10.戦いが終わった後で
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わぁっと歓声が上がる。マリアが目を真っ赤にしており、セイラ妃もハンカチを顔に当てている。ルディック陛下、ザークラン伯爵、貴族や神官たちが盛大に拍手をした。
「ありがとう、ミレイユ……」
立ち上がったアルバート様が、そっと私を抱擁する。真綿で包むかのように優しく。
同時に青空が輝き、天から一条の光が放たれた。それは私とアルバート様に向かって真っ直ぐに降り注ぎ、この場にいる全員をも照らし出した。
「光が……!」
「神が二人を祝福された!」
皆が興奮した声を上げる。
そのまま光の中でアルバート様と抱き合っていると、脳裏に見知らぬ光景が広がった。
そこは一言でいえば、とてつもない幸福と安らぎに満たされた場所だった。雲一つない空の下に燦々と陽光が輝き、色とりどりの綺麗な木々や花々が咲き乱れている。緑の一角には、赤い薔薇の花がたくさん咲いていた。苦痛や悲しみとは無縁であることが分かる、安息の楽園。
その薔薇の近くで佇む男女がいた。泣き笑いの顔で、こちらに向かって懸命に手を振っている。
あれは――お父様、お母様!?
ど、どうして……。
「ルイセス、ミランダ夫人……」
声も出ない私に代わり、ルディック陛下が感極まった声で呟いた。セイラ妃も目を見開き、マリアたちが目頭を押さえている。皆にも同じ光景が見えているらしい。
「な、何故……っ、――ブレイトス侯爵、ミランダ夫人! あなた方のご息女は、僕が必ず幸せにします!」
アルバート様が叫ぶと、お父様とお母様が笑顔で頷いたように見えた。頭の中に広がる映像がぶれ、ぐんと遠ざかる。
「神官殿、これは……」
「は…………あくまで推測ですが、噴き上がったミレイユ様の力が天まで届き、神の楽園で薔薇が咲いたのではないかと。それに加え、神が降ろして下さった光に照らされたことで相互の繋がりが生まれ、一瞬だけ私たちの意識が神の楽園と繋がり、あちらの様子が見えたのではないでしょうか。このようなことは前代未聞ですので、一つの予測に過ぎないのですが」
ザークラン伯爵と神官の一人が、小さな声で囁き合っている。
「うううぅぅぅ……!」
耐えきれず、私はアルバート様の肩に顔をうずめるようにして嗚咽を漏らした。お父様とお母様は……無事に神の楽園へとたどり着いていた。きっと、胸が張り裂ける思いで現世の様子を見守っていたのではないだろうか。
心なしか目元を赤くしたルディック陛下が、穏やかな瞳で口を開いた。
「ミレイユ。幽世にて、神は君の両親の最期も見せて下さった。ルイセスもミランダ夫人も、一貫して街の人家を優先し、最後まで勇敢に魔物と戦っていた。決して妥協せず人命を第一に考えたその行動で、街に住む多くの人々の命と平穏が守られた」
身分社会である以上、貴族一人の命は平民千人に代えられないと言う者もいる。その考えも間違っているわけではない。
しかし人には、貴賎を問わず同じ赤い血が流れている。愛する者と共に平和に暮らしたいと願う心に身分の差は及ばない。
お父様とお母様は、街の者たちが当然に抱いているであろうその心をも守ったのだ。
「他者の命を敬い、貴び、災厄を退ける力を持つ上位者としての役割を完遂した二人は立派であった。非常に美しい心根だ。神はそう仰っていた。――君の両親を、神が認めて下さったのだ」
「……っ……あぁ、あああああぁぁぁあ……!」
私は泣いた。声が枯れ、喉が痛み、両目が真っ赤に腫れてしまうまで。
光の中でもなお明るく輝くダイヤモンドの剣に、真紅の花弁のドレス。皆の祝福と笑顔。
それらに包み込まれた私は、これまでの苦渋を洗い流すかのようにただ泣き続けた。
涙でにじんだ視界の中、しゃくり上げながらふと顔を上げると、雨上がりでもないはずの空に虹がかかっていた。
それはまるで、この国と私たちの行く末が明るいことを暗示しているような、くっきりとした美しい虹だった。
