人間と
三題噺もどき―にひゃくよんじゅういち。
柔らかな音色で、目が覚めた。
緩い眠りに浸っていた鼓膜は、その音を。
ひとつ、またひとつとかき集め、脳内に刻んでいく。
「……」
もう既に聞きなれた音だけれど。
初めの頃は、ただひたすらに煩わしさしかなかった。
元は、そこまで煩わしいようなものでもないはずなのだけれど。あの頃は、常に牙をむいていたから、全てが鬱陶しかったのだ。
今では、もったいないことをしたと思って。
こうして、聞こえれば目覚めし、逃すまいと、刻もうとする。
「……ふぁ」
んん。
今日はかなり深く眠っていたようだ。
いつの間に、あっちに移動していたのか……。あの人が動いたことにすら気づかなかった。ような気がする。
いつもなら、隣でごそごそと音がしたタイミングで、一度目が覚めるのだけれど。今日はそんな記憶もない。
―少々過去の生活が、荒れていたもので、そういう気配には嫌でも反応してしまう。それも、今ではマシになっているのだけれど。
「……ん―……」
隣に並ぶベッドの上。
底はすでに、もぬけの殻だ。
まぁ、この音が聞こえる以上、そうでしかないのだけれど。
隣にいたら普通に驚く。あれ誰が弾いてるの?と、問いたださなくてはいけない。
「……」
まだ少し眠気が残る体を、ゆっくりと起こす。
無意識に目をこすってしまった。
あまりひっかくのも、よくないと怒られてしまう。今の時期は、花粉とかいうのがすごくて……。必要以上にひっかいてしまうのだ。
「……あれ……」
こすった眼を開いて、外を見てみると。
なんとまぁ、大嵐だった。
この部屋のカーテンは、あの人が起きたタイミングで開けられる。そのときに、月の光が眩しくて目が覚めたりするのだけれど。
なるほど、荒らしであれば。その光は届かない。
「…おぉ…」
なかなかに。
嵐だと認識してしまうと、外から響く音が、耳に飛び込んでくる。
風がかなり強いのか、ガタガタと窓枠を揺らしている。外れるんじゃないかと思うぐらいに、勢いがすごい。
雨もかなり強いのだろう。ガラスを叩くその音が、あまりにも痛々しい。あんなの、生身で受けたら穴が開くんじゃなかろうか。
「……」
外はそんな有様なのに。
あの音色は、鼓膜を叩く。
「……」
通常なら、嵐の音で聞こえそうにもない、小さな音だ。
実際、この寝室から、あれがある部屋までは、距離がある。
というか、1階と2階だから、小さくて当たり前で、聞こえなくて当たり前だ。
「……」
それでも、聞こえてくる。
嵐の中にあっても。
「……」
その柔らかさを。
優しさを。
暖かさを。
失わないままに。
聞こえてくる。
「……んしょ」
ようやく覚めてきた体を、くるりと回し、ベッドの上から降りる。
置いてあった、お気に入りのスリッパに足を通し、近くに置いてあったカーディガンを羽織る。
一応、あのひとのも持っていこう。いくら、あの姿とは言え、今日は少し冷えそうだ。
「……」
寝室の扉を開く。
開いた先から、ほんの少し、音色が大きくなる。
「……」
扉を閉め、静かに歩いていく。
歩を進めるたびに、その音色は大きくなり。
しかしそれに喧しさはなく。
ただ暖かな気持ちに触れるだけ。
「……」
階段を降り、すぐ横にある扉を押し開ける。
その瞬間に。
部屋の中から。
音があふれる。
「ん――」
そこにあるのは。
一台のピアノ。
黒くて、大きな、美しい一台のピアノ。
自分にとっては、少し大きのだけれど。あの人が座ると、少し窮屈そうに見える。
「おはよう」
こちらに気づき、口を開く。
手元は未だに鍵盤をたたいている。
弾き始めると、終わるまではやめたくないそうだ。
「おはよう。今日は何を弾いているの?」
「これかい?」
柔らかな声色で。
自分の体より、はるかに小さな人間の私に。耳を傾ける。
「ふーん。これとても好き」
「そうかい、それはよかった」
その耳は、ピンと立ち上がり、大きな三角の形をしている。
その手のひらには、鋭い爪が並び、器用に鍵盤をたたく。
その開かれた口は、鋭い牙が並び、大きく裂けている。
「これ……」
「わぁ、ありがとう。さすがに今日は冷えるね」
その全身を。
美しい銀色の毛並みで包み。
にこやかに笑う。
「今日は何をするの?」
「そうねぇ……」
優しい狼の彼と。
捨てられた人間の私。
今はここで。
ピアノの音に包まれて。
ひっそりと暮らしている。
お題:狼・ピアノ・嵐