五話~警部補冬野麻美~鬼の瑞樹~⑤~
麻美が瑞樹ちゃん達と連れだってこの東署を出た事を確認した俺が、署長室に戻り、最後の身辺整理を済ませ、一通の封書をデスクに置いたとき、出し抜けに俺の携帯電話が着信音を鳴らした。
着信したのは確かに、俺の妻になってくれた深雪の物だった。
けれど電話口に出たのは、妻の深雪ではなく、渦中のあの男だった。
俺は、警察官になって半世紀。捜査一課と捜査四課で課長を歴任したキャリアの中、色々な人間を見てきた。
そしてまた俺は、どんな悪人でも説き伏せて、閉ざした心の鍵を開けてやれば改心するものだと信じて今日まできた。可笑しな話しだが、俺は拳銃が大嫌いで応戦する武器はいつも、特殊警棒だけ、そのおかげで過去幾度となく死にかけた事もあった。
しかしこの男は違った。反社会勢力の側から賄賂を受け、そいつの犯罪をもみ消すなんて事は日常茶飯事で、自分の思い通りにならない奴らは容赦なく殺す。
警察官と言うよりは、外道者と言っても可笑しくない所業の目立つ男。だが奴もまた、哀れな男だと俺思った。
何故なら奴は、俺の二人目の妻になった深雪の裏の顔を知らないのだ。
四課の夜叉姫。これが彼女の裏の顔。
何故彼女がそう呼ばれるようになったのかは彼女の生い立ちにある。
彼女は、警視庁参事官、信楽敬三の実の娘ではなく、彼女は彼が養子として施設から引き取った孤児であり、一度怒りの感情に火が着けば、素手であっても、少なく見積もっても十人そこそこの頭数なら瞬く間に死人の山を築き上げかねないという彼女の本質を知らぬ奴に、奴がどう足掻こうが万に一つとして勝ち目などありはしないのだ。
電話口で俺を嘲笑い、勝ち誇ったように俺に司法取引を申し入れてきた奴に、正直俺はかける言葉すら見つからぬほどにアホらしかったため、一言だけこう言ってやった。
「谷崎よぉ…おめぇ自分で何言ってるかわかってんのかぁ?残念だがなぁくたばんなぁおめぇだよぉ……それからぁ…てめぇの違法な取引にゃあ応じられねぇなぁ……」
俺がこう言った直後、奴らの断末魔とでもいう悲鳴が電話口からでもわかるくらいに聞こえてきたのは言うまでもなく、俺はそのまま電話を切ると、妻の拉致されているであろう場所に目星はつけていたので、愛する二人目の妻を迎えに行くために東署を自家用車で出るのだった。
妻の深雪が拉致されていたのは俺のヨミどおり、北署から車で十五分足らずの場所にある、廃墟と化した繊維工場だった。
赤錆に侵蝕されて朽ち果てた扉を蹴破り俺が、薄暗い廃工場の建屋に足を踏み入れた時だった。
谷崎に金で雇われたであろう、まだ正式に組員にもなっていない年端もいかぬ少年達が匕首を振り上げて襲いかかってきた。
奴の性質上最初からわかっていた。
谷崎圭吾という男は、こう言う卑劣な手段を平気でとるのだ。
自身を守るためであれば手段は選ばない。最低な男なのだ。
「……いくら谷崎のバカに金で雇われたっていってもよぉ……今の俺ぁ刑事仮面をかぶった鬼だぁ…病院送りになりたくねぇ奴ぁ今のうちに退きなぁ……悪いが手加減ぁできそうにねぇからよぉ!!」
俺はそう言うが早いか、襲いくる少年達を秒殺の勢いで特殊警棒の餌食にしていた。
「冬野さん…俺前にも言いましたよね……今は立場が入れ替わってるって……貴方より立場が上になった私が…貴方の周りの人間達から言われの無い身辺調査をされ…さらには私と同期でもある信楽深雪を抱き込み…貴方はどれだけ私に恥をかかせたら気がすむんだ!誰がなんと言おうが私はまた!東署を足がかりに捜査一課に返り咲いてやる!無論…その第一っ歩として目の上のコブのように目障りな貴方と信楽には私をぼうとくした罪として刑務所に入ってもらいますがね……」
奴のこの暴言を聞いたとき、妻の深雪に殺されそうになった奴を助けた事を激しく後悔した俺は、奴の傍ら必死に怒りの感情を制御しようとしていた妻の深雪に、この場の全責任は俺がもつ旨を伝え、なお憤る奴には目もくれず、奴の処刑を指示するのだった。
「冬野さん!あんたぁ頭大丈夫かぁ?あんたの今やろうとしてる事ぁ立派な上官反逆罪だぞ!あんたにはやはりあの時…前の奥さんと仲良く心中でもしてもらうべきだったな……」
奴から二度目の暴言が飛びだしときだった。
にわかに騒がしくなった建屋の周り、出入り口を背にしていた俺の背後から灯された三機の投光器が、薄暗い建屋の中にいる俺達を鮮明に浮かび上がらせていた。