◆◆◆
「へぇ、幽世ってそんなところなのですか」
「そうだよ、広くて柔らかい大地と緑が続いていてね、大きな泉や川も流れていたんだ」
蕩けるように甘い声で言いながら、アルバート様が私の髪を撫でる。
――現在、怒涛の王位交代劇から三月ほどが経過していた。
新たな国王となったルディック陛下、それにセイラ王妃は、ザークラン伯爵をはじめとする臣下たちと国の立て直しに取り組んでいる。
民衆たちには、魔王のことやルディック陛下方が幽世に飛ばされていたことなど、大まかな経緯は偽らずに説明している。王家の醜聞になる部分や新たな御世の障害となる面に関しては、ある程度の情報操作を行ったり、表現を工夫するなどして対応しているけれど――過度にこちらの都合がいいように事実を調節したり隠匿すれば、清廉さを好む神の不興を買う恐れがあるのだ。
それらの塩梅も慎重に考えつつ行った説明は、幸いにも民に受け容れられた。かつてその人徳を称えられていたルディック陛下の即位も歓迎された。日を改めて行った即位式や宣言式の場において、神がルディック陛下と私たちを祝福する光や声を降ろしてくれたので、それも大きかっただろう。
先代王におもねって国を衰えさせた奸臣の家は、容赦なく取り潰しやそれに近い処分を受けた。
聞くところによると、あの蔓が去った後に宝石が砕けたり花が枯れたりした者も大勢いたそうで、全員が徹底的に取り調べられ、厳しい処分を受けている。彼らは極刑になるか良くて生涯投獄、死後は魂の修行場に送られることになるそうだ。
逆に、奸臣の家に属していたけれど天恵が無事だった者も僅かながらおり、そういう者たちは脅迫や暴力によって無理やり従わされていたらしい。幼い子どもや高齢の親を人質に取られて、泣く泣く言うことを聞いていた者もいたそうだ。
どのような事情があれ、またどのような形であれ、悪事に加担して被害の発生に貢献した以上、相応の処分は免れない。それでも、酌量の余地がある者たちには、処分の後に贖罪と更生、そして再起の機会を与える方向で考えているという。心からの懺悔と贖いの姿勢が神に認められれば、楽園への道がぎりぎりで繋がる可能性はある。
加えて、今回に関しては魔王という超常的存在が暗躍しており、しかも正真正銘の神も能動的に支援を行っていた。そのため、特例措置や超法的な対応も多く行うことになり、陛下方は多忙を極めている。その中でブレイトス家の管理もきちんと行ってくれており、信頼できる委任者が定期的に報告を上げてくれる。
それから、魔王。魔王の最終目的は、弱ったフレイル国を他国に侵略させて血の雨を降らせ、神が守る清廉な地を汚して支配することだったのでは、と推測されている。そこまで首尾よくいかずとも、国が荒れることで負の感情が高まり、反乱や暴動などが起これば万々歳だ。それだけでも魔物にとっては理想の環境となる。だから王たちをそそのかし、忠臣たちを追放するのみで殺すこともなく、国の退廃を目論んでいたのではないか。
単に国を血みどろにしたいならば、魔王が直に動く、魔物を大量に送り込む、王たちを操って無実の民を片っ端から何千、何万単位で虐殺させる、などもっと手取り早い方法はいくらでもあっただろう。ただ、あまり派手にやりすぎると夫婦神が直接動く恐れがあった。だから魔王の方もまだ手探り状態で、色々と試しながら様子見をしている段階だったのかもしれない。数千年生きている魔王からすれば、焦らず数百年単位でじっくり事を進めていくことは苦ではないだろう。
ザークラン伯爵自身も、「私どもの動きはごまかせていたと思っていたが、よく考えれば、不穏な動向を察知されていたもののあえて泳がされていたのかもしれない」と呟いていた。魔王としては、むしろ人間が自ら決起や反逆を起こすことで内乱状態になることを望んでいたのではないか、と。
