3.忘れられない焔
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ゴロゴロと遠くから鳴る雷鳴の音が、分厚い雲に覆われた空に重々しく響いている。
今にも一雨降りそうだが、聖典の儀は予定通り王城の中庭で決行されることになった。
「皆の者、本日はよく集まってくれた」
生ぬるい湿った風が吹き抜ける中、庭に設えられた豪奢な玉座の前に立った国王が、ぼってりと膨らんだ腹に空気を取り込んで声を張る。
先代の御代よりも遥かに多くの金銀で飾り立てられた王城。あらゆる宝玉を削り出して作られた玉座。日々の贅沢により肥え太った王の贅肉。
それらは全て、民が必死で収める血税と、地方に飛ばされた忠臣たちの血涙により生み出されものだ。これらにかけた費用を国のために使っていれば、一体どれだけの人が救われていたことだろう。
「本日は待ちに待った聖典の儀。こうして皆と見えたことを嬉しく思う」
王の言葉に、集まった貴族たちが一斉に追従とおべっかを込めた笑みを刷いた。
そびえ立つ王城の中でもひときわ高い塔の先端には、黄金でできた聖なる杖がはめ込まれている。建国の際、初代王と王妃が神から賜ったとされている至宝だ。毎年一度の聖典の儀では、この国の王侯貴族たちが、聖なる杖に向かって一斉に天恵の力を注ぎ込むことが慣わしになっていた。
そうすれば杖が輝き、天からその光を見つけた神が加護を放ってくれるため、今度は神の慈悲が塔を伝い降りて地上に届き、大地を通じて国全土に行き渡ると言われている。侯爵とその妻であったお父様もお母様も、かつては杖に力を込めていた。
でも、先王陛下とルディック殿下が亡くなってからは、王の一声でその慣わしは省略されることになった。所詮ただの迷信なのだから、祈りさえきちんと捧げておけば問題ないというのだ。自身の聖玉に劣等感を持っている王にとって、天恵の力を注ぐ習慣は苦痛でしかなかったからだろう。
「……」
塔に通じる建物がちょうど中庭にあるため、真上を仰ぎ見れば聖なる杖を目にすることができる。私は視線を上に巡らせ、じっと塔の先端を見つめた。慣わしが廃止されてからもう7年ほどが経つが、建国から数百年もの間に渡って王族と貴族が力を込め続けてきた杖は、未だにその力を失い切っていないように見えた。
お父様、お母様、偉大なる先達の皆様。どうかお守り下さい。
この国を、心正しき人々を。
心の中で祈っていると、舌打ちした叔父が私の頭を掴んで強引に顔を正面に向けさせた。王がにやついた目でこちらを見ている。
「さて。神への祈りを捧げる前に、ミレイユ・ブレイトス侯爵令嬢と我が甥、アルバート・フレイルの婚姻を執り行うものとする」
その玉声を聞いた叔父が、優越感に満ちた顔で肩をそびやかす。当代国王も、私の叔父も、優秀な兄弟に対し大きな劣等感と妬みを抱いていたことは有名だ。王は弟のルディック殿下に。叔父は兄である私の父に。
きっと叔父は今、お父様に勝ったと思っているのだろう。王も王で、このようなことをすれば天の園にいらっしゃるルディック殿下が悲嘆に暮れると分かっている。その上であえて冥婚をさせようとしている。
「それでは花嫁を前へ」
王の声に従い、私の両脇を固めていた叔父と叔母に引きずられるように足を進める。土壇場で反抗する力を削ぐためか、数日前からろくに食事を摂らせてもらえなかった体は幾度もふらついた。
「ぷふっ、よろけちゃってバカみた〜い。せっかくのお衣装が台無しよぉ。ね、カザール様」
「ああ、そうだねラライヤ。それにしても不気味な衣装だ。冥婚には相応しいが」
フレイル国において、花嫁の衣装は赤だ。婚姻と同時に新たな人生が始まるということで、血液と活力を示す真紅のドレスを纏う。しかし私の場合、血が通わぬ死者に嫁ぐという意味で、くすんだ黒色の衣装を着せられていた。また、本来は花嫁衣装を着た新婦に新郎が剣を捧げて婚姻の申し入れを行い、花嫁が承諾するが、アルバート様は死者なので、冥婚においてはその段取りは省略される。
中央の位置に陣取り、王と共に嘲笑を受かべているのは、誇りも良識も忘れた都の貴族と神官たち。
庭の隅に追いやられた地方の貴族や神官たちが、痛ましげな目で私を見ている。私を冥婚させて人権を剥奪すると聞いた幾人かは、僻地からはるばる駆け付け、余りに非道な行いだと王に直訴してくれたという。でも、王は諫言した貴族たちを鞭打ちに処し、再び異論を唱えるか私を逃すなどしようとすれば、その貴族が治める領地の民を片端から捕らえて奴隷に落とすと脅したそうだ。
