第十六話 火の手 (前編)
都は碁盤の目と呼ばれるように、縦横規則正しく道が敷かれている。その中心を走る朱雀大路により、都は東西に分かれる。西側を右京、東側を左京と呼び、それぞれ五つの大路と十一の小路が縦断する。また、右京と左京を全部で九つの大路が横断して、それぞれを北から順に一条、二条、三条といった具合に呼ぶ。朝惟が火を放った荘園は、都の北端一条から数えて七区画目にあたる、右京七条に存在している。
もともとは、宅地だったのだが、右京の南側が河川にかかる湿地帯であったため、宅地造成が進まず、国衙領として耕地に転用された。しかし、それさえも依然として進まないまま、現在ではただの荒地となっている。そのため、朝惟たちにとっては、火を放つにうってつけだったと言える。折りしも乾燥した空気が都には流れており、火は瞬くうちに二坊四町に跨る荘園全体に燃え広がった。
右近衛府の庁舎から出陣した、桜たち五巫司は、大内裏の正門である朱雀門を出たところで、足を止めた。皆、七条から燃え上がる炎に声を震え上がらせた。炎の勢いはとどまることを知らず、暮れなずむ都の空に、黒煙を吹き上げながら、うなり声を上げているようだった。
「これから、どうするの、桜っ?」
と、桜の傍らで茜が尋ねる。桜はしばらく、黒煙を見つめると、意を決したように頷く。
「右近さまの仰った通り、わたしたちは、都に住む人たちを助ける。貴賎を問わず、逃げ遅れた人や、怪我をしている人たちを安全な場所へ誘導して」
「安全な場所って、何処よ?」
今度は、椿が問いかけてくる。都の周りは、朝惟が呼び寄せた各地の武家の軍団に取り囲まれており、裏門から逃げ出すこともかなわない。つまり、都に住む人々は、この広大な都市に閉じ込められた状態だ。しかし、桜にはひとつの確信があった。朧気とはいえ、記憶の中にある朝惟の人となりを信じるならば。
「朝惟さまは、無抵抗の人たちに無闇に手を出したりするような方じゃない。わたしたちは炎から、人々を救えばいい。だから、安全な場所は……」
桜はそう言って、朱雀門の方を振り返った。
「この、大内裏。ここにみんなを誘導して。責任は、わたしが取る。きっと右近さまもそうしろって仰るわ」
「分かった。桜の指示にわたしたちはしたがうわ。それじゃ、迅速に動くため隊を四つに分けましょう」
桜に代わり、椿がてきぱきと二十人の五巫司を分けていく。桜の組には、椿と茜のほかに、背の高い葵と、丸顔の愛らしい桔梗が加わった。
「それじゃ、みんな別々に、小路を渡り、右京七条を目指して。最悪の場合と感じたら、無理はせず、ここ朱雀門で落ち合いましょう!」
桜の指示に、皆互いの顔を見て頷き合うと、すばやく散開した。朱雀門前の、二条大路は、まだそれほどの喧騒に包まれてはいない。桜たちは、武器を構えて朱雀大路を南へと駆けていく武官たちを尻目に、それぞれの組ごとに一旦西へと向かい、そこから南下すべく小路へと分け入る。桜の組は、西から数えて二番目の、木辻大路に併走する、恵土利小路に入った。荷車がすれ違うのにやっとと言う広さの通りは、薄暗く、人の気配は感じられない。しかし、この通りをまっすぐ行けば、そのまま件の荘園へと突き当たはずだ。
日ごろから五巫司として訓練を積んできた彼女たちにとって、二キロあまりの距離を走破するのは、苦でもなかった。しかし、七条が近くなってくるにつれ、火の熱気と焦げ臭いにおいがまとわりついてくる。朝惟の放った炎は、どんどん延焼し続けているのだろう。宮中武官たちのほとんどは、反乱軍との戦いに狩り出されており、消火に当たることができる者はほとんどいない。無論、それは桜たちも同じだ。今は、逃げ遅れている人たちがいないか探し、助けることの方が優先すべきことなのだ。
