

「あれは、清浦家に代々伝わる、秘伝の技。それを自らの力で、解いたというのか」

「はい……ですから、今度もわたしの力で、朝惟さまがお教えしてくれない総てを解いて見せます。わたし、この親書を右大臣様に届けます。そして、その足で春に会って、真実を確かめます」

 桜は、ぱっと顔を上げて言った。朝惟は、少女らしい円らな瞳の奥に、決意の色を感じ取った。その上で、問い返す。

「そうして、真実であったときには、いかがなされる? 真実と確信に至れば、もはやそこから目を背けることは出来なくなるかも知れぬぞ」

「戦を止めるために一番良い方法を取ります! 大好きな人たちが生きてきた、そして生き残った人たちがこれからも未来を紡いでいく、この国を守るために!」

「そうか……。かつて、中宮苓子さまがわしに言ったことがある。姫には、香子どの譲りの、強さと優しさがあると。それを失うことさえなければ、真実に目を瞑ることも、自分のなすべきことを見つけることもできるであろう。右近衛府五巫司、桜どの、その親書必ず右大臣のもとへ届けてくれ!」

 朝惟は、桜に親書を手渡し代わりに太刀を受け取った。親書を預かった桜は、「確かに、お預かりいたしました」と、月の光の下で深く朝惟にお辞儀をして、くるりと踵を返し急ぎ足で本堂を後にする。本堂に残された朝惟は、桜の足音が遠くなるまで、静かに窓の外の月を見つめていた。


 桜は、親書を大事に懐へ仕舞うと、境内の裏手に回った。見張りの兵がじろじろとこっちを見る中、桜は丁度本堂とは真反対にある、住職たちの寝所へと入った。寝所では、葵の手当てが終わったばかりらしく、手当てに従事した僧侶たちが、血のついた手を桶に張られた水で洗っている。その傍らには、眠る葵を不安そうに見つめる椿がいた。

「椿、葵の様子は?」

 椿の傍に座り、桜は葵の容態を尋ねる。すると、椿はかすれたような声で、

「矢は抜いたんだけど、鏃に毒が塗ってあって、さっきからものすごく熱が上がってる。このままじゃ、葵まで、葵まで死んじゃうわっ」

 と、必死に涙をこらえた。薄い布団に横たわる葵は、時折苦しそうにうめき声を上げ、桜も胸が詰まりそうな思いがした。桜は葵の苦しむ姿を見かねて、僧侶たちの方に視線を向けた。僧侶が手を洗う桶の横には、葵の足に突き刺さっていた矢が、置かれていた。

「もう少し運ばれてくるのが遅ければ、大変なことでした。しかし、毒は完全には抜けません。この娘さまは、今夜がやまでしょう……。もしも、この娘さまに生きる気力が強くおありならば、明日の朝目を覚ますはずにございます」

 桜の視線に感づいた僧侶の一人が、容態を説明する。

「大丈夫、葵は弱くない。きっと、明日の朝はちゃんと目を覚ましてくれる」

 何の確証もないが、桜は自分と椿を勇気付けるために言った。傍らで椿が頷き、涙目を桜に向けて、

「清浦さまを説得できたの? 戦は終わるの?」

 と、尋ねる。今度は桜が俯く番だった。

「ごめん……朝惟さまの意思は固い」

「ごめんって、そんな! じゃあ何のために、茜は死んだの? 葵は苦しんでいるの? ここまで、わたしたちは何のために来たのよっ!! 戦を止められなければ、意味がないじゃないっ」

 眉間にしわを寄せ、椿が桜の水干を掴んで食って掛かる。その大きな声に僧侶たちが少し驚いて、「お静かに」とこちらに視線を向けた。

「分かってる。でも、朝惟さまは右大臣さまへの親書を預けてくださったの」

 桜は、椿の手をそっと離すと、懐に仕舞った親書を取り出し、椿に見せた。

「この親書を、これから急ぎ内裏に届ける……。」

「それで、今度こそ、戦は終わるのね?」

「それは、分からない。右大臣さまがこの親書を受け入れてくださらなかったら、その時は……」

 そこまで言って、桜は口ごもる。その後に続く言葉を、椿に切り出しにくい。しかし、椿は桜の顔を怪訝に覗きこむと、「その時は、どうするの?」と問い返してくる。

「その時は……朝惟さまに代わって、右大臣さまと、東宮殿下を討つ」

「桜!?」

 椿は桜の返答に戸惑いを隠せなかった。

「桜、あんた何言ってるかわかってるの? それって、謀反だよ! たった独りで、謀反を起こすつもりなの? どうして、右大臣さまや、東宮殿下を討たなければならないの? 討つなら、謀反人の清浦朝惟でしょう? いったい、謀反人に何を吹き込まれたのよ!?」

 桜の肩を掴み、正気に戻れと言わんばかりに揺すり、沢山の疑問符を桜に投げかける。

「何も吹き込まれていないよ。気付いていなかっただけ……目を瞑っていただけ」

 桜が椿の瞳を見据えて言うと、何を言っているのか見当もつかない椿は、更に当惑の顔色を見せた。しかし、桜はそのまま続ける。

「都に住むわたしたちは、山を一つ越えたところにある村落で、人々が貧困に苦しんでいると知っているのに、それは関係ないことだと口にして、目を瞑る。そうやって、この国にはどんどん苦しむ人が増えていった」

