第十話 風邪と友情
「ごめんなさい、お母さま……。折角いただいた小袿を駄目にしてしまって」
と、咳き込みながら桜が言う。暖かい布団と、冷たい濡れ手ぬぐいが、心地よいものの、風邪を患った肺は焼つきそうなくらい、痛くて苦しかった。
「服のことなどよいのです。まったく、あの雨の中、独りで歩いて帰ってくるから風邪を引いてしまうのですよ。従者の者たちを待っていれば、びしょ濡れにならずに済んだのに……。でも、こうして看病するのは、あなたがわたしの娘になってくれたあの日以来、久々のことですね」
枕元に座る香子が、優しく桜の頭を撫でた。母である彼女は、桜が幼いころより、頭を撫でられるのが好きだったことを知っている。
昨夜から降り続いたにわか雨は明け方には上がり、陽の光りが差す時刻には、透き通るように晴れ渡っていた。しかし、桜の胸のうちは曇ったまま。ともすれば雨が降り、涙となって瞳から零れ落ちてしまいそうなほどだった。そんな桜の心境を察しているのか、香子は暖かな笑顔を向けてくれる。
「桜……、陛下との謁見で何かあったのですか? あれほど、栄誉なことだと喜んでいたのに」
母は鋭い。当たらずも遠からずだ。
実際に謁見したのは、今上陛下ではなく、東宮殿下の春であった。そして、何かあったのは謁見から春が桜を連れ出した後だ。変わらぬ春の笑顔。少し大人びた顔つき。暖かな手のひら。出会った日から、もう一度会いたいと願い続けて、ようやく叶った再会に桜は雲にも登る気持ちだった。しかし、九年の月日は長過ぎたのだろうか。春の隣には、譲葉という、素敵な婚約者がいた。桜は笑いあう二人の視線に、自分は割って入ることなど出来ないと言う、疎外感を感じずにはいられなかった。二人のもとから逃げ出した桜は、どうやって家まで帰ったのか良く覚えていない。頬を伝うものが雨ではなく涙なのか、それも良く分からないまま、こうして風邪を引いてしまった。何だか、情けなくなってくる。
譲葉が内裏にいて、倉庫に閉じ込められた桜と春を助けたのが偶然だったとしても、何故春は自分のことを、連れ出したのか。それは、分からない。もしや、譲葉という可愛い婚約者を見せ付けるために? 最初からお前のことなんて、何とも思っていないんだと教えるために?
などと、桜は心の中が疑念で満たされるたびに、醜く嫉妬心に囚われる自分が嫌いになっていく。そんな嫉妬心と嫌悪感を感じるのは、生まれて初めての経験だった。それもそのはず、桜は恋などしたことがない。正確に言えば、出会ったそのときからずっと、春に恋していた。後生大事に九年もの間、初恋の気持ちを抱えていたのだ。
だのに、それに気付いたのときには、恋に胸焦がす思いをすべて失わせてしまうほど強大な、失恋の痛みと嫉妬の気持ち悪さが桜を包み込んだ。譲葉への恨み言を言いたくはない。かと言って、春を責めることも出来ない。結局のところ、何もかも時の流れが、自分と春を変えてしまったということなのだ。それは、無性に寂しくて、冷たい風のようなものが、心の奥底をさらって行く。そういう感情を感じるのも、桜にとっては初めてのことだった。
香子に話せば、人生の先輩として、母として、桜のためになる助言をくれるだろう。もしかすれば、それだけで恋の悩みは吹き飛ぶかもしれない。しかし、それを期待して楽になるためだけに、香子にこれ以上の迷惑をかけるわけにはいかない。乞食の娘だった桜は、よりにもよって東宮に恋をしたなどと、口が裂けてもいえる身分ではないのだ。
だから、「何かあったのか?」と問われれば、桜は口ごもるほかなかった。
「言いたくなければ、それでも良いのですが、桜、無理をしてはいけませんよ。わたしは、いつだってあなたの味方です。だって、あなたの母ですもの……いま、粥など作ってもらっています。それを食べて早く、元気になりなさい。五巫司のお役目も待っているのですから」
そう言って、香子は静かに微笑んだ。桜は、そんな優しい母の視線から逃れるように、母屋の外に眼を向けた。
桜が寝かされている寝殿の母屋を区切る蔀の向こうには、満開の桜の木が植えられた庭がある。香子の家は貴族としては、格下だが、十代前の天皇陛下の御世から仕えてきた名家としての、尊厳があるのか、庭はいつもきれいに整えられ、季節に合わせた四季折々の花や緑が風に揺れている。
「お母さま……」
