第一話 サクラの奇術
そう言えば一度も「小説家になろう」で恋愛小説を書いたことがない! ということに気付かされまして、執筆開始しました。でも、なぜか平安時代が舞台です……。
時代考証とか、ツッコミどころがあるとは思いますが、最後まで読んでいただけたならば、幸いかと存じます。よろしくお願いします。
わたしは、夢を見た。それは、丁度わたしがこの世に生を受けて、十五年目の誕生日がやってくる前の日の夜のことだった。月のきれいな夜で、わたしはベッドに入るなり、あっという間に、眠りの世界へと引きずり込まれた。
本来、夢と言うのは、うつつとの境で意識がさまよっているとき、つまり浅い眠りに見るものなのに、その夢はとても深い眠りに訪れた。どうしてそう言い切れるのかは、わたしにも良く分からない。
ただ、それは夢と簡単に呼んでしまうには、あまりにもリアルで、そこにいる人もそこにあるものも、総てが本物のように思えるほどだった。もっとも、わたしは夢の中の登場人物のことなど知らない。十五年の人生で、夢の中で起きた出来事を体験したこともない。それなのに、まるでわたしの底に眠り続けていた記憶を呼び覚まして、再生していくように、あらゆるシーンがリアルそのものだった。
そんな夢の中で、わたしはわたしじゃない女の子になる。わたしと同じ名前、同じ顔、同じ声をしている。だけど、わたしよりもずっと凛としていて、わたしよりもずっと賢くて、わたしよりもずっと強い女の子。彼女、つまりわたしは夢の中で、ひとりの男の子に出会い、恋をするんだ。
それは、千年以上も昔、この国に平安の都と呼ばれる場所があった時代のこと……。
「あ、蝶々。かわいいね、有馬」
はらり、と桜の手に止まった黄色い蝶は、春の暖かな風に吹かれるように、ふわりと広い庭の向こうへと飛ばされていく。幼い桜は、小さな両手を目いっぱい伸ばして、その手に蝶を捕まえようと追いかけた。
「待って、待って!」
蝶を追う姿は子どもらしい愛らしさがあるものの、それ故に危なっかしくもある。、案の定、桜は蝶に夢中になるあまり、小石に足元をすくわれた。あっという間に、桜の視界がぐるりと反転する。転んでしまう、と思った次の瞬間、悲鳴を上げるよりも先に、桜の小さな体はふくよかな二の腕に包まれた。
「危ない、桜さま!」
乳母の有馬はがほっと胸をなでおろすのが、桜にも分かった。しかし、桜の視線はそんな有馬ではなく、やはり黄色い蝶に注がれていた。もはや、幼い少女の手の届かない場所、庭の池の向こうで、蝶はひらひらと舞っている。
「ああ、飛んで行っちゃった……」
桜は小さく口を尖らせて呟く。有馬の所為で捕まえ損ねた、と思わないまでも、逃がした獲物は大きかった、と言わんばかりの顔色だ。有馬は、桜のそんな表情を見て、肩で思い切りため息をついた。
「桜さま。桜さまはもう六歳になられます。そろそろ、落ち着きと言うものを知らなければなりません」
有馬は桜を立たせると、オカメのような顔をぐっと近づけて、眉をひそめた。
「よいですか? 一寸の虫にも五分の魂と申します。無視と言えども、いたずらに、命を粗末にしてはなりませぬ。そう、お母さま……香子さまから教わりになられたでしょう? 蝶というものは、ああして、優雅に飛んでいるのが良いのです。無闇に捕まえるものではありませぬ」
「はい……」
叱咤の言葉に、桜はうつむき加減に有馬に返事をした。
なにも、蝶を捕まえて殺そうと思っているわけではない。そこまで、子どもの無邪気な悪意を見せ付けるつもりはない。ただ、きれいな翅を手のひらの上で、眺めたかっただけなのだ。しかし、有馬の口調も表情も、言い訳など受け付けないと、きっぱりと言い切っているようだった。
「桜さま、あちらに行って、お花を摘みましょう。中宮さまのお庭にはきれいなお花が沢山いていますよ」
さっきまで、にこやかだった桜の表情が、一転してしまったことに気付いた有馬は、池のほとりの花壇を指差した。