眉を顰めてこちらに視線を送る顔ぶれの中に、見知った白髪の老人を見つけて胸が痛くなった。父とルディック殿下が共に師として慕っていたザークラン伯爵だ。私のために老体を押して出て来てくれた伯爵も容赦なく打たれたと、ラライヤが嬉しそうな顔で話してくれた。全て私がいけないのだと。
「余はフレイル国を統べる王として、我が息子にして王太子カザール・フレイルと、ブレイトス侯爵家先代当主の息女ミレイユの婚約を破棄とする。同時にカザールと、ブレイトス侯爵家現当主の息女ラライヤの婚約を認めるものとする。また、ミレイユと我が甥である王子、アルバート・フレイルの婚姻を許可する」
王がつらつらと言葉を述べている。ところどころ名前を省略しているのは、これはあくまで口頭での報告であり、正式な書面が別にあるからだ。ぼんやりとそれを聞きながら、私は考えていた。
ラライヤの言う通り、私が悪いのだろうか。最初から素直に膝を折り、地面をのたうちながら叔父と従妹の靴を舐めていれば、誰も傷つかずに済んだのだろうか。それこそが真の矜持だったのだろうか。
よろめきながらも王の前に引きずり出されると、王と叔父は瞳を逆さまの三日月に歪ませた。私を見ながら嗤う二対の目。その視線が舐めるように体を這った瞬間、萎えかけた気力がふつふつと煮えたぎって来た。
いいや、違う。それは言い訳だ。地方貴族のように民を人質に取られたわけでもない私が膝を折っていれば、それは完全な敗北となっていた。
負けるものか。
あと僅かの後に、私は人としての全ての権利を剥奪され、物同然の身分に落とされる。
それでも、心だけは変わらぬままで在れる。
『芽が出なくたってミレイユは今までと同じミレイユじゃないか!』
ええ、アルバート様。あなたの言う通り。例え永久に種止まりでも、咲くことがなくても、己の権利も資格も全てを奪い去られようとも。そんなことは関係ない。私は私だ。昨日までと何も変わらないミレイユ・ブレイトス。この心だけは誰にも変えられない、汚せない、奪えない。
例え手足の骨を全て砕かれたとしても、こんな奴らに屈してなるものか。
私を間近で眺めた王の目が、下劣な光を放つ。だが、すぐに咳払いをして続けた。
「ただ今述べたカザールとミレイユの婚約破棄およびカザールとラライヤの婚約、そしてアルバートとミレイユの婚姻については、こちらの書面への署名を持って正式に完了とする。王侯貴族の婚姻は家と家の契約であることから、署名は王家の長である余とブレイトス家の当主が行う」
皆が息を詰めて見守る中、王はサラサラと3枚の書類にサインをしたためた。意気揚々と進み出た叔父も、その下に署名を入れる。本来は印璽も必要だけれど、今回のような公開儀式の場合、立会いの貴族と神官各一名ずつが承認のサインをすることで印璽に代えることが可能だ。あらかじめ決めてあったのだろう、礼服に身を包んだ伯爵と神官がペンを取った。四者の署名が記入された紙を確認し、王が頷く。
「これにて全ての手続きは完了した」
3枚の書面は書記官と思われる者が回収していった。
「これでこの役立たずは晴れて死人ね。さ、これからどう扱ってやろうかしら」
にやにやと笑う叔母に腕を強く引かれた私は、よろめいて倒れてしまった。お嬢様、と庭の隅から悲鳴が上がる。どしゃりと地に伏せたはずみに土が飛び、玉座と祭壇を汚した。きゃあ~、とわざとらしい声を上げているのはラライヤだ。
「な、何をするか! 神聖なるこの場で転倒するなど何事だ!」
叔父が眉をつり上げて怒鳴る。
「芽無し……いや、もう死人の分際で! この不遜な小娘めが!」
髪を掴んで持ち上げられ、振り回すようにして床に叩きつけられる。
「かはっ……」
ぶちぶちと髪が千切れ、引っ張られた頭皮に熱い鉄ごてを押し当てられたような激痛が走った。打ち付けた背中が痺れ、乾いた吐息が漏れる。
「おのれ、罰当たりな奴め! 王の威徳を以ってその邪な性根を叩き直してくれるわ!」
王が腰の剣を抜き、全身の肉をブルブルと揺らしながら迫って来た。抜き身の剣はゴテゴテと悪趣味な装飾が施されており、とても実戦では使えないものだ。しかし、それでも鋭利な鉄の塊。成人男性が全力で振り下ろせば、痩せ衰えた私の骨肉など容易く砕かれてしまうだろう。
「天誅を受けよ、この種止まりが!」
振り上げられた剣が私の身を破砕しようとした、その寸前。
「天罰を受けるのはあなたの方だ、フレイル国当代国王」
燃え盛る炎が目の前を踊った。
凛とした声と共に、私の前に滑り込んで来た人影が己の腰の剣を抜き、王の刃を受け止める。
ギィンと鈍い音が響いた。
誰……?
