第十四話 譲葉と桜
春のことを吹っ切ろうと、桜が決めたのは、譲葉の父親の葬列を見送ってから、十日も過ぎてからだった。家の手伝いをしながら、五巫司のお役目を無断で休み、ずっと悩んでいた。失恋の痛手というものを味わったこともない桜にとって、初恋ともいえる春に婚約者がいたこと、そして、その婚約者である譲葉は、桜が想像するよりも穏やかで優しい女の子だったこと。そんな譲葉に降りかかった悲劇。自分のことも、自分を勇気付けようとしてくれた恋敵のことも、すべてが綯い交ぜになって桜を苦しめた。そして、悩みながら、せめて春や譲葉のことが嫌いになれたら、と思うのだが、どうしても二人のことを嫌いになったり、憎んだりすることはできそうにもなかった。それは、他ならぬ香子の育て方が、正しかったのかもしれない。桜は自分で思うよりも、素直な十五歳だと言うことだ。
ようやく、春のことを吹っ切って、前を向く決心を固めた桜は、十日ぶりに五巫司の白い水干に袖を通した。お洒落な小袿よりも、こっちの方がしっくりすると、内心苦笑する。香子には、「辞めたい」と漏らしてしまったが、前を向くと決めた以上、お役目を全うしたいと、桜は考えていた。そして、無断欠勤して十日ぶりの参内。「鬼のよう」な右近は、桜の顔を見るなり叱り飛ばすと思っていた。しかし、右近は、
「我ら、近衛が肝心なときに倒れていては、内裏を、ひいては陛下をお守りすることはできない。体は大事にしろ。ゆめゆめ、忘るべからず」
と、訓示を述べただけで、それ以上桜を咎めたりはしなかった。椿と茜は「叱られなくてよかったね」なんて、茶化すけれど、妙にらしくない右近に、桜は拍子抜けに感じた。
十日ぶりの警護のお役目は、とても多忙を極めた。それと言うのも、桜が欠勤している間に、六衛府(近衛府、兵衛府、衛門府の総称)の警備体制は、一新されていたのだ。すべては、壬生大納言の事件に起因している。右大臣は、兵部省に乞食を一掃させたが、そのことを知るのは高位官吏だけで、これを利用して、事件はまだ解決していないと装って、内裏の警備を強化した。
桜も参内するやいなや、一日中、後宮警備の見回りに当てられて、忙しくしている間は、春や譲葉のことを考えないで済んだ。それを幸いと呼んでもいいものかどうかは、分かりかねることだったが、もうじき、日は西の山裾へと傾き、お役目の任も解かれる。
「いやあ、引継ぎを済ませたら、今日のお役目もこれで終わりだね」
と、傍らを歩く椿が、両腕を高く伸ばしながら言った。見回りは、常に二人一組にて行われる。今日の組は椿とだった。弓矢を担いで、ぐるりと後宮の外周を回りながら、周囲の安全を確認する。
「まだ、私語は慎む。引継ぎするまでがお役目なんだから、真面目にしなきゃだめよ」
「はあい。桜ってば、なんだかやる気まんまんだね。この前、お見舞いに行ったときは、青い顔してたのに」
友人が元気を取り戻したように見えることが嬉しいのか、椿はにまにまと笑いながら、言った。本当は、失意に沈んでいて、今もその失意は解決したわけではない。何も状況は変わっていなくて、桜自身が吹っ切ろうと決めたに過ぎず、ふとした瞬間に、心どこかで春と譲葉の顔がちらついてしまう。それを、人は空元気と呼ぶことも分かっている。だからと言って、椿にいらぬ気を揉ませるわけにはいかない。
「それは、風邪を引いてたからよ」
桜は、空元気を見透かされないように、嘯いた。そんな矢先、このまままっすぐ歩いて、内裏の西側にある陰明門を抜ければ、そのあと、右近衛府で引継ぎをして終わり、と言うところまで来て、後涼殿の西廂の高覧にぼんやりと佇む少女が二人の視界に入ってきた。
少女は、桜たちに気づき、軽く会釈する。後涼殿というのは、宮中に仕える女官たちの詰め所なのだが、その少女は女官の衣装ではなく、藤衣(喪服)に身を包んでいた。
桜は、お辞儀を返そうとして、その少女の正体に気づく。同時に、相手も桜の姿を見止めて、二人は同時に「あっ」と声に出してうろたえた。