ただ、ルディック陛下方が神に近い幽世に飛ばされたこと、ダイヤモンドを持つアルバート様も生存していたこと、神が予想以上に手を貸したこと、そして私が心を歪ませなかったことなどが誤算だったのだろう。
……というのが皆の予想。もちろん魔王や神に直接聞いたわけではないから、真相は闇の中だけれど。魔物は血と争いと不和を好む存在だというから、まるっきり外れではないように思う。
魔王との戦いで壊れてしまった塔は、急いで修理中だ。聖なる杖も大きく破損していたため、ルディック陛下が神から賜った宝器の一部を利用して修復することにしている。もちろん、きちんと神に伺いを立てて、許しを得た上で。
ザークラン伯爵とマリアも含めた同士たちは、私を長い間助けられなかったことをただ詫びるだけ。
でも、漏れ聞こえてくる風の噂や彼らがふと零す言葉の断片を繋いで推測すると、私の窮状をどうにかしようと何回か動いてはいたみたい。だけど魔王の力を突破できなくて失敗し、あわや数百名の領民が見せしめで拷問処刑になりかかったり、ルディック陛下方が幽世で生存していることが露見しそうになったりしたそうだ。それらはどうにか間一髪で回避できたものの、失敗時のリスクが浮き彫りになったことで伯爵たちは動けなくなってしまったんじゃないかな。
そして、アルバート様と私。
アルバート様は王太子に立てられ、陛下方と共に慌ただしい日々を過ごしている。
王太子妃になった私は王城にて療養しつつ、今までの遅れを取り戻すため勉学に励んでいる。すぐの婚姻となったのは、正式に王家の一員として迎え入れてしまった方が確実に守れるかららしい。もちろん、三百年ぶりの薔薇を王家に取り込めれば幸いだという打算も、きっとあると思う。私はそれでも構わない。……それに、ブレイトス家は王家の預かりになっているわけだから、継承権を持つ私がその王家の者になることは悪くはないのではないかな、とも思う。
婚姻以来、私はできる範囲で公務や仕事に取り組んでいるけれど、本格的に表舞台に出るのはまだ先になるだろう。
叔父たちから長年受けて来た扱いは、確実に私の心身を蝕んでいた。男の人が大声で話していたり、派手な物音が聞こえたり、目の前で大きな動作をされたりすると、頭が真っ白になって体が固まってしまう。訳もなく冷たい涙が出たり、急に震えが止まらなくなることもある。医師が言うには、今まで辛い境遇に置かれていたことによる心の傷が原因らしい。
今はとにかく無理をせず、焦らず、自分を追い詰めず、安心できる環境の中でゆっくりと過ごすこと。そして、もう大丈夫だということを心から自覚することが最優先だと言われた。それが治療の第一歩なのだと。
――そして、そんな医師の言葉をどう解釈したのか。
その日から、皆による私の甘やかしが始まった。それはもう徹底的な溺愛状態だ。ルディック陛下方はもちろん、あの真面目一辺倒なザークラン伯爵がまるで孫に甘い祖父のごとくデレデレ状態で私に接してくるので、はっきり言っていたたまれない。
今だってそう。忙しい時間を縫って私の部屋……といっても王太子夫妻が共同で使う部屋なのでアルバート様の部屋でもある……にやって来た彼の膝の上にちょこんと乗せられて、うっとりするほど優しい手つきで髪を撫でられながら、耳元で甘やかな言葉をかけられている。
『ミレイユは今日も可愛いね。半日も顔が見られなくてすごく寂しかったよ』
『今日も勉強を頑張ったんだって? 予定の倍以上のページが進んだって教師が驚いていたよ。ミレイユは昔から本当に頑張りやさんだね』
『髪の毛がだいぶさらさらになったね、極上のシルクを触っているみたいだよ』
……は、恥ずかしい。ちなみに、私がこの状況だから夫婦の営みはまだないけれど、寝室も一緒だ。
耐え切れず、何か無難な話題はないかと必死に探した私は、ふと幽世のことが気になった。そこで、幽世がどのようなところだったのか聞いたのだ。
「奈落へ続く道から弾かれて飛ばされたとお聞きしたので、何もない空間なのかと思っていました」