桜は庭を見つめながら、そっと呟くように言った。
「お母さまは、わたしを拾ったことを後悔したことはない? 乞食のわたしを拾わなければ、素敵な方と出会って恋をして、そして今頃本当の娘の髪を撫でられたかもしれない……」
息苦しそうにそう言う桜の眉目に悲しみのようなものが宿る。香子はもう一度、桜の髪を優しく撫でた。
「桜、なんてことを言うの。わたしは、あなたを娘に出来たことを、神仏に感謝しています。わたしの娘はあなた以外に考えられない。ときどき無茶をしたり、わたしの思いもしないことを言ってみたりと、お転婆なところもあるけれど、こうしてあなたの髪を撫でられることは、わたしにとって無二の幸せなのです。だから、わたしはあなたと出会えたことを一度たりとも、後悔したことなんかありません」
「本当に? お母さまがわたしを拾ってくれたとき、お母さまは今のわたしと同じくらいの歳だった。なのに、お母さまは、わたしのために結婚もしないで、わたしのお母さまになってくれた」
「もしかして……桜は誰かに恋でもしているのですか?」
と、香子が尋ねると、桜の体がびくりと反応を示した。それだけで、香子には「娘は恋をしているのだ」と気付く。いつの間にか、そういう歳になっていたのだと言う感慨とともに、桜の眉目に宿る曇りに憂いを香子は感じた。しかし、どう言葉をかけてやったら良いものか。娘の姿から察するに、その恋は上手くいっていないことは明白だ。
「わたし、五巫司の職を辞したいと思うの……」
香子が迷っていると、先に桜が口を開く。驚いた香子は少しだけ眼を丸くした。
「お母さまはあんなに反対したのに、無理を言って五巫司になったのに、今度は辞めたいだなんて、身勝手なことばかり言ってごめんなさい。けして、五巫司の職が嫌になったわけでも、つまらなく思ったわけでもないの。でも、わたしこれ以上続ける自信がない……」
五巫司になった理由は、春に会うためだけではない。内裏を、陛下をお守りするというお役目に、誇りを感じたからでもある。しかし、桜は弱音を吐かずにはいられなかった。
春に会うために五巫司になる、というひとつの目的は果たされた。それが、思っていた結末と違ったことは、春や譲葉の居るかも知れない宮中の警護をする職が、今の桜にとって辛いだけのものになったということを意味している。失恋の痛手と嫉妬心に苛まれる桜の心は、どこまでも暗く気弱なものになりつつあった。
「風邪を引いて、弱気になっているのでしょう?」
香子は、元の優しい笑顔に戻り、桜を諭すように言う。
「すぐに結論を急ぐことはありません。よく考えて、それでも五巫司を辞めたいというのなら、わたしは反対などしませんよ。でも、よく考えて。あなたに後悔が残らないように」
その言葉に、桜は返事を返さなかった。ただじっと、庭を見つめながら、黙り込んでいた。香子の言うことは、よく分かっている。だから、母の優しさにすがりたくなってしまう。だけど、気弱になればなるほど、母に頼り迷惑をかけられないと思うのだ。どうしたらいいのか、本当は桜にも良く分からなかった。
やがて、香子との間に沈黙が訪れようとしたとき、寝殿と対屋を結ぶ渡殿を騒々しい足音が駆けてきた。足音は母屋の廂の前で止まり「失礼します」の声も早々に、蔀を開ける。入ってきたのは、香子の家に仕える侍女だ。
「いかがしたのですか?」
ひどく血相を抱えた侍女に香子が尋ねる。
「あの、香子さま。その、大納言さまの姫さまと仰る方がお見えになられているのですが。なんでも、桜姫さまにお会いしたいと仰せなのですが」
侍女の言葉に、香子よりも先に、布団に横たわる桜が驚いた。大納言の姫さま、それは紛れもなく譲葉のことに違いない。
「桜さまは今、ご病気ゆえお会いになられないとご無礼ながらお引取り願ったのですが、それならば見舞いなどいたしたいと仰られまして……。いかがいたしましょう、香子さま、桜姫さま」
侍女は途方にくれたような顔をした。大納言と言えば、大臣に告ぐ朝廷の高官である。その娘に粗相をするわけにはいかないことくらい、侍女にもわかっている。桜はそんな侍女の苦慮を察して「お通しして下さい」と言って、咳き込みながら布団から起き上がった。
何のつもりなのか。突然の譲葉の来訪に戸惑いは隠せない。しかし、桜が春のを好きだということを譲葉は知らないはずだ。だから、それを問いただしに来たというわけではないだろう。かといって、一度しか顔をあわせたこともない上に、交わした言葉も殆どないような格下の相手に、わざわざ会いに来る理由は思い浮かばない。
