第二話 出会い
平安の都の最も奥には「大内裏」と呼ばれる大きな館がある。ここには、政府の重要な行政機関や施設が集中している。まさに、この国の中心と言えるだろう。更に大内裏の最も奥には、この国の王である天皇とその一族の住居「内裏」がある。特に、中宮や親王が住む住居のことを「後宮」と呼んでいる。後宮には「後宮七殿・後宮五舎」と言う十二もの屋敷があり、そのひとつが中宮苓子の屋敷である。苓子の屋敷の庭が走り回れるほど広いのだから、内裏の全体がどれほど広いのかという疑問は、幼い桜の好奇心をくすぐった。
普段であれば、いくら母が中宮のお読書役を仰せつかり、宮仕えしているといっても、内裏へ出入りすることは適わない。しかしある日、香子から桜の話を聞いた中宮苓子が唐突に「桜に会ってみたい」と言い始め、後宮へと招待される運びとなったのである。それは、好奇心を満たす千載一遇の好機とも言える。
あまり遠くへいくな、と母に釘を刺されたにもかかわらず、桜は朝惟が奇術でまいたサクラの花びらをひとしきり集め終わると、苓子の屋敷を抜け出した。母と有馬は、なにやら難しい顔をして話し込んでいたから、二人の目を盗むなど、造作もないことだった。
どこから散策しよう。桜はきょろきょろと辺りを見渡した。香子の住む、三条五坊の屋敷も大きいが、内裏の広さ、絢爛さ、どれをとっても、比べ物にはならないほどで、とてもすべてを回りきれるほどではない。それに、どこかしこに、女官がうろうろしていて、もしも見つかれば、香子の元に返されてしまうかもしれない。
桜は女官に見つからないように、縁の下をかいくぐりながら、内裏見物を楽しんだ。見るもの見るものすべてが、もの珍しく刺激的であることに胸を躍らせていると、いつの間にやら、別の屋敷の庭に迷い込んでしまった。そこが、今上天皇の中宮の一人の屋敷であることを、桜は知る由もなかった。
庭に入ってしまった桜の、第一印象は「殺風景」であった。苓子の屋敷には、築山や池があり、植木には小鳥がさえずり、花壇には蝶が舞っていた。それとは対照的に、この庭には、質素な池と玉砂利が敷き詰められているだけで、池を覗き込んでも金銀の魚が一匹いるわけでもない、乳白色の玉砂利に色を添える落葉樹が植えられているわけでもない。どこか、無機質で灰色がかった、寒々とした印象は、桜に「詰まらない」という意見を与えた。
しばらく、池のほとりにしゃがんで、庭を眺め回していたが、殺風景な庭の景色には、すぐに飽きてしまい、別の場所へ移ろうと腰を上げたそのときだった。
「ええい、聞き分けのない子ですねっ!!」
屋敷の方から声がする。ひどく尖った神経質な女の声。驚いた桜は、とっさに縁の下の隙間に身を隠した。そういった、桜の身のこなしは、貴族の娘とは思えないほど素早い。
「あなたは、東宮としてこの世に生を受けたのです! もしも、あの忌々しい苓子に男皇子が生まれたら、あなたなど、価値はないのですっ!!」
「ごめんなさい、ごめんなさい。もういたしません、お母さま、許してくださいっ!!」
怒りと憎悪に満ちた母親の罵倒と、悲痛に叫ぶ男の子の声。桜はじっと息を押し殺して、縁の下に身をかがめた。
許してください、と男の子は懇願するが、母親の怒りは雷のようで、返答の代わりに、パシンっという派手な音が、辺りに響き渡った。縁の下からでは、母子のやり取りは見えないが、その音は、男の子が母親に頬をぶたれた音に違いなかった。
桜は急に胸の辺りが、息苦しくなるのを覚えた。
『薄汚い、乞食の娘め! 人様のものをくすねようとは、畜生にも劣る、生きる価値のない奴だ!』
脳裏に、憎しみの言葉と蔑んだ瞳の色が蘇る……。罵られても、殴られても、蹴られても、それを辛いと感じることが出来なかった日のことが、目の前に鮮明に映し出されるようで、つらい。
「藤子さま、春さまも十分に悔いております。もうこの辺りで許してくださいまし」
と、別の声が屋敷から聞こえる。女官の声だろうか、春と呼ばれた男の子を庇おうとしているようだったが、母親が女官に免じて男の子を許そうとする気配は、微塵も感じられない。
そう言えば……。桜は、藤子の名を乳母の有馬から聞いたことがある。有馬は世間話が好きで、話し相手が見つからないときには、幼い桜を捕まえては、あれやこれやと都中の噂話をするのだ。有馬によれば、藤子は今上陛下の中宮で正室。なんでも、右大臣の娘で、とても自尊心が強く、その振る舞いは自己中心的。対照的に知性と思いやりのある苓子に対して、言い知れぬ敵愾心を燃やしている、都の貴族の間ではもっぱらの噂らしい。