五巫司に仕えるということは、宮中のどこかで、なるべくなら会いたくない、と思っている人に出会ってしまう可能性を秘めている、と言うことだ。そんな当たり前のことを忘れかけていた桜の前に現れたのは、その会いたくないと思っていた、譲葉だった。
「桜さん、お役目ご苦労さまです」
譲葉は何故か力なく微笑み、桜に言葉をかけた。丁度、高覧の上から見下ろすような形になる。しかし、どこか譲葉も桜に会いたがっていないような、そんな様子だった。
「ね、桜。あの子、どちらさま?」
肘で桜の小脇をつつきながら、譲葉には聞こえないように、椿が尋ねてくる。椿は、譲葉に会ったことがない。彼女の顔や衣装をみて、貴族の娘だと言うことは分かっても、それが誰だかまではわからないのだ。
「こちらは、壬生大納言さまのご息女で、譲葉さま」
と、桜が紹介すると、椿はその少女が渦中の娘であることに気づき、はっとなって両手で口元を覆い隠した。そんな椿を横目に、桜は続けて譲葉に椿を紹介する。
「こっちは、古川刑部さまのご息女で、椿です。わたしと同じく、五巫司にございます」
「まあ、古川さまの……。お父君には生前のわが父が、大変お世話になりました」
生前という言葉に、寂しさと哀しさを多分に含ませながら、譲葉が頭を下げる。
「いえ。この度は、お父君のこと、さぞお辛かったことでしょう。ご冥福をお祈りしております」
普段の椿に似合わないような口調で言うものだから、桜は少しばかり驚いた。そして、自分も譲葉に慰めの言葉か何か述べるべきではないかと思う。しかし、どんな言葉が一番適当なのか分からない。どんな言葉も、今の心境で述べたなら、すべて嘘のように聞こえてしまうような気がした。
桜が困っていると、再び椿が桜の小脇をつついた。
「ねえ、どうして桜が壬生さまの姫君を知っているの?」
「それは……」
思わず答えに窮してしまう。なんと説明したらいいのか、それを説明すれば、椿に「わたしは春が好き」と言うことも、「失恋しました」ということも、伝えてしまう。別に秘密にしなくてはいけないことではないし、それを椿が茶化したり、嘲笑ったりするようなことはないだろうけれど、それでも口にする勇気がない。
「わたしたち、恋敵なんですよ」
なかなか答えようとしない桜に代わって、譲葉が言った。その言葉の意味を図りかねた椿が、小首をかしげる。しばらくして、何かに思い至ったのかつぶらな眼を丸くすると、驚きを以って、椿は五巫司の友人と、可憐な少女の両方を、ちらちらと見比べた。
「こ、恋敵だなんて、そんな……」
桜は慌てて否定しようとするが、恋敵と言うのは真実である。すると、突然に椿がずいと前に歩みだして、
「わたしの友達の恋敵さまが、どうして後涼殿なんかにおられるのですか? それじゃ、まるで桜のことを待ち伏せしているみたいじゃありませんか?」
と、幾分か敵意を織り交ぜながら、譲葉のことを睨んだ。
「ああっ、そんなつもりではないのです! 本当に偶然です。今日は、殿下にお会いしたくて、参内したのですが、殿下に追い返されてしまって、屋敷へ帰るわけにも行かず、ここでぼんやりとしていたのです」
「春が……殿下が、譲葉さまを追い返すだなんて」
信じられない、そんな顔つきで桜が訝ると、譲葉はゆっくりと頭を左右に振った。
「近頃、殿下は何かにお悩みのご様子で、誰とも会いたがらないのです。何があったのか、お尋ねしようにも、わたしには殿下のお悩みを癒して仕上げる方法が見つかりません」
「それは、東宮殿下があなたさまのことを、心から好いているわけではないからじゃありませんか?」
「椿、やめなって……! 譲葉さまに失礼よ」
またも棘のある言葉を吐く椿に、桜は苦言を呈する。しかし、譲葉は怒ってなどいなかった。むしろ、椿の言葉は、彼女にとって真実を言い当てている。