風邪を引いた桜に代わり、玄関まで譲葉を迎えに向かった香子が居なくなり、独りきりではもてあます広さの母屋の中で、桜はいったい何事なのかと、不安に思う。まもなく、その不安のもとが、衣擦れの音をさせながら渡殿を通りこちらへとやってきた。
蔀が開くと、雨上がり独特の湿気を帯びた空気とともに、譲葉が入ってくる。桜は布団をのけると、お辞儀をしようとした。すると、譲葉が慌てて、
「そのまま、そのままにしていて下さい。お風邪を召されて大変なときに、お邪魔しているのはわたしのほうなのですから」
と言って、桜を止める。桜は戸惑いながらも、譲葉の顔を見た。昨日会ったときと同じような、姫さまらしい穏やかな表情は、やはり可憐そのものだ。
「しかし、折角ご来訪いただいたというのに、このような格好で、大納言さまのお姫さまをお迎えするというのは、失礼かと」
「いいのですよ。ご用があって寄らせていただいたのですから。それに、堅苦しいことは言わないで下さい。東宮殿下からお聞きいたしておりました桜さんは、そのような方ではないはずですよ」
そう言って、譲葉は微笑むと桜の傍に腰を下ろした。どのように春から聞いているのかは知らないが、確かに普段の桜なら、歳の近い相手に遠慮などしない。それが証拠に、身分としては格差のある、刑部(裁判長)の娘の椿に対しても、年頃の娘らしく打ち解けて話す。しかし、相手は大納言というこの国の重鎮の娘というだけでなく、桜にとって恋敵と言っても差し支えない。桜が身構え、警戒したとしても、それは無理もない話だ。
「お加減はいかがですか? 風邪は万病の元、油断していると良くありません」
譲葉としては、桜のことを気遣っているのだろう。しかし、桜は「わたしの病気の元はあなたです」と言いたいのを必死でこらえ、胸の内に湧く黒いものを押さえ込んだ。
「本当は、従者の者に右近衛府までこれを届けさせようと思ったのですが……」
桜の胸の内など知らない譲葉は、単の袂から小さな布袋を取り出した。
「今日は、参内をお休みになられていると聞きまして、もしや何かあったのかもしれないと思い、自らこちらへ赴かせていただきました。失礼ながら中身を拝見させていただきました。あなたのお名前と同じ、サクラの花びらがいっぱい。大事なものですか?」
と、例のおっとりとした口調で言うと、布袋を桜に差し出した。それは、桜がいつも持ち歩いている、サクラの花びらが詰め込まれた布袋だ。先日も、内裏に咲くサクラの木から落ちた淡い色をした花びらを袋に詰めたばかり。勿論、春と会ったときにも、小袿に忍ばせていた。それが、何故譲葉の手の中にあるのか、桜は怪訝な顔をしながら、譲葉から布袋を受け取った。
「あの、ありがとうございます。大事なものといいますか……お守りのようなものです。この袋は、お母さまが編んで下ったんです。でも、どうして譲葉さまがこれを?」
「あら、お気づきになられていなかったのですか? 昨日、お帰りになられた際に、落とされたのですよ。良かった、無事にお届けできて」
全然気付いていなかった。と言うより、それどころではなかった。平静を装うことも出来ず、ほとんど逃げ出すように、内裏を後にしたのだから。
「それと……お尋ねしたいこともあります」
桜に届け物を渡せてにっこりと微笑んでいた譲葉が急に真剣な顔をする。桜は思わず、ぐっと身を引いて警戒を露にした。そして、譲葉の口からこぼれたのは、桜が思っている通りの言葉だった。
「単刀直入にお伺いしますね。桜さんは、東宮殿下のことをお好きなのではありませんか? 殿下がわたしのことを『婚約者』だと紹介されたとき、桜さんの顔色が変わったのが、どうしても気になったのです」
「いえっ、そんな、違います」
そうだ、と言って譲葉の問いを認めるわけにはいかない。何故なら、彼女は春の婚約者。それを目の前にして、「春のことが好きだ」と言ってしまえば、それは許されることではない。
「違うのですか?」
譲葉が怪訝な顔をする。
「殿下を見る桜さんの視線が、そんな風に見えたんです。殿下が桜さんを見る視線も同じ。わたしに向けてくれる視線とは違います。やはり、親同士が勝手に決めた婚儀ゆえなのでしょうか?」
