9話「日常」
昨日のソフィア様の"訪問"から一夜明け、私は温かなベッドの中でまどろみに浸っていた。
微かに香る石鹸の匂いは私の鼻をくすぐり、この空間の心地良さを見事に演出している。
そして、少し肌寒くなってきた朝の空気が、毛布から露出した肌に触れて覚醒を促しつつあった。
そんな中、私は昨日の出来事を思い出していた。
----------
「絶対に私の所へ飛ぶのよ!これだけは守って頂戴!」
ソフィア様は近所迷惑になりそうなほどの大声で、カリス様に説教をしている。
子供の姿とはいえ、本人の強さも相まって迫力がある。
村や街でこんな大声を出していたら、きっと隣人が文句でも言いに来ただろう。
この時ばかりは森の中に住んでいて良かったと感じた。
「ちゃんと分かってますって。」
カリス様はそんなソフィア様を軽く受け流している。
戦闘の後で疲弊しているとは思えないほど飄々とした態度だ。
「あとこれあげるから、飲んでおきなさい!」
ソフィア様はコートのポケットから小瓶を取り出し、強引に手渡しした。
中には綺麗な薄緑色の液体が入っている。
「特級じゃないですか。こんな高価な物いらないですよ。」
「魔力空っぽなんだから足りないくらいよ!大人しく言う事聞いて飲みなさい!」
ソフィア様の勢いに圧される形で、渋々納得したカリス様はそれを飲み干した。
すると完全に失われていたカリス様の魔力が、彼女の身体をうっすらと覆うまでに回復した。
どうやら魔力回復のポーションみたいだ。
カリス様が普段作っている上級ポーションと色が異なったため、一瞬だけポーションと判断出来なかった。
特級は市販の回復薬の中でも最高級と聞いていたが、それでも魔力を全快させるほどの効力はないようだ。
ソフィア様はカリス様の魔力が回復したのを確認すると、私の方を見て真剣な表情で言った。
「ダフネ、これからは私とカリスが全力であなたをサポートするわ。」
泣き止んだ私は、ソフィア様からの謝罪を受けた後に、今後の対策を告げられていた。
これからもこの森でカリス様の弟子として働き、魔法の勉強もさせて貰えるという。
ただし、何か異変があればすぐに瞬間移動魔法陣を使い、ソフィア様の家に飛ぶという事が義務付けられた。
本当はソフィア様の元で修行を受ける事になるはずだったのだが、カリス様が反対したためこの内容に落ち着いたのだ。
私としてもその方が良かったのでとても嬉しかった。
ソフィア様の言葉を聞いた私は深く頷いた。
それを見たソフィア様は、穏やかな笑みを浮かべて頭を撫でてくれた。
小さいがとても温かい手だ。
彼女の心には葛藤があったと思う。
カリス様との戦闘中はずっと苦しそうな表情をしていた。
それが今、こんなにも優しい顔になっていて私は安心した。
世界を救うためとはいえ、命を狙われた私は、不思議と彼女に対して嫌悪感を抱いていなかった。
むしろこの優しさを好ましく思っているくらいだ。
そんなソフィア様が私のために全力を尽くすと言っているのだから、魔王の不安は薄れつつあった。
----------
私は昨日の回想を終え、もう少しだけ眠ろうと寝返りを打つと、いつもはそこにない物に手が触れた。
ふにっ
ほどよく弾力があり、温かくて落ち着く柔らかい物。
ずっと触れていたくなるほどに触り心地がいい。
少し疑問に思ったが、それが何なのかすぐに気付いた。
女の人の胸だ。
全てを察した私は、急に鼓動が早くなるのを感じ、慌てて目を開ける。
驚くことに、目の前にはカリス様が寝ていた。
なんで同じベッドで!?てか胸触っちゃった!
日焼けしておらず、きめの細かい肌。
均整のとれた顔立ちに綺麗な白い髪の毛。
毎日見ていたはずのカリス様の顔が一層美しく思えて、顔が熱くなるのを感じる。
何故こんな状況になってしまったのか、上気した頭で必死に考えていると、ようやく思い出した。
昨夜、魔王の事で少し怖くなってしまい、一緒に寝たいとわがままを言ってしまった。
優しいカリス様はそれを快諾してくれ、彼女のベッドで一緒に寝る事になったのだ。
昨日の私を守るカリス様の姿を思い出しながら、しばらく見惚れていると、彼女は目を覚ました。
「おはよう、ダフネ。よく眠れた?」
「ひゃい!よく眠れました!」
びっくりして声が上擦ってしまう。
それを聞いたカリス様が楽しそうに笑いながら言う。
「朝から元気ね。よかったわ。」
笑った顔も綺麗…。
私は照れ臭くて堪らないのに、カリス様から視線を外す事が出来ない。
これは明らかに正常な気持ちではないと少しだけ怖くなったが、私の頭は既にカリス様の事でいっぱいになっていた。
その後の朝食の時間も私はおかしかった。
「ダフネ、頬っぺたにパンくずが付いてるわよ。」
「わっ!自分で取れます!」
私の顔に近づいて手を伸ばすカリス様に、過剰な反応を示して立ち上がり、妙に機敏な動きで避けてしまった。
カリス様は不思議そうな顔をして私を見ている。
恥ずかしい…!
