夜の帳
ラリッサ女史を連れ戻し、沼辺のキャンプ地へ帰還した。
少しばかりトラブルはあったが、おおむね無事と言ってよかろう。
「カナタさん、あの女いきなり剣を抜こうとしたっス。頭がおかしいっスよ」
「そう言ってやるな。きっと気が動転していたのだろう」
人攫いみたいな格好のステランを見て、思い余ったのだろう。咄嗟に手が剣へと伸びたパウラ嬢である。道を踏み外した幼馴染みを殺し、自分も後を追うつもりだったのだ。そんなことを言っていた。
アーウィアのタックルで転がされてなお暴れ続け、大変であった。
妙に寝技の強い司教に肩と首を極められつつ、ニンジャの説明を受けて、ようやく落ち着いたのだ。あやうく刃傷沙汰だ。シンプルな顔付きに似合わず、なかなかの激情家である。
「それで、いつまで押さえつけていればいいのだ? 私も食事がしたい」
「私は石板が読みたいかな。あ、痛い痛い。とりあえず持って帰った石板でいいからさ。もう逃げないって」
寝技の心得がないユートは、力任せにラリッサ女史を折りたたんでいる。騒動の間にハーフエルフが逃げ出さぬよう、ユートに捕縛を任せたことを忘れていた。
格闘技の達人は、相手に怪我をさせないよう技をかけることができると聞く。傍目に見てもド素人なユートでは、そろそろへし折ってしまいそうである。
「二人とも、顔の血を落としてこい。沼の水は使うなよ」
「持ってきた飲み水はすくねーっス。あんまじゃぶじゃぶ使うんじゃねーっスよ」
ラリッサの捜索に人手を割かれたせいで、もう夕食に近い頃合いだ。
補給物資の山にエルフとドワーフが頭を突っ込んでいる。何か食っているのだろう。食事の用意を急がねばならん。
水も食糧も少ないことだ。今日はこの一食で済ませてしまうことにする。
持ち込まれた大鍋に湯が沸かされた。獣脂で残飯を固めた感じの保存食を投入。ひと煮立ちさせて食事の用意が完了した。
泥のようなスープだ。眼前に広がる沼とそっくりである。
各自に硬いパンが配られた。皿など持ってきていないので、力任せにむしって皆で鍋のスープに浸しながら食らう。文明を感じさせぬ食事風景である。
「ねえ、スープがあついの。すごくあついわ」
「指が浸かってンぜ。欲張るんじゃねえよルー」
「……愚かですね。そんなことをしなくても、後で鍋を舐めればいいでしょうに」
冒険者たちは鍋を囲み、むしったパンを浸しながら食っている。
さっさと食い終わって場所を譲ってほしいのだが。鍋を囲める人数にも限りがあるのだ。あと鍋は舐めるな。パンで拭うのが正解だ。
すっかり日も暮れ、夜の帳も下りたころ。
沼辺のキャンプ地ではゴロツキどもが焚き火を囲み、思い思いにくつろいでいた。お調子者の冒険者が歌い踊り、衛兵たちも楽しげに囃し立てている。あいにく酒は持ってきていないが、きっと火を囲むうちに雰囲気に酔ったのだろう。どんちゃん騒ぎである。
そんな蛮族どもの宴をよそに、篝火の側で車座になった一団がいる。
俺たちが持ち帰った石板を囲む魔術師連中だ。
「これはどういう魔法だ? 今まで見たことがない」
「じっくり読み解くしかないでしょ。長丁場になりそうだわね」
「うむ、では隊長。読み上げを頼みます」
長衣の男にうながされ、耳の長い奴がこくりと頷く。
「はい、よみます。えっと……らーげちぇ、ばーどり、うんだ、ぷらかーし……」
抱えた石板に目を落とし、ゆっくりと読み上げるのはルーである。
幼子に読み聞かせをする先生みたいな感じだ。
いい大人が集まって、熱心にエルフの言葉に耳を傾けている。
魔術師として優秀なのは知っているが、そんな奴の言うことをまともに聞いて大丈夫だろうか。保護者から苦情が出ないといいが。
「アーウィアは聞いていなくていいのか?」
「わたしはいいっス。ぜんぶ自分でやる必要はねーっスから。あとで連中から聞き出しますよ」
俺とアーウィアは焚き火にあたりつつ、沼を眺める。
夜闇にまぎれてよく見えないが、瘴気がこちらに寄ってくる気配はない。まるで縄張りでもあるかのように、一つの場所をぬるぬると飛び回っている。迷宮第八層で見た瘴気と同じだ。
「ふむ、確かに。別に今すぐ読まねばならんというわけでもない」
「うっス。石板はまだいっぱいあるっスから。先はなげーっス。うまいこと人を使わなきゃ、いつまで経っても終わらんスよ」
「ああ、そうだな」
プロジェクト・マネージャーみたいな考え方をする小娘である。
最近はギルドの運営に携わる仕事もするようになったアーウィアだ。現場仕事から上流工程へとステップアップしたのだろう。そのうち外資系の企業とかに転職しそうな感じである。偉くなったものだ。