「お花は、摘むと枯れてしまうよ。有馬は、お花の命は粗末にしてもいいと言うの?」
桜は有馬の提案に矛盾を感じ、不思議そうに小首をかしげた。有馬は、ささやかな笑顔を浮かべると、
「わたしたちの心を和ませるために、少しだけお花を摘むことは、けして命を粗末にすることではありません。もしも、桜さまがお気にするのでありましたら、来年も花を咲かせられるように、種を植えてあげましょう」
と言って、桜の頭をそっと撫でてやった。すると、桜の顔に笑顔が戻ってくる。桜は、誰かに頭を撫でてもらうのが好きだった。
桜は有馬に手を引かれると、花壇へと向かった。広大な屋敷の庭には、さまざまな木々が植えられており、立派な築山と池が季節を湛えている。その池のほとりには、花壇と呼ぶにふさわしいほどたくさんの、蓮華や菜の花が満開であった。屋敷の主である中宮(天皇の妃)苓子が植えたものとも言われているが、詳しいことを知っているものはあまりいない。
「あらあら、お庭に可愛らしい娘がおりまする」
「ほんに、可愛らしい。どちらの娘さまにございましょう」
「あの子は中宮さまのお読書役、香子さまの娘さまにございます。中宮さまが、直々にお会いになりたいと仰せになられたそうです」
「まあ、さすれば、あの娘が噂の……」
花壇へと向かう桜の姿を見つけた、女官たちが屋敷の高覧の上からひそひそと小声でささめく。桜の子どもらしい笑顔に、顔をほころばせるものもあれば、明らかに冷たい視線と言葉も混じっていることに、有馬はそれとなく気付いていた。なぜ、桜がそのように言われなければならないのか、その理由を有馬は知っている。だから、あえて聞こえていない振りをした。
「素敵ですね、たくさんお花が咲いていますよ」
花々を指差しながら有馬が言うと、桜は手を解いて、一目散に花壇に駆け寄った。この花を摘んで、苓子さまに差し上げたら、苓子さまは喜ばれるだろうか? 桜の胸が期待に膨らむ。桜はしゃがむと、一番きれいな花を咲かせているものを選りすぐった。
有馬は、そんな笑顔でいっぱいの桜の横顔を、穏やかな表情で見守った。
「童は、元気なほうが良いものだ」
突然背後で声がする。驚いた有馬が反射的に振り向いた。いつの間にやら、音もなくそこには一人の男が立っていた。ここが内裏の後宮であることを考えれば、男がそこにいるということ自体場違いである。有馬は、警戒心をむき出しにした眼差しを男に向けた。
「どちら様でございますか……?」
「拙者、滝口の武士、清浦朝惟と申す者。中宮苓子さまとは、縁者にござりますれば、けして怪しい者にはござりませぬ」
有馬の警戒心に感づいたのか、男は丁寧に名を名乗り、深々とお辞儀をした。見れば、男の言うとおり、黒い武家束帯に腰刀といういでたちは、まさに武士のそれだった。しかし、丁寧な所作に似合わぬ、輪郭のはっきりとしすぎた顔も、鷹のような目つきも、顎を包むような立派な髭も、すべてが言い知れぬ威圧感を放っており、却って有馬の警戒心を強める結果となった。
ところが、当の朝惟はそれに気付いているのかいないのか、口元に笑みを浮かべながら、
「して、あの娘子は、いずれの姫君にござりますかな?」
と、花壇で花を摘む少女の後姿を指して、尋ねた。
「お読書役、香子さまのご息女、桜姫さまにございます。わたくしは、姫さまの乳母の有馬です」
有馬は怯えを気取られぬように、毅然とした口調で、名乗った。
「ほほう、あの姫が桜姫さま。お噂はかねがね……」
「清浦さま、お言葉が過ぎますよっ!!」
キッと、有馬の視線が尖る。
「あいや、申し訳ないっ、有馬どの。拙者の軽口でござった。他意があったわけではござらんっ、許されよ」
鋭い有馬の視線に刺された朝惟は、自分の言葉が原因であることに気付き、バツが悪い、そんな風に頭をかいて見せた。
「有馬、見て、とてもきれいなお花っ」