と、言い譲葉は下を向いた。そんな譲葉に、桜は少しばかり怒りを覚えた。親同士が決めた婚儀だろうと、譲葉は春の婚約者。それだけでもいいじゃないかと、桜は思う。
「そんなことありませんっ! 春はわたしのことを、好きだとかそんな風には思っていません! だって、譲葉さまに向けられる笑顔と、わたしに向けられる笑顔は全然違います。わたしがいくら、春のことを好きだって思っても、彼は東宮殿下です。五巫司のわたしなんて、沢山いる武官と同じなんです」
突然、桜が語気を強め、食いかかるように言い切る。その勢いに、少なからず譲葉は驚き、そしクスクスと声を立てて、嬉しそうに笑う。
「やっと本音を言いましたね」
あっ、と思ってももう遅い。思わず口を出た言葉は、自分が春のことを好きだと認めているようなものだ。
「春……。わたしは一度も殿下のことを呼び捨てにしたことがありません。殿下もわたしのことを呼び捨てにしてくれません。桜さんが、少しだけ羨ましい。だけど、わたしも殿下をお慕いしています。その気持ちは、あなたに負けません」
譲葉が言い放つ。何故そんなことを言うのか、譲葉の真意をはかりかねた桜は困り果ててしまった。気持ちが負けるとか、負けない以前に、桜と譲葉では立場が違う。その時点で、軍配は譲葉に上がっているのも同然なのだ。ところが、譲葉は続けて、
「あなたがもしも、わたしの存在や身分を気にかけているとしたら、それは間違いです。人を好きになることに、身分など関係ありません。わたしが殿下から聞いた桜さんは、明るく前向きな方のはずです。正々堂々と、どちらが殿下の心を射止められるか、勝負です。人の心は、弓矢のようには行きませんよ」
と、言って桜の手を取った。宣戦布告というところだろうか。しかし、譲葉に敵意のような者は感じられない。むしろ、友情のような温かさがあるのだ。同じ人を好きになった敵同士だというのに、純粋に桜を元気付けようとしてくれる。もしかすると、譲葉はそのために、わざわざ桜の布袋を届けにきてくれたのかもしれないと、桜は思った。
すでに、婚約者として軍配を得ているはずの譲葉は、彼女なりに真に春の心を得ていないことに気付いている。そして、彼女が桜のことを羨ましいと思う気持ちは、春と譲葉のことを嫉妬する自分と似ているような気がした。勝ち目のない戦いに光明が見えたわけではないが、それでも、譲葉のことが近く感じられる。
「譲葉さま……ありがとう」
「あら、お礼を言われる所以はありませんよ。だって、わたしたちは恋敵なんですもの。でも、今はお風邪を早く治してくださいね」
にっこりと満面の笑みを譲葉は見せた。譲葉の穏やかさや温かさを感じた桜は、少しだけ心にかかる雲が晴れた気がした。
その時、突然に廂を誰かが、ばたばたと足音を立てて走ってくる。香子はどれほど急用であっても静かだし、
侍女の足音にしては乱暴すぎる。一体誰だろう、と桜が視線をめぐらせると、蔀の向こうから声がした。
「失礼いたします、譲葉さま!」
と言って、母屋に譲葉の従者の男が入ってくる。その顔は深刻そのもので、譲葉が「桜さんに失礼ですよ」と咎める前に、素早く譲葉に近づくと何事かを耳打ちした。
「なんですって、お父さまが!? それはまことですか?」
「はっ。先ほど、検非違使の方が邸宅の方に参られたとかで……、詳しいことはまだ分かっておりませぬ」
従者の男はそこまでいい、言葉を止めた。傍にいる桜のことを気にしたのだろう。しかし、桜の耳にもしっかりとその言葉は届いていた。
『壬生大納言さまが、亡くなられた』そう、桜には聞こえた。だからと言って、どういうことかと、譲葉に問いかけることは出来なかった。譲葉の顔には、先ほどまでの穏やかさも笑顔もない。真っ青な顔をして、眼前が揺らめいているかのように、フラフラしている。
「とにかく、姫さまには、邸宅の方に戻っていただかねばなりません」
従者が声を潜めて言う。譲葉は頷くと、
「わかりました。桜さん、急用が出来てしまいました。あわただしくて申し訳ありませんが、失礼させていただきますね。どうぞお大事に」
とだけ言い残すと、従者を従えて母屋を後にした。ただならぬ空気が、去り行く譲葉の背中から溢れている、桜はそんな胸騒ぎを感じた。
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