「いいえ、椿さんの仰るとおりです。それなのに、わたしはずるい女です。最初に殿下の心をどちらが先に射止めるか勝負です、などと言ったのはわたしの方なのに、わたしは、桜さんを裏切ろうとしています」
「えっ?」
「父の喪が明ける、丁度サクラの木に青々とした葉が覆い茂るころに、東宮殿下との婚儀を執り行うと言う、右大臣さまの勧めをわたしは受け入れました」
譲葉の言葉に、しばしの沈黙が訪れた。桜は言葉を失い、地面がぐらつくような感覚に囚われる。本当は分かっていた。いずれ、こうなることを。壬生大納言が急死を受けて、壬生家を継いだ譲葉の兄と、深く縁を結んでおきたい右大臣は、大納言の死さえも好機と捉え、婚儀の日取りを予定していた時期よりも前倒しする、ということは想像に難くはない。それなのに、譲葉の口からこぼれた言葉を、信じたくないと心のどこかで思ってしまう。
「それは、おめでとうございます」
やっと口にした言葉は嘘で塗り固められており、わずかに震えていた。一度は忘れ去ろうとしていた嫌悪感が、胸の奥で蛇のようにとぐろを巻く。
「そんな皮肉を仰らないでください! わたしは、心から慕う殿下のお心をお救いできないばかりか、桜さんを裏切ろうとしているのですよ!」
譲葉は突然に語気を強めた。そして、自らを謗るかのように、
「わたしは、大納言の娘と言う立場を利用して、父のためとは口ばかりに、自分のためにあなたから殿下を奪おうとしている、卑怯者なんですっ!! どうぞ、わたしのことを罵ってください。裏切り者と呼んでくださいっ! そうすれば、少しは楽になれる……」
と、声を上げ、今にも泣きそうなくらいに顔を歪ませた。そこに、いつもの穏やかな優しさなど微塵も感じられない。そういう顔は、譲葉には似合わない、と桜は思った。
もしかすると、後涼殿の西廂でぼんやりとしていたのは、春に追い返されただけではないのかもしれない。譲葉には、譲葉の悩みがあって、春との婚姻に臨むと決めたことを、桜のために後ろ暗く思っているのかもしれない。
譲葉とは、そういう女の子なのだ。桜のことを出し抜いてやったなどとは、これっぽっちも思うことなく、恋と現実の狭間で、独り思いあぐねているのだ。勿論、春のことを好きになってしまった自分自身を責めるつもりはない。同様に、恋敵になってしまった、譲葉を責めるつもりもない。ただ、自分が身を引けば、譲葉は救われる。同情というのではなくて、自分の所為で、優しさを持った譲葉の人柄を歪めてしまうことが、つらいと思ったのだ。
桜は、胸に広がりかけた嫌悪感を振り払った。
「わたしは、譲葉さまのことを裏切り者と、呼ぶことはできません。譲葉さまのお気持ちを楽にして差し上げられなくて、ごめんなさい。でも、譲葉さまは、わたしに仰いましたよね? 春を慕う気持ちは負けないって。その気持ちに正直になられて、いいと思います」
「桜さん……」
「本当は、おめでとうなんて言いたくない。譲葉さまのことを憎めたら、どんなに楽になれるだろうって思う。でも、譲葉さまはとてもお優しくて、落ち込んだわたしを勇気付けてくれました。そんな人を、わたしは憎むことなんて出来ません。そして、わたしの所為で、譲葉さまがお悩みになられるのを、わたしは見たくありません。わたしがあの雨の日、敵わないと思った女の子は、いつも穏やかで優しい笑顔を浮かべている、あなたさまです。そのことは、春だって気づいていると思います。自信を持って下さい。春と一緒にすごした時間は、あなたの方が、ずっと長いのですから。それでも、もしも、春の心を射止められてないとお思いでしたら、これからゆっくりと、春を振り向かせればいいんです。わたしは……、わたしは、春のことを吹っ切ります」
「えっ!? 桜、それでいいのっ!?」
驚きを言葉にしたのは、譲葉ではなくて黙って二人の会話を聞いていた椿だった。桜が恋を自覚するよりも前から、友人として桜の恋を見守ってきた身として、桜の言葉に耳を疑ってしまう。しかし、桜は空元気の笑顔ではなく、にっこりと微笑んで「いいの。決めたの」と答えた。