朝食後の文字の勉強の時も…。
「ダフネ、何でこんなに私の名前を書いているの?」
朝からずっとカリス様の事を考えていたら、無意識の内に彼女の名前を大量に書きつづってしまった。
これはマズいと思い青ざめた私は、必死に言い訳を考えて咄嗟に答える。
「け、契約書のサインとか!代わりに書けたらいいなって思いまして!」
あまりにも苦しすぎる言い訳を考えた自分を引っ叩きたい。
それを聞いたカリス様は苦笑いを浮かべ、優しく諭すように言った。
「サインは私が書かないと意味ないのよ。それより自分の名前を練習しなさい。」
なんとか誤魔化せて安心した私は、安堵のため息のような返事をして、その場を乗り切った。
そのまた後の瞑想の時間でも私の異変は続いた。
カリス様カリス様カリス様カリス様カリス様カリス様カリス様カリス様カリス様カリス様カリス様カリス様カリス様カリス様カリス様カリス様カリス様カリス様カリス様カリス様カリス様カリス様カリス様
目を閉じると、カリス様の姿が鮮明に浮かんで私の心を乱す。
それが魔力の流れにも影響しているようで、昨日のように上手く魔力をコントロールする事が出来ない。
真面目に修行をつけてくれているカリス様に申し訳なく思い、恐る恐る目を開くと彼女はこちらを見て心配そうな顔をしていた。
「今日は朝から調子が悪そうだし、お休みにする?」
カリス様はこんな"煩悩に支配された私"にいたわりの言葉をかけてくれた。
それがまた恥ずかしく思えて赤面してしまった。
「大丈夫です!続けます!」
折角、カリス様の貴重な時間を割いて修行に付き合ってもらっているのだ。
それをこんな事で無駄にするわけにはいかない。
とは言え、そんな短時間でカリス様一色の脳内を払拭する事は出来なかったので、根性で魔力だけは三十分間コントロールし続けた。
今日は何かがおかしい。
"何か"と言うのは、あまりにも自分の心に不誠実かもしれない。
本当は既に"その気持ち"に自分でも気付いてきていたのだ。
そしてそれは、次の出来事で決定的な物となった。
私は修行を終えて、カリス様の仕事の手伝いをしていた。
カリス様はいつも通り上級ポーションの製作をしており、様々な薬草を蒸留器に入れて煮立たせている。
その工程の最後に本人の魔力を注ぐ事でポーションは完成するのだが、それを入れるための瓶がテーブルの上にない事に彼女は気付いた。
「ダフネ、棚から新しい瓶を取って頂戴。」
あらかじめ煮沸消毒された瓶は、埃がかぶらないように棚の中に逆さ向きに整列されていた。
そのお願いを聞いた私は、急いで棚から小瓶を取り出してカリス様の元へ運んだ。
「カリス様、どうぞ。」
「ありがとう、ダフネ。」
その小瓶を手渡しした時、私の手とカリス様の手が触れた。
その瞬間、驚いた私は思わず手を引いて小瓶を落としてしまったのだ。
勢いよく床に落下した瓶は粉々に割れ、周囲に飛び散った。
「ダフネ!大丈夫!?怪我はない!?」
カリス様は割れた瓶の事など気にも止めず、私の脚に傷がないか心配した。
私は呆然としてしまい言葉が出てこない。
昨日まで上手くできていた事が、全くできなくなってしまったのだ。
その時は悔しさも感じたが、それ以上に大きな感情が私の中にある事に気付いた。
昨日はあんなにも恋しかった日常。
それが戻ってきて嬉しいはずなのに、また緊急事態が訪れたのだ。
村の男の子にも抱かなかった感情を、同じ女性であるカリス様に持ってしまった。
どうしよう…。私、カリス様の事が好きになっちゃった。
今週も読んでいただき、ありがとうございます。
10話「嘘」は11/29(月)0時更新予定です。
よろしくお願いします。