そのとき、満面の笑みを浮かべた桜が花畑から戻ってきた。両の手には、赤、黄色、青と彩り鮮やかな花束が握られていた。桜は、有馬のそばに見知らぬ、男が立っていることに気付くと、さっと顔色を変え、素早く有馬の後ろに隠れた。
「おや、桜姫さま。さきほどまでの笑顔はいかがなされましたか」
朝惟は、人見知りする桜を見て笑った。
「姫さま、お歳はおいくつですかな?」
「六つ」
ぽつりと、呟くように桜が答える。有馬のふくよかな体の陰にすっぽりと隠れてしまった、少女の瞳は乳母のそれと同じ、警戒の色をありありとさせていた。
「ほほう、六歳でございますか。拙者は、六つの頃より岩のような顔をしていると、皆に言われておりました」
朝惟は、冗談交じりに、高らかな笑いをあげて言ったものの、桜にはそれが冗談には思えなかった。それどころか、厳つい顔に笑みが宿ると、なお不気味に思えてしまう。
これは良くない。朝惟は、桜が怯えていることに心痛めた。そして、自らの顎鬚を軽くさすると、何を思ったのか、腰刀の柄に手を据えた。
「この朝惟、姫さまに、よきものをお見せして進ぜよう!」
掛け声とともに、カチャリとはばきが音を立て、鞘から鈍色の刀身が光る。有馬は、真っ青な顔をして身を翻すと、桜を庇うように抱きすくめ、その場にしゃがんだ。
「心配ご無用! ひと時も目を伏せてはならぬぞ」
抜き放たれた刃が、空気を切り裂く音がする。武士が目の前で太刀を抜くのを目の当たりにして、何を心配無用というのか。それは、斬り殺される者には関係ないというのか……、有馬は一瞬のうちにそう思いながら目を瞑った。
しかし、熱も痛みも感じない。その代わりに。
「すごいっ、サクラの花びらよ、有馬!」
嬉々とした、桜の声。有馬は、恐る恐る目を開いた。辺りには、サクラの木など一本もないにもかかわらず、サクラの淡い色をした無数の花びらが、二人の肩に舞い降りてくる。それはとても幻想的で、まるで朝惟の振るった刀が、虚空を斬り開き、そこからサクラ吹雪を降らせたかのようだった。
「いかがかな、我が奇術は?」
朝惟は刀を納めながら言った。桜は、有馬の後ろから離れると、朝唯に飛びつき、長い袖の袂を引っ張って「すごい、すごい!」と跳びはねた。その顔には、怯えの色など浮かんではいなかった。それどころか、桜は瞳をきらきらと輝かせながら、
「どうやったの? 教えて、教えて、お武家さま!!」
とすがり付いてくる。朝惟は、自分の人差し指を口元に当てて
「それは秘密にございます。お教えしてしまうと、拙者は二度と姫さまを楽しませることが出来なくなってしまう。お許しあれ」
と、言った。しかし、桜はほほを膨らませては、袂を引っ張ってせがむ。
「ええっ。お武家さまの意地悪っ。わたしもやってみたい」
子どもの扱いに慣れていない朝惟にとっては、これ以上少女をなだめる手立てが思いつかない。朝惟はいささか困った顔をして、助けを請うような視線を有馬に向けた。しかし、肝を冷やさせた罰だと言わんばかりに、有馬はそっぽを向いてしまう。
「困りましたなぁ!」
朝惟が再び頭をかきながら、困り果てていると、突然庭中に甲高い女官の声が響き渡った。
「中宮さまの御成りにございます!」
屋敷の御簾が上がり、置くから豪奢な十二単に身を包んだ、女性が静かに笑いながら現れた。それが、中宮苓子と、桜の母香子であることに気付いた、朝惟と有馬は素早く礼をする。
「桜、あまり殿方を困らせてはなりませんよ」
先に口を開いたのは、香子だった。そのしなやかな足取りだけで、香子の教養の高さと、美しさを垣間見ることが出来る。
「よいではありませんか。子どもは、少しぐらいわがままな方が、可愛らしいものです」
香子の傍らで、鈴の鳴るような声で笑うのは、中宮の苓子である。香子の美しさとは違い、笑顔ひとつに気品と威厳が感じられるような人だった。
「おや、朝惟どの。もう、参られておったのか。申して下れば良かったものを」