「ちっとまったぁ!谷崎圭吾元管理官!貴方のくだらない野望のためにあたし達家族を傷つけないでもらえませんかぁ?谷崎圭吾元管理官!冬野丈一朗署長ならびに冬野深雪副署長への殺人未遂容疑で逮捕させていただきます!午後二十一時ジャスト!」
そう声高らかにやつに逮捕宣告をしたのは、瑞樹ちゃん達浅香一家の面々と、深雪の部下でもある一ノ瀬里緖が率いる警官隊の中心にストライプ柄のレディーススーツに身を包み、凛とした顔立ちの俺と、俺の前妻冬野飛鳥との間に生まれた俺の愛娘。
この件がかたづいたら、警部補から、警部への昇進も確約された冬野麻美警部補だった。
「ちょっと待て!なんで私が逮捕されるんだ?君は手錠をかけるべき相手を間違えてないか?君が手錠をかけるべき相手は…君のご両親の方だ……私は言わば…言われ無き冒とくを受けた被害者だ……」
この男、救いようのないクズだ。是が非でも、自分はあくまで白だといいきりやがった。
「……黙れよ!クズがぁ!てめぇよくそれで北署の署長だなんてデカいカオしてられんなぁ?てめぇのしてきた悪事のすべてぇ!すでに鮫島達がゲロってんだぁ!……これ以上のいい逃れぁみっともないだけですよ!谷崎圭吾さん!」
このときほど、父の母を守りきれなかった無念が、あたしの感情に流れこんだことはなかった。
それはまた、四課時代。母の死を振り切るように捜査に没頭していたあたしの父親を一番間近に見ていた深雪さんも同じだったようで、あたしがキレて奴に掴みかかろう刹那だった。
尚も意味不明に喚いていた奴だったが、あたしの制止を振り切り、奴、谷崎圭吾に襲いかかった、鬼の化身と化した一人の少女と修羅の化身と化した一人の女性によって、おとなしくたたき伏せられており、観念したかのように見えた奴だったが、最後は、あたし達全員の顔を恨めしそうに見渡して所持していた自身の拳銃で自決を試みようとした刹那だった。
「……谷崎くん…貴方に自殺なんて逃げ道はないわよ!反社会勢力の関東龍神会…その母体組織でもある初代龍神一家……その圧力にくっしかけていた貴方を必死に真人間に戻そうと尽力してくれていた冬野さんの気も知らないで…ただただ…冬野さんを疎ましく思ってた貴方は冬野さんの前の奥さんを拉致監禁……彼女から冬野さんの弱点を探り出そうとしたみたいだけど残念だったわね……彼の前の奥さん…飛鳥さんはどうしようもなく心を閉ざしていたあたしの心の鍵を開けてくれたひと……性格はおとなしく温厚な人だったけど…彼女の心にある信念は誰にも曲げられない強固で強靱なもの……貴方の邪な考えになどなびくはずもなし……谷崎圭吾!本音を言えば…この場でぶち殺してやりたいとこだけど…あの人が…飛鳥さんがそんなの絶対許さない……人一人の命の重さ…誰よりも理解していたあの人が!!」
二人目の母親、冬野深雪さんから語られる、あたしの産みの親。
冬野飛鳥の死の真相。
そしてまた、その母親の教えを忠実に、頑なに守り奴に最後の引導を渡したい感情を必死に抑える深雪さん。
この一件が解決したら、警部補から次のステップへ、警部昇進が確約されたあたしだけど、こういう部分の感情の制御がまだまだ半人前なのだろう。
このときのあたしには、二人目の母親冬野深雪の怒りの感情が一気に自分の中に流れこんだようになり、その様子を静観していた父、冬野丈一朗と顔を見合わせ、アイコンタクトをとるとあたしは静かに父に同じく、二度目の処刑宣告を奴の前、必死に怒りの感情を制御する深雪さんに目で伝えるのだった。
「……冬野さん…あんたぁ関東龍神会が今…この警察機関にどれほどの影響力をもっているかご存じですか?もう…三年前のあの時とは違うんだ……それでもなお…時代錯誤に突き進もうとするならば間違いなくあなた達に未来など無い!あるのは…未来永劫の闇だけだということをお忘れいただかなければ……かまうことなどありませんよ!さっさと俺を殺せよ!」
奴がもう、すっかり観念したものだと思っていたあたしと、二人目の母親の深雪さん。
けれどそれは、あたし達の認識不足だったようで、観念したかのように見えた奴は、こともあろうかあたしの父に向けて、自身の持つ拳銃を発砲するのだった。
「……谷崎よぉ…おめぇよくその腕で射撃訓練パスしたなぁ?そんなへなちょこ鉛玉じゃあよぉ俺のこの筋肉ぁ撃ち抜けねぇぜ!」
父は一言そう吐き捨てると、瞬時に奴との間合いを詰め、奴の頚椎に二度ほど特殊警棒を振り下ろして、左右の奴の鎖骨を砕き立ち上がることすらままならない状態にまで奴を追い詰めるのだった。