「黙りなさい。これは、母子の問題です。女官のお前が口を挟むことではありません」
藤子はきつい口調で言うと、息子の腕を掴み上げ、引きずるようにすのこを降りた。階段状のすのこの踏み板越しに、桜はその光景を見つめた。男の子は、必死にもがき、何度も何度も「ごめんない」を繰り返していたが、藤子は鬼の形相で、男の子を庭の隅の隅小屋に放り込み、強く扉を閉めて閂をかけてしまった。
「ここで、じっくり反省するのですっ」
「出してください、お母さま。怖いよう、怖いようっ!!」
閉じ込められた男の子は必死に叫び、扉を叩いた。しかし、彼の声は母に届かなかった。藤子は眉間に幾重もしわを寄せながら、屋敷のほうに戻るなり、女官を怒鳴りつけた。しばらくは、雷のような恐ろしい怒号が響いていたが、やがてその声は遠くなり、辺りは静寂を取り戻した。
桜は暗がりの縁の下で、思い切り息ついて胸をなでおろすと、恐る恐る這い出した。そして、周囲に誰もいないことを確認すると、小走りに炭小屋のほうへ駆け寄った。
「出してください、お母さま。ここは、暗くて怖いよう……」
男の子の声はだんだん小さくなって、ついには扉に耳をつけても聞こえてこなくなった。きっと、夜が来るまで誰もこの扉を開けてくれない、と言うことを知っているのだろう。
「ねぇ、大丈夫?」
桜はそっと扉の向こうにいる、男の子に声をかけた。予期せぬ女の子の声に、男の子がびっくりして息を飲む音が聞こえてくる。
「誰?」
「わたし、桜……」
「桜? 誰だか知らないけれど、ねえ、ここを開けて。ぼく、暗いところが嫌いなんだ」
男の子が懇願するように言った。桜は見えない相手に頷くと、観音開きの扉に立てかけられた閂を引っ張った。案外簡単に、閂を外すことが出来た。ところが、男の子は中々扉を開いて出てこようとはしない。疑問に思った桜は、自ら扉の取っ手に手をかけた。
炭小屋は、まるで炭色に塗りつぶしたかのように、真っ暗で怖い。桜はゆっくり、小屋の中に足を踏み入れ、男の子を探した。
「扉、開けたよ。もう、外へ出られるよ」
桜は胸の前で手を結びながら、暗闇に向かって声をかけた。もっと奥、小屋の一番暗いところから、すすり泣きが聞こえてくる。
「ありがとう。でもね、外へ出たら、お母さまにまた叱られてしまう。お母さまはね、ぼくをいつも引っ叩くんだ……。それに、君が扉を開けたと、お母さまが知ったら、君も叱られちゃう」
炭小屋の奥で壁にもたれかかり、小さくうずくまった男の子が弱々しく言う。その姿は、わずか一年前の自分の姿と重なるように思えて、桜の胸は締め付けられた。
ようやく、その男の子が桜と同じくらいの歳であることが分かるくらいに、目が闇に慣れてくると、桜は男の子に近寄り、そっと隣に座った。
「わたしは、怒られるのなんて平気だよ」
「桜のお母さまも、怖い人なの?」
「ううん、全然。わたしのお母さまは、とても優しくて、とっても綺麗で、とてもいい匂いがするの」
桜は、香子の笑顔を思い浮かべながら言うが、反対に春は小首をかしげた。
「じゃあ、どうして怒られるのが平気なの?」
「それは……。わたしが、お母さまの本当の子どもじゃないから。わたし、香子さまに拾われたの。それまで、この小屋みたいに真っ暗で、この小屋よりジメジメした、鼻が曲がりそうなくらい臭いところにいて、いつも誰かに『乞食の子』って怒られて、殴られて、蹴られてた」
「乞食の子……」
「うん。有馬はわたしに気付かせないようにしてるけど、本当は都にいる人みんなが、わたしを見て笑うの。卑しい乞食の子ってね。だから、怒られるのなんか平気! なんなら、わたしがあなたの代わりに怒られてあげるよ。だから、こんな暗いところから出よう」
桜はそう言って、春の手を握り、引っ張った。だけど、春は立ち上がろうとしない。自らが、拾われっ子で乞食の娘だと名乗ったことに、春が嫌悪を示したのかと思った桜は、はっとなって、その手を離してしまった。貴族からしてみれば、乞食など卑賤の更に下。その手を触れられることさえ、汚らしいと思っている者も少なくはない。そういうことを、齢六歳の少女は身を持って知っていた。
ところが春は、桜がつらそうに眉を下げるのを見て、慌てたように立ち上がり、
「違うよ。桜が乞食の子とか、そんなのは関係ない」