「きゃっ!」
五条大路へ飛び出した瞬間に、桜の目の前を何かが塞いだ。思わず悲鳴を上げた拍子に、体がふわりと弾き飛ばされて、地面にしりもちをつく。激しい痛みに桜は目を瞑った。
「桜っ! 大丈夫!?」
背後から、椿の駆け寄る声と、茜たちが武具を構える音がする。「大丈夫」と答えながらも桜は、しりもちの痛みに顔をしかめながら、自分の行く手を塞いだものを見上げた。
「あらあら、大丈夫? お嬢ちゃんっ」
年配の女性が、桜の方に手を伸ばしてくる。桜は彼女のふくよかな腹に激突したのだ。その姿を見止めた茜たちは、ほっと胸をなでおろしながら、武具を下ろした。
「すみません……。おばさまはお怪我などありませんか?」
「大丈夫。あたしゃ頑丈だけがとりえだからねっ」
桜を助け起こしながら、年配の女性は小さく笑った。彼女の着物や頬は煤に汚れており、どうやら火の手から逃げ延びて来たらしい。
「それより、あんたたち、何処へ行くつもりなんだい。風邪が南から吹いている所為で、もう六条の手前まで火が迫っているから、あんたたちも早く逃げた方がいいわよ」
「わたしたちは、近衛府の者です。逃げるわけにはいきません」
と、桜が言うと、女性は目を丸くした。確かに、水干に武具を携える桜たちの姿は、歳若い娘たちの格好ではない。
「わたしたちは、避難誘導するためにここまで来たんです。他に逃げ遅れている人はいませんか?」
と、桜の傍らから椿が顔を出す。年配の女性は、はっとなって、顔を曇らせた。そして、桜の問いに頭を左右に振って答える。
「きっといないわ……、はじめはみんな、ただの火事だと思ってたのよ。そうしたら、あちこちで厳ついお武家様がうろうろしているから、これはいよいよ何かあったんじゃないかって、あたしの住んでた町の人たちは、ほとんどが左京の方へ逃げたのよ。そのときに、あたしゃ大事な一人息子とはぐれてしまって、あたし一人残って、ずっと探してたのよ」
「息子さん、まだ七条の辺りにいるんですか!?」
「多分……でも、消火に当たってた男衆も、火の手が弱まらないからって逃げたしちまって、もしかしたらあの子はもう……!」
今にも、わっと泣き出さんばかりに、女性は顔をくしゃくしゃにした。
「大丈夫、息子さんもきっとおばさまのことを探して、もう避難しているかもしれません。とにかく、おばさまも大内裏の方へ逃げて下さい。念のために息子さんのことは、わたしたちが探しますから!」
そう言って、桜がなだめると、女性は顔を上げ、「でも、いいのかい?」と尋ねる。
「わたしたちは、そのために七条へ向かってるんです」
桜は深く頷き返した。
「息子さんのお名前、教えていただけますか?」
「正太郎、正太郎だよ。今年、五つになったばかりなんだ。小さくて泣きべそばかりの子だよ」
「正太郎くん、ですね。それじゃ、正太郎くんのことは、わたしたちに任せて、おばさまは早く避難して下さい。おばさまにもしも何かあったら、悲しむのは正太郎くんなんですから!」
不安そうな顔を向ける女性に桜は強い口調で言うと、椿たちに合図をして走り出した。後ろから、女性が「頼んだよっ」と、声をかける。しばらくは去り行く桜たちの後姿を見送っていたが、やがて女性も桜たちとは反対の方向へと後ろ髪惹かれる思いを引きずりながら、駆け出した。
「ねえ、桜……!」
走りながら、最後尾を付いてくる桔梗が言う。ふっくらとした愛らしい丸顔は、どこか杞憂をぶら下げているようだ。
「どうしたの、桔梗?」
「桜は心配じゃないの? 家族のこととか、友達のこととか」