焚き火から少し離れたところでは、ステランとパウラ嬢の二人が向き合って地面に腰を下ろしている。ぽつりぽつりと口を開くパウラ嬢に対し、盗賊の青年は落ち着かぬ様子だ。いつでも逃げられるよう気を張っているのだろう。
「――また魚が跳ねた。こんな沼にもいるのだな」
「きっと泥臭くて食えたもんじゃないっス」
瘴気蜥蜴しか住まぬ不毛の荒野かと思われたこの場所にも、生き物たちの営みはあった。日中は気付かなかったが、こうして耳をすませば小さな物音が聞こえてくる。
かすかな気配を感じて目を凝らすと、草薮から野ネズミらしき小動物が出てくるのが見えた。きっと夜行性なのだろう。水辺の方へと小走りに向かっていく。
突如、沼から飛び出した魚が猛ダッシュで駆け寄り、ネズミを抱えて沼へと戻っていった。しばらく水の跳ねる音がして、また沼に静寂が訪れる。
「――見たか、アーウィア」
「うっス」
「魚に手足が生えていたな」
「うっス」
瘴気の濃いところには魔物が湧くという。
あの小さな魚人みたいなのも、おそらく魔物の類だろう。
「やはり、湧いてしまうか。手強い魔物ではなさそうだが」
「心配しなくても大丈夫っスよ、カナタさん。ちょっとくらい変なのが出ても、きっとトカゲが食ってくれるっス」
「――ふむ。それもそうか」
妙な生態系が出来上がりつつある、我らがオズロー一帯であった。
早朝、ニンジャは沼を見下ろす場所で見張りに立っていた。
吹き抜ける寒風に身を震わせ、白み始めた空を見上げる。
蜥蜴どもの襲撃はなかった。夜はねぐらで大人しくしているのかもしれない。
戦闘の一つもあれば、身体も温まったのだろうが。野営には厳しい季節だ。
「カナタさん、みんな目をさましたみたいっス。わたしらも戻りましょう」
「そうだな。すっかり身体が冷えてしまった」
「うっス。焚き火にあたって湯でも飲みましょう」
他の見張り番にも声をかけ、窪地を下りる。
焚き火の周りでは、寝床から起き出したゴロツキどもが億劫そうに鎧を身に着けていた。眠たげな顔をしたヘグンの姿もある。
「おう、ヒゲ。ちょっとどけっス。わたしらも火にあたるっスから」
「――待ってくれ姉御。いま鎧をあっためてンだ」
ヘグンは鉄鎧を火にかざし、大あくびをしている。
交代で見張りを立て、天幕で毛布にくるまって眠り、寒さに目を覚まして焚き火にあたる。一晩中、その繰り返しだった。
骨身にしみる寒さだ。どいつもこいつも睡眠不足である。
「しかし、魔術師連中は元気だな。一睡もしていないのではないか?」
「やっぱりそうか。ルーにゃ寝ろって言ったんだがな……」
「夜通し石板を読んでたみたいっスな」
ルーを中心とした読書会は、夜を徹して開催されたようだ。
夜が更けていくにつれ読書会の熱気は高まり、夜明けが訪れる頃にピークを迎えた。どうやら石板の解読に進展があったらしい。
「せいっ、『幻影威』っ!」
「あは、あははっ! すごいわ! あははっ!」
「いくわよ! 『幻影威』っ!」
「うははッ! これが新しい魔法か!」
何やら徹夜明けのテンションで、互いに魔法をかけ合っている。
街に帰るまでが遠征だ。こんな朝っぱらから魔法の使用回数を減らしてほしくないのだが。
「……おはようございます」
「起きたっスか。寝癖がひでーっスよ、ニコ」
ふにゃふにゃした足取りで寄ってきたおかっぱが、寝癖と反対側の頭を押さえつつ小首を傾げる。
「……あれは何の騒ぎですか?」
「ふむ、どうやら石板から魔法を読み解いたようだな」
血走った目でげらげらと笑い転げる魔術師たちを眺める。魔法の効果は不明だが、傍から見ていて気持ちの悪い集団である。
「よォし、準備はできたぜ。もう天幕は取っ払っちまっていいんだな?」
「うむ。さっさと片付けて帰るとしよう」
撤去する天幕の中から眠りこけるユートを発掘し、探索隊は帰路についた。
「なんか、来るときより荷物が増えてるな……」
「水と食糧が減った代わりだと思いましょ。手分けして運ぶわよステラン」
天幕の布を利用し、即席の担架が作られた。
数枚の石板と小さな瘴気蜥蜴、白目をむいたラリッサ女史が運ばれていく。
姿を見かけなかったが、あの女史も徹夜で石板を読んでいたらしい。何だかんだで体力のある冒険者とは違い、こちらは轟沈である。
結局、沼の瘴気については保留となった。
新たに謎の地下室から石板を発掘するという任務も発生したことだ。その際にこちらへ寄って経過観察するとしよう。
ともかく、ようやく治癒薬の生産が再開できそうである。