と言った。少なからず、その言葉は桜を驚かせた。
「どうして? わたし、人のものを盗ったり、泥や木の根っこを食べて生きていたんだよ。嫌じゃない?」
「全然、嫌じゃない。桜はとてもいい子だもの。ぼくには分かるよ。だって、見ず知らずのぼくのことを助けようとしてくれる。だから、そんな桜がお母さまに叱られるなんて、よくない」
春はそう言うと、桜の手を取った。まだ、目頭には涙の跡が残っていたけれど、その顔に浮かんだ笑顔は、とても少年らしい朗らかな笑みで、彼の言葉が本心であることを桜に教えた。
「でも、お願い。もう少しだけ傍にいて。ぼく、本当に暗いところが怖いんだ」
「うん。いいよっ」
桜も笑顔を見せて、二人は並んで、再び小屋の隅に腰を下ろした。
「今日ね、苓子さまのお屋敷で、朝惟さまって言う、お武家さまに会ったの。お腰につけた、刀をパッて振り上げたらね、空から綺麗なサクラの花びらが落ちてきたの。でも、周りにはサクラの木なんて一本もないんだよ」
と、身振りを交えながら朝惟の奇術を話すと、桜は袂から小さな布袋を取り出した。中には朝惟が奇術に使ったサクラの花びらが詰まっていた。
「うわぁ、綺麗だね。ぼくも見てみたかったなあ」
「見せてあげたいけど、朝惟さまはお忙しくて、わたしに奇術のやり方を教えてくださらないの。でも、お母さまが今度お会いしたときに教えてもらいなさい、って仰ったから、わたしにも奇術が出来るようになったら、一番に春に見せてあげるね」
桜が得意げに言うと、春は嬉しそうに頷いた。やがて、長い沈黙が訪れる。子どもとは言え、初対面ではなかなか、共通の話題も見つからない。それでも、ただ寄り添って座っているだけでも良いのだが、そうしていると、今にも薄暗い炭小屋の暗闇に飲み込まれてしまいそうだ。
「あのね……どうして、春のお母さまは、春を叩いたの?」
沈黙を嫌った、桜が切り出した。気にはなっていた。藤子は春の母親だ。母親というのは皆、香子のように優しいものだと、桜は思っていた。もっとも、桜は香子以外の母親を知らないのだが、それでも息子の頬をぶつ母親の気持ちは分からない。
「ぼくが、馬鹿だから。ちゃんと、先生の教えてくれることが出来ないから。もしも、苓子さまに男皇子が生まれたら、ぼくは『みかど』になれないんだって、お母さまは、何度も何度もぼくのことを叩くんだ」
「痛いの?」
桜は尋ねると、心配そうな顔を向けた。春の右頬は、今も藤子にぶたれて赤く腫れている。桜はそっと、その頬を優しくさすった。少女の暖かな手のひらが触れると、少年はびっくりしながら、少し恥ずかしそうにした。
「とっても痛い。でも、お母さまは許してくれないんだ。『みかど』になるために、もっと勉強しなさいって、ぼくを叱る。もしも『みかど』になれなかったら、ぼくはお母さまにとって、いらない子になるんだ。そうしたら、ぼくはひとりぼっちになっちゃう。ひとりぼっちは暗闇より、もっと嫌いだ……」
「ひとりぼっち……。もしも、お母さまがいなければ、わたしもひとりぼっちひとりぼっちは寂しいから嫌い……」
二人はそう言い合うと、地面に視線を落とした。
貴族に拾われた子、「みかど」になる子。立場は違うのに、どうしてこんなにも孤独を感じるのか。それは、互いに細い糸の上でだけで、生きているのだ。唯一の味方である香子がいなければ桜は、ただの乞食の子。「みかど」になることが出来なければ春は、ただのいらない子。子ども心に、疑問とも不安とも似つかない感情が、ひたひたと足音を立てているような気がした。
「ぼくたち、似たもの同士なのかもね」
「そうだね……」
「じゃあ、もしも将来、ぼくたちがひとりぼっちになったら、寂しいと感じたら、そのときは一緒に暮らそう。そうしたら、ずっと一緒にいられる。そうしたら、一人ぼっちじゃなくなるから、きっと寂しくないよ」
春は出来る限りの笑顔を作って、桜に言った。桜も微笑んで、春の差し出した小指に自分の小指を絡め、指切りをする。
「うん。約束だよ……!」
ふたりは、お互いの瞳を見詰め、笑いあった。それは、まだ「好き」という感情が芽生えるよりも以前。幼い日の無邪気な約束だった。
しかし、その出会いと約束はやがて、二人の運命を変えていくことになると、まだ二人は知らなかった……。
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