「なっ!?」
瞠目した王が、剣を押し返されて後退し、はずみで足を滑らせて無様に転倒する。日々絢爛な暮らしにうつつを抜かしていた彼が、真剣でのつばぜり合いに勝てるはずがない。
「ぐぁ……な、何者だ!? ――そ、その髪は……」
誰何しようとするも、すぐに相手の外見に気付いた王が言葉を呑み込む。
私も声が出せなかった。こちらを庇う形で背を向けている人影――おそらく男性であろう――を、ただ呆然と見上げている。押し潰されたように喉が痛み、掠れた吐息だけが細く漏れた。
……あなたは誰なの?
何故その焔の髪を持っているの?
あの方と同じ色の髪を。
――まさか。
「ル、ルディック……いや違う、そんなはずはない。あやつは死んだのだ」
まるで幽霊でも見るかのような眼差しを据えた王が、震える人差し指を男性に向ける。
「そうですね。父はあなたが殺した、いや、殺そうと企んだのですから」
発された声は、まだ若い青年のものだった。聞いたことがない声。当たり前だ。記憶の中の彼はまだ声変りなどしていない年齢だったのだから。でも、張りがあってよく通る声質はかつてと同じであるように思った。
それに――父? 目の前の彼は確かに、ルディック殿下のことを父と呼んだ。ならばやはり。
いや、それでも分からない。怖い。
唇が動き、彼の名前を呼ぼうとするけれど、声が出せない。一歩が踏み出せない。もし違ったら、ただの勘違いだったら。
今まで散々、希望を砕かれ期待を裏切られ、光を失い続けて来た。ここでまた微かな希望を持って、それが否定されることが怖い。
ひゅうひゅうと音にならない声を押し出したまま硬直していると、王城の外がにわかに騒がしくなった。多くの人の悲鳴や怒鳴り声、金属がぶつかり合う音が断続的に響く。場の空気が一気に緊迫を帯びた。
「な、何だ、何が起こったのだ!?」
張り詰めた気配を感じ取ったか、裏返った声で叫ぶ王。中央に陣取っていた貴族たちも、動揺を隠せずに視線をさ迷わせている。
同時に動いたのは、片隅に追いやられていた地方の貴族たちだった。次々に身を翻して駆け出し、中央にいる貴族たちを取り押さえていく。祭祀場に配置されていた兵士に対しては、自身の聖玉を剣に変えて応戦していた。享楽好きな王の下、甘い汁をすすりながら怠惰に過ごしていた兵士たちはあっさりと制圧され、都の貴族が張った結界も容易く斬り裂かれ、気が付けば王以外が拘束されていた。
「き、貴様ら何をするか! 私は王太子だぞ!」
「ちょっと、離しなさいよ! 助けてカザール様ぁ!」
「やめろ、侯爵に向かって何をするか無礼者!」
「何なのよ、どうなってるのよ!?」
カザール殿下とラライヤ、それに叔父と叔母も目を白黒させながら捕縛され、土の上に転がされている。
「ここ、これは何の真似だぁ! 余の前で剣を抜くとは何事だ! 他の兵はどうなっている!? この騒ぎは一体……」
「これはあなたの御世を終わらせる合図ですよ、兄上」
ありがとうございました。