桔梗の杞憂は、彼女だけでなく、椿や茜、葵も感じていた。皆の家族も、年配の女性と同じように、この都に住んでいる。貴族である彼女たちの屋敷は、左京の一条から三条辺りにある貴族邸が密集する辺りで、火の手からは一番遠い場所にある。しかし、恐ろしいのは火の手ばかりではない。朝惟は、無闇に無抵抗な人間を襲ったりしないような人間であっても、三千人を超える将兵すべてがそうであるとは限らないのだ。もしも、武士たちが太刀や槍を振りかざして襲い掛かれば、風雅しか知らないような貴族は、ひとたまりもないだろう。
桜は突然立ち止まった。そして、振り返り真っ直ぐに桔梗の顔を見る。
「心配じゃないって言ったら、嘘になる。わたしも、お母さまのことが心配よ。それは、誰しもが同じはずよ。でも、今もあのおばさまの息子さんは火の海にいるかもしれない。たとえ、無情なやつと言われても、それを放っておくなんて、わたしには出来ない。大丈夫、きっと桔梗のご家族も、大内裏に避難しているわ」
と、諭しながら桜は、少しだけ微笑み返した。その笑顔に安心を得たのか、桔梗はこくりと頷いた。
「桜って、強いね」
桜さん……あなたは、とってもお強い方なのですね。
不意に、桜の脳裏に、譲葉の言葉がよみがえる。桜は、七条の方に向き直って、強く頭を振った。
「わたしは、強くなんかない。ただ、振りをしてるだけ……」
桔梗たちには聞こえないほど小さな声で、桜は呟くと、再び走り始めた。まるで地面を蹴りつけるかのような桜の姿が奇妙に見えたのか、桔梗たちは少しばかりきょとんとする。事情を知る椿を除いて。
「桜、まだ殿下のこと諦めきれてないんじゃ……?」
もしかすると、お役目に没頭することで、春のことを考えないようにしたいのかもしれない。そう思うと、親友の姿が痛ましく思え、椿は少しだけ辛くなった。だが、そう問えば、桜は空元気を見せて「違うよ」と言うだろう。その姿を見るのは、もっと忍びない。
「みんなっ! 何してるの、行くわよっ!!」
なかなか追いかけてこない椿たちに、振り向きざまに桜が声を上げた。椿は、少しばかりため息をつき、茜たちを従えると、桜の後を追った。
しばらく走れば、六条大路が見えてくる。年配の女性が言ったとおり、辺りにひと気はない代わりに、炎はかなり近くまで迫っており、熱気は額を伝う汗まで干上がらせてしまうほどだ。桜は舞い散る灰を吸い込まないように、袂で口を覆いながら、正太郎の名を呼んだ。
「正太郎くーん! おおーいっ、いたら返事してっ!!」
桜に倣って、椿たちも正太郎を探し歩く。幸い、炎のおかげで、六条の周囲は宵の口にもかかわらず、昼間のように煌々と明るい。しかし、名を呼んで見つけることが出来るくらいなら、正太郎の母親はすでに、息子のことを見つけ出していたはずだ。
「まずいよ、このままじゃ、あたしたちまで焼け死んじゃうよっ。桜、一度戻ろうっ」
と、茜が苦しそうに言う。まともに息を吸い込めば、なお苦しい。一刻もしない間に、火は六条をも飲み込むだろう。茜の言うことは一理ある。
「でも……っ」
桜が食い下がる。もしも、まだこの火の海のどこかに、正太郎がいるなら、きっとお母さんに会いたくて、涙を枯らしているに違いない。それを見捨てたくなんかないと、桜の瞳は炎を映しこみながら、言っているようだった。
「ねえ、あれっ!」
突然、葵が声を上げる。普段おとなしく寡黙な彼女が、大きな声で指差す先には、一人の幼い少年が泣き叫びながら、とぼとぼと東の方からこちらに向かって歩いてくる姿があった。しかし、少年のすぐ後ろには炎が迫っている。桜は、慌てて駆け寄った。
「正太郎くんっ!」
と、少年の名を呼ぶと、それまでまるで半鐘のようにわめいていた声がぴたりと止まる。母親がそうであったように、正太郎もまた、母親を探しあぐねていたのだろう。正太郎の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだが、どこかあの年配の女性を思わせる面影があった。