苓子は、桜と有馬以外の来客を見つけると、少しばかり驚いた顔をした。桜と同様、朝惟を屋敷に招いたのは、苓子に他ならないが、その客人が庭にいるとまでは思っていなかったのだろう。
「はっ。表より参りましたれば、庭より子どもの元気な声が聞こえまして、いかがしたものかと、勝手ながら庭のほうに回らせていただきました」
「そうか、そうか。そなたの岩のような顔を見る前に、桜姫の愛らしい顔を、わらわの眼に焼き付けておきたかったのじゃがのお」
「ハハハ、ご冗談を、中宮さま」
そう言って、朝惟は笑った。どうやら、苓子は桜と面会した後に、縁のものである朝惟との約束があったのだろう。いずれにしても、それは桜にとっては関係のないことで、大人たちがする話は、いつも難しい政の話ばかりと、決まっている。
それよりも、桜は苓子のために摘んだ花束を、自分の手のひらで温めて萎れさせる前に、はやく苓子に手渡したかった。
「苓子さま」
桜は中宮の名を呼ぶと、つかつかと上がり框のすのこまで、歩み出た。慌てたのは、有馬である。ちょうど、中宮などという雲の上の人を目の当たりにして、桜が何か粗相をしはしないだろうかと、はらはらしていたところだった。
しかし、有馬が桜を制する前に、苓子はすのこから降りてきた。そして、桜の前にしゃがみ、子どもの視線に合わせると、穏やかに微笑んだ。
「何じゃ、桜姫?」
「あの、苓子さまに差し上げたくて、お花を摘んだの。どうぞ」
桜もにっこりと微笑んで、苓子に花束を手渡した。苓子は嬉しそうに花束を受け取ると、空いた手で桜の頭を優しく撫でた。
「まあまあ、わらわのために、花を摘んでくれるとは。香子どのは、ほんに良き子を授かった。うらやましいのお」
「お褒めに預かり、光栄でございます。されど、桜は元気ばかりが取り柄の娘です」
香子もすのこから降りてくると、苓子に深々と頭を下げながら言った。
「元気なことは良いことじゃ。わらわには子がおらぬが、そこに居る、朝惟どのも、いまでこそ、岩男のようじゃが、幼少のころはやんちゃで元気な子であった」
「でも、朝惟さまは意地悪なの。奇術のやり方を教えてくださらないのよ」
桜はちらりと、朝惟のほうに目をやりながら、先ほどの不平を口にした。またもや、朝惟はバツが悪そうに頭をかく。すると、苓子の傍らの香子が、
「朝惟さまはお忙しいのです。これから、苓子さまとお話があるのです。また今度、お会いしたときに、教えていただきなさい」
と、桜を窘めた。それで納得した、というわけではないが、母の言葉に素直に従うことにした桜は、短く「はい」と返事をした。そんな母子のやり取りに、目を細めていた苓子は、
「そうじゃの。ゆるりと、姫と語らいたいが、そうも行かんのう。姫や、また会いにきておくれ……。では、朝惟どの、付いて参られよ」
と言うと、うちき(上着)の裾を翻し、朝惟と女官を従えて、屋敷の奥へと戻っていってしまった。あっけなく、桜と苓子の面会は終わりを告げた。
苓子が去ると、香子は桜と有馬の方へ歩み寄ってきた。
「面倒かけました、有馬」
「いえいえ、香子さまこそ。あの、申し上げにくいのですが、桜さまのことで……」
有馬がちらりと、桜の顔を見る。女官たちが桜に浴びせる冷たい視線。有馬はそのことを香子に伝えようとしていた。香子は有馬の声色だけで、それを察した。
「桜、母は有馬と話があります。もうしばらく、この辺りで遊んでいなさい。くれぐれも、他の方にご迷惑をかけてはなりませんよ。それと、あまり遠くへ行ってもなりませんよ」
と香子が言うと、桜は「はあい」と元気よく返事をすると、二人のもとから駆け出した。あっと言う間に、桜が声の届かぬところに行ったことを確認した香子は、視線を有馬に戻した。
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