「うーん、空間というより別の世界みたいな感じかな。生き物はいなかったけど。でも太陽みたいな光はあったし、水も豊富で生活には困らなかったよ。時間の流れも現世とほぼ変わらないみたいだったし」
アルバート様が、膝に乗せた私をふんわりとホールドし、思い出すように笑う。
「ほら、幽世に飛ばされた時、僕は11歳だっただろう。これからどんどん成長していくのに、服とかどうしようって焦ってさ」
確かに、それは切実な問題だ。
「でも、神が助けて下さったよ。地方に飛ばされた貴族や神官たちが捧げる貢物の一部を、幽世に下賜して下さった。絹糸とか布地とか、貴重な香辛料とか、色々使えそうなものをね。で、母上が裁縫道具を携帯していたから助かったんだ。食事も、幽世にある木には不思議な果物や野菜がなっていて、それが食べられたし。ほら、母上は料理もお上手だから」
おぉ……セイラ王妃、大活躍だ。
父上も僕も、母上にはもう頭が上がらないよ、とアルバート様は苦笑した。
「神に近い領域で採れる食物だったからかな、肉類を食べなくても栄養不足になることはなかったよ。父上がマッチを持っていたから、それで火を起こして消えないように木の枝を継ぎ足して、煮炊きとかもできたしね」
「幽世にある食材とこちらのものでは、どちらが美味しいですか?」
「うーん、幽世の果物は味が濃くて美味しかったけど……こっちの食事は材料も調味料も豊富だしね。母上は甘いものがお好きだから、現世に戻ったら君を助け出して、また一緒にお菓子を食べたいってよく言ってた。僕もそうだったかな」
アルバート様とセイラ王妃は甘党だ。ルディック陛下もコーヒーにミルクを入れているから、多分苦いものや辛いものは好まない。
「王太子殿下、お嬢さ……王太子妃殿下。お茶をお持ちいたしました」
ティーセットの乗ったワゴンを押して来たマリアがにっこりと微笑む。
陛下の心遣いにより、マリアやクレインたちも私付きの侍女および近侍として王城に上がることができた。ルディック陛下の決起に協力し、新たな御世の到来に貢献した褒賞という名目で地位が与えられたらしい。元から貴族令嬢であったマリアの実家は、陛下直々に娘の献身を讃えられたことで復興の兆しを見せているようだ。
今後、本人たちの意向によっては、試験を受けて女官や官吏になる道もある。マリアは女官を目指すと言っていた。今までずっと苦労をかけてしまっていた彼らの前途が明るいことが嬉しい。
「おやつもございますよ。両殿下のために厨房の者が腕を振るっておりました」
ワゴン上にかぶせられていたカバーを上げるといい匂いが立ち昇り、作り立てのパンケーキが現れた。生クリームと混ぜてホイップしたバターと刻んだ果物が乗せられている。
「わぁ、美味しそうだね。ミレイユの大好きなパンケーキだよ。後で厨房を労っておこう」
「私も行きます」
「君は無理しなくていいんだよ」
「いいえ、お礼を言いたいんです」
「そう? じゃあ一緒に行こう。皆きっと喜ぶ」
そんな会話をしている間に、マリアが素早く紅茶を注ぎ、パンケーキを切り分けた。小皿に取ってアルバート様に渡すと、アルバート様は当たり前のようにそれを受け取り、小さなフォークを刺して私の口元に運んだ。
「はいミレイユ、あ~ん」
……恥ずかしくて顔から火が出そう。食事のたびにこの調子なので、そろそろ本当に頭からピンクの煙が上がるかもしれない。
「どうしたの? 早く食べないと、バターが溶けてきちゃうよ」
私の方が溶けそうだ……。
羞恥心を捨ててあーんと口を開くと、甘いパンケーキと濃厚なバター、ちょっぴり酸味の効いた果物が舌の上で混ざり合った。もぐもぐと咀嚼していると、アルバート様とマリアの満足そうな気配が伝わってきた。うう、私の夫と侍女がタッグを組んでいる……。
これではいけない。二口目を食べさせてもらいながら、私は密かに決意した。
どうにかアルバート様にとろんとろん溺愛攻撃をやめてもらわなくては!
ありがとうございました。