「おねえちゃん、だあれ?」
ずずっと、鼻をすすり上げながら、正太郎がか細い声で問う。桜は精一杯の優しい笑顔を浮かべて、
「わたしたちは、あなたのお母さんの知り合いよ。あなたを探してたの。よかった、無事で……」
と言いながら、正太郎の頭を撫でてやった。正太郎は、体のあちこちを煤で汚し、右足には小さな火傷が見受けられた。しかし、これと言って命に別状はないようで、ひとりぼっちの心細さと炎の恐怖からやっと解放された、と頬を緩ませていた。
「おかあさん、どこ?」
「お母さんはね……」
と答えようとしたそのとき、桜は何やら物々しい音が迫ってくるのを耳にした。それは、逃げてくる人の足音でも、炎のうなり声でもない。もっと耳障りな音。それが、鎧のこすれあう音であることに気づくまで、それほど長い時間はかからなかった。
まるで正太郎を追いかけてくるかのように現れたのは、三人の武者だった。皆、胴丸鎧を身につけただけの軽装であった。無論、彼らは正太郎を追いかけてきたわけではなく、偶々東の方から走ってきただけなのだろう。しかし、桜たちの姿が視界に入るや否や、彼らは太刀を構えた。
「何者だ」
と威勢良く先頭の武者は言うが、そこにいるのが少女と幼い少年だとみて、「何だ、子どもか、脅かすなよ」と、太刀を下ろそうとした。だが、別の武者が気づく。
「違う、こいつら、近衛の娘たちだっ!」
その声で、一瞬和らぎかけた、桜たちと武者たちの間の空気が張り詰める。互いに武具を構えてにらみ合った。臨戦態勢をとる椿たち四人の後ろで、桜は素早くしゃがみ、正太郎の顔を見据えて、
「正太郎くん。お母さんは、あっちへ避難したわ」
と、大内裏のある方角を指差した。正太郎は不安そうに震えながら、桜の瞳を覗き込む。桜はそんな正太郎の不安をかき消すように、優しく微笑んだ。
「正太郎くんは男の子だから、そこまで一人で走れるよね」
「おねえちゃんは、一緒に来てくれないの?」
「わたしたちは、あの怖い顔したおじさまたちと、ちょっとお話があるの……、だから一緒には行けないけど、お母さんが大内裏で待ってるからね」
「うん……」
正太郎が頷くのを確認した桜は立ち上がり、彼の背中を軽く押して、恵土利小路のほうへと送り出す。正太郎は、まだ眉をへの字に下げているものの、何度か桜たちのほうを振り返りながら、小路の暗がりへと姿を消した。
「一人で行かせて、大丈夫なの?」
弓矢の狙いを武者に定めたまま、椿が桜に問う。桜も、肩に提げていた弓をやおら構えると、矢筒から矢を取り出し、手早く番えた。
「大丈夫かどうか分からないけど、あの子を巻き込むわけにはいかないでしょ?」
桜が答えると、椿は納得して「それもそうか……」と呟いた。
「貴様ら、何をごちゃごちゃとっ!」
じりじりと、武器を構えてにらみ合いながら、苛立った先頭の武者が怒鳴る。桜は、自分と同じく、弓矢を構える椿と桔梗、それに薙刀の切っ先を突きつける茜と葵の間から、鏃の先を武者に向けたまま、武者たちの前に歩み出た。
「わたしたちは、右近衛府、五巫司の者です。大人しく、武器を収めていただければ、無用な争いをするつもりはありません!」
と、桜は声を張り上げる。しかし、武者たちにとって、相手が末席とは言え官軍であるとなれば、大人しく引き下がれと言う桜の要求を飲む、と言うわけにはいかない。そして、それは桜にも分かっていた。
「椿、茜。行くよっ!」
桜は、小さく言って、二人の親友に目配せをする。椿と茜は、桜の意図を理解したのか、唐突に構えていた武器をその場に放り投げた。
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