「譲葉さまとの勝負、わたしは降ります。だから、わたしも裏切り者です。でも、今すぐに春のことを吹っ切るなんて出来ないけれど、いつかその時が来たら、譲葉さまはわたしのことを友達と呼んで下さいますか?」
「桜さん……あなたは、とってもお強い方なのですね」
桜の言が本心だということは、譲葉にも分かる。そして、なかなか春のことを吹っ切れないだろう、と言うことも。それでも、恋敵を前にして、言い切る桜の姿は、どこか凛として見えた。
「わたしは、全然強くなんてありません。友達やお母さまたちに沢山迷惑をかけて、十日も悩んだ挙句、やっと出た答えなんです。逃げ出しただけなのかもしれません。でもどうか、譲葉さまは春と婚儀を挙げて下さい。そうすることが、お父君のためにも、わたしのためにもなるのです」
「ありがとう、桜さん」
譲葉は薄く浮かべた涙を、衣の袂で拭った。
「わたしは、桜さんの友になれるのでしょうか?」
「少なくとも、わたしは譲葉さまのことを友達だと思っています。同じ人を好きになったもの同士」
「そうですね。あなたが恋敵でよかった……」
桜と譲葉は互いに目配せをするように、笑いあった。すると、蚊帳の外に放り出されていた椿が、ほほを膨らませて、
「ちょっと待った。わたしは? わたしも、桜の友達だよね!?」
と言う。その顔があまりにも、幼い子がふてくされているようで、少しばかり可笑しかった。
「勿論、椿もわたしの大切な友達だよ」
桜が椿にそう答えた、丁度その時だった。騒々しい足音が、砂利を踏み鳴らしてこちらへと向かってくる。
「あっ、よかった。ここにいたのね、桜、椿。探したのよっ!」
そう言って、陰明門をくぐって三人の下に走り込んできたのは、茜だった。茜はひどく血相を抱えていた。手には、抜き身の薙刀が握られており、それだけでも物々しい雰囲気が伝わってくる。
「どうしたの、茜。そんなに慌ててっ」
と、桜が尋ねると、茜は乱した呼吸を整えながら、あれを見ろと、内裏の南の空を指さした。
「あれは……!!」
桜が息を呑む。夕焼けの空に、俄かに立ち昇る黒煙。まるで、空を汚そうとするほどに激しい煙は、火事のものではなかった。ようやく落ち着いた茜は、ひどく厳しい顔つきで、
「一大事よ。元、滝口の武士の清浦朝惟さまが、ご謀反を起こされたのよっ。それで、七条にある荘園に火を放って、内裏へ攻め上ってきてるの。それだけじゃないわ、各地のお武家さまたちが、これに呼応して、徒党を組んで都に押し寄せてる。清浦さまの軍勢だけで三千人、これに各地の軍勢が加わったら、都はひとたまりもないわっ!!」
と、まくし立てるように早口で言う。桜には、「謀反」の二文字が現実感を伴わず聞こえた。そっと、水干の袂から、小さな布袋を取り出す。中には、丁寧に押し花にされたサクラの花びらが詰まっており、その底の方には、すでに淡い色も褪せてしまったものがいくつかある。それは九年前、朝惟が桜に見せた奇術の花びらだ。なんとかして、朝惟の顔を思い出そうと試みるものの、今ひとつおぼろげで思い出せない。しかし、あの日のことは忘れていない。春に初めて出会った日のことだから……。
「そんなことって……どうして、清浦さまがご謀反なんて!」
「知らないわよっ。お武家さまの考えることなんてっ!! とにかく、あたしたち五巫司にも、内裏をお守りするために、招集がかかったの!」
「行こう、桜っ!」
椿がそう言って、桜の袖を引っ張った。桜はもう一度譲葉の方に向き直り、
「すみません、譲葉さま、これにて失礼させていただきます」
と、言って深くお辞儀した。
「お気をつけて、桜さん……」
不安げな顔をする譲葉。あの黒煙を見れば、胸騒ぎもする。しかし、桜は努めて明るく「はいっ!」と返事を返し、椿と茜に頷いてから右近衛府に向かって、駆け出した。
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