「そんな口上、朝惟が反旗を翻したときの能書きのままじゃない」

「黙って聞いて……。ねえ、椿。文屋さまをお助けした日のことを覚えてる? あの日わたしたちは、沢山の乞食を見た。羅城門に集まって、通りすがる貴族を捕まえては、陳情を願う。そういう人たちを生み出したのは、他ならない右大臣さまだってことを、わたしたちは知っている。でも、誰もそんな右大臣さまを止めようとはしなかった。そうして、九年の時間が過ぎて、富める者だけが裕福に暮らし、貧しい者はどんどん死んでいく。それは、とても哀しいことなのに、誰も右大臣さまに手を挙げない。だって、自分たちに災いが振るのが怖いから……。でも、そうした先にある未来は、真っ黒で暗い世界になってしまう。今、この国とこの国に生きる人たちを救わなければ、未来に待つのは絶望だけ。だから、朝惟さまは兵を挙げたの。怒りと哀しみを背負って。わたしは、それを間違いだとは思えない。戦は過ちだけど、でも戦を起こしてでも、この国が終わってしまうのを止めたいと願う、朝惟さまの覚悟と決意が分かるの」

「わたしには、分からない。茜や、桔梗の命を奪ったのは、戦。それも、朝惟の反乱の所為よ」

「違う。茜や桔梗の命を奪ったのは、こんな戦になるまで、この国や民のことを省みようともしなかった右大臣さまよ。もしも、わたしが、朝惟さまの首を刎ねたとして、この戦は終わるかもしれない。でも、その後に待っているのは何? 第二、第三の茜や桔梗みたいに命を奪われる人たちじゃないの? 戦が正しいか、正しくないかではなくて、わたしはこの反乱の根を止めないと、永遠に戦は終わらないと思うの」

「それと、東宮殿下を討つのは関係ないことでしょ? 桜の言うことが本当なら、悪いのは右大臣さまじゃない」

「それも違う。右大臣さまだけが悪いんじゃない。十日前、羅城門に集まっていた乞食の人たちがみんな殺された。一人残らず……。粛清と言う名前の、人殺し。それを指示したのは、東宮殿下だと、朝惟さまは仰ったわ。殿下の意思で、乞食の人たちを皆殺しにしたと」

「朝惟の言うことを鵜呑みにするの?」

「分からない。それが真実だとは、わたしも信じられない。だから、この親書を届け、そして東宮殿下に真実を問い質しに行く。そして、もしも東宮殿下が朝惟さまの仰ったような人ならば、わたしは、東宮殿下も討つ」

「桜の好きな人を?」

 椿が突然声の調子を落として言った。桜は思わず、椿から視線をはずす。しかし、椿の目がそれを逃がさない。

「好きなんでしょ? 譲葉さまには、吹っ切るとか言ってたけど、親友のわたしは誤魔化されない。人を好きになる気持ちを、簡単に吹っ切れるわけがない。桜は、九年間もの間、ずっと東宮殿下のことをお慕いしていた。そんな好きな人を、殺すことなんて出来るの?」

「やらなきゃ、いけないの! この国の廃退の根が一つでも残っている限り、戦は終わらない。わたしは、これから先も、お母さまや椿が苦しむ姿を見たくないの!」

 桜の瞳は震えていた。声を荒げなければ、涙がこぼれそうだ。椿の言うことは、的を射ている。譲葉には、「勝負を降りる」と言ったが、それでも春のことが嫌いになったわけではない。九年前に、桜に見せたあの優しさにずっと恋したままなのだ。それでも、もしも春が羅城門に集まった人々を虐殺したのであれば、それを許すことはできない。その矛盾は、桜の心を引き裂いてしまいそうだった。

「桜は、強いね……」

 椿が呟くように言う。

「ううん、強くなんかない。全然強くなんかないの。戦うことも、みんなが死んでいくことも、怖くて仕方がない。もしも、お母さまがわたしのことを拾って下さらなかったら、わたしは乞食の娘として、今頃どこかで飢えて死んでいたかもしれない。それを思うだけでも怖いの。そして、ずっとわたしが本当は貴族の娘じゃないってことを、親友に打ち明けられなかった。もしも、わたしの正体を知ってしまえば、椿たちはわたしの前から居なくなってしまうんじゃないかって怯えてた」

「知ってたよ。わたしも茜も。桜が本当は、香子さまの子どもじゃないってこと……。都じゃ有名な話だもの。香子さまが、乞食の女の子を養女にしたって話は。ホントはね、五巫司で出会ったとき、最初わたしも茜もあんたのこと、ちょっと軽蔑してた。乞食の癖に貴族のなりなんかしてって。でもさ、桜ってば、明るくて優しくて、誰より一生懸命で、そして強い。うん、桜は強いよ。だから、わたしたちは身分なんか越えて、友達になれたのよ」

「椿……」

「わたしも茜も、桜のことをちゃんと親友だって思ってる。だから、その親友として、訊くね。本当に、桜は東宮殿下を討つの? それは、桜がやらなきゃいけないことなの?」

 椿は、桜の目を見て問いかけた。桜は静かに頷く。

「苦しい立場に居るはずだった、乞食の娘のわたしがやらなきゃいけない。この国の未来を、椿の未来を守るために」

「わかった。でも、わたしは朝惟が取った、謀反と言う行動が正しいとは思えない。それに、葵をこのままここにおいていくわけにはいかない。だから、ついていけない」

「分かってる。大丈夫、怖くなったら、椿の鬼みたいな怒鳴り声を思い出すから」

 桜が少しだけ冗談めかして言う。すると、椿は少しだけ桜を睨みつけ「わたしが、いつ怒鳴り声を上げたのよ」と言う。すると、桜は「いつだったっけ」と、とぼけて見せて、そして笑った。椿もつられて笑い出す。こんな状況だから、笑いたかった。

「桜、絶対死んだりなんかしたら、承知しないから」

 笑いが収まるころ、椿は真剣な顔に戻って桜に告げる。

「うん、約束する。親友を独りになんかしない」

 桜は、強い口調で頷き返した。

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