沼
ハーフエルフの錬金術師に導かれた先は、禍々しい瘴気の漂う沼だった。
「カナタさん、なんでアレがこんなとこでぷかぷか浮いてんスか……」
「ふむ、よく似た何か……というわけではなさそうだな」
「あんなもん他で見たことねーっスよ」
沼に湧いた羽虫の群れ、ではなかろう。アーウィアは落ち着かない素振りで沼を睨む。やはりあの黒い靄、迷宮で見たものと同じ『瘴気』だ。
一行が遠巻きに沼を眺める中、不健康な顔のハーフエルフは下ろした背嚢から蜥蜴を引っこ抜き、大事そうに地面へ横たえた。ラリッサ女史は背嚢に手を突っ込んで荷物を漁る。取り出したのは、金色に輝く砲弾型の物体。先日納入したアーウィウム製の水筒だ。
「ここの水は魔力の活性が高くてね。水薬作りには重宝するんだわ」
鼻歌交じりにラリッサ女史は沼へと歩いていく。まるであの禍々しい瘴気など目に入っていないかのような様子だ。
「おいハーフエルフ、あぶねーっス! のこのこ近付くんじゃねーっスよ!」
「落ち着けアーウィア。俺たちも行ってみよう」
「んもう、世話が焼けるっス!」
ラリッサ女史に続いて、探索隊は窪地に下りた。
周囲はすり鉢状の地形になっている。ごつごつした岩と枯れ草の茂みくらいしかない荒寥とした眺めだ。空気はかすかに湿り気を帯び、沼々しい匂いを運んでくる。ここが『精霊の泉』とかいう場所らしい。沼の色や漂っている瘴気を抜きにしても、いまいち精霊の泉っぽさが欠けている。
「もう少しこう、心が洗われるような景色などを想像していたのだが……」
「こりゃ精霊の泉っていうより『瘴気の沼』って感じっスな」
「よし、その呼び名を採用しよう。今後も励むように」
「うス、恐縮っス」
褒美代わりに、アーウィアの頭に付いている草の種を取ってやる。まだ残っていたようだ。ブラシを持ってくればよかった。
「この辺りに生えてる薬草も採っていくよ。葉っぱが枯れちゃってるから探すのが大変なんだよね。必要なのは根っこだから枯れてても構わないんだけどさ」
ラリッサ女史は鼻歌交じりに沼に水筒を沈め、汚れた水を汲んでいる。
この怪しげな泥水から治癒薬を造るつもりだろうか。おそらく消費者の健康など考慮されていない。なんと邪悪な耳長女だ。まぁ、多少害があったところで問題にはなるまい。たぶん治癒薬の効果で回復するだろう。
たぽたぽと水音を鳴らす砲弾を抱えたラリ女と沼を離れる。
当初の予定では、ここで昼食を兼ねた休憩を挟んで帰路につくつもりであった。しかし、これを見てしまっては予定を変更せざるを得ない。
「ヘグン、野営の準備を頼む。衛兵と後続の連中を好きに使ってくれ」
「なんだ、こんなとこで一泊すんのか? 今から引き返したら、夕暮れまでにゃ街に帰れンだろ」
後続の幼馴染部隊には、食糧や天幕などのキャンプセットを運ばせている。よほど天候が悪くならない限り、ここで野営できるだけの準備はしてきたのだ。
「この光景を放って帰るわけにもいくまい。どうせまた調査にくるはめになる。二度手間になるではないか」
「けっ、瘴気ねェ……」
ヒゲの戦士は沼の方に目を向け、唇を歪めて諦め気味に肩をすくめてみせた。
泊まり仕事になるが仕方ない。瘴気蜥蜴の件は手遅れのようだが、こちらの問題まで野放しにしていいわけではない。この『瘴気』とかいう黒い靄には、まだ謎が多いのだ。
「アーウィアは一緒に来てくれ。もうちょっと沼に近寄ってみよう」
「はいはい、ついてってあげますから。そんな怖がらなくて大丈夫っスよ」
まったくもう、といった感じの微苦笑で鼻息を漏らし、担いだズタ袋を下ろしている司教様である。お母さんか。
「そういうのじゃない。俺たちは沼の調査だ。例の護符が瘴気に効くか試すぞ」
「あー、そんなんもあったっスね」
アーウィアは厚着の首元をもぞもぞ探り、細い鎖に繋がれた黒い金属板を引っ張り出す。ギルドの冒険者証に似た形状、細かな文字がびっしり彫り込まれた、怪しげな護符だ。
かつて俺たちが迷宮深層を目指していた時のことを思い出す。
第八層に存在した瘴気溜まりの広間を突破するために必要となったのが、この『大賢者の護符』だ。強力な魔除けのアイテムだが、代償として持ち主を呪う。
第六層の『門番』と呼ばれる魔物から入手して以降、うちの司教様の首にかかりっぱなしだ。アーウィアがノリで装備したせいで外せなくなったのである。
「――これは効いているのか?」
「知らんス。たぶん効いてんじゃないんスか?」
「岸から距離があるせいでよくわからんな。もっとこっちに来ないだろうか」
「沼の真ん中から離れねーっスな。もう放っとけばよくないっスか?」
沼のほとりに護符搭載アーウィア一号を設置してみたが、瘴気は沼の中心辺りで楽しげにもやもやと淀んでいる。まんざら知らぬ仲ではないのに、よそよそしいことだ。護符がどうとか以前の話である。そもそも陸地まで寄ってこなければ検証のしようがない。
「ふむ、仕方ない。もう少し腰を据えて観察してみるか」
「そっスな。風でも吹けば、もうちょいこっち来るかもしれんス」
設置したアーウィアを撤去して本隊の方へ戻る。
後続の荷物持ち部隊が到着したようだ。衛兵たちが天幕を設営し、冒険者たちが石積みのかまどを組み上げている。さすが蛮族社会、野っぱらで寝泊まりするのはお手の物だ。いちいち指示されずとも、木を切り出す奴やら枯れ枝を拾う奴などに分かれて野営の準備に勤しんでいた。
「……先生とアー姐さんは何をしているんですか?」
「さあ、沼にあいさつしてたんじゃないかしら」
「アーウィアは瘴気避けの護符を持っているのだ。沼の瘴気を祓えるか試していたのだろう。前に迷宮攻略で使ったのだ」
皆が忙しく働いているのに、うちの女子連中は知らん顔で歓談中だ。協調性とかいう概念はないらしい。エルフだのドワーフだのむぅむぅ星人だのが異種族だと実感するのはこういうときである。
「……私の知らない話です」
「えっとね、第八層でね、なんか地図がね、あら、昇降機が先だったかしら?」
「順番を考えてから喋るのだルー」
異文化交流をしている人外たちは放っておこう。
ヘグンは衛兵たちに混ざって丸太を担ぎ天幕の設営。後続パーティーのうち、盗賊ステランの一行は瘴気蜥蜴を警戒しつつ薪拾い。地味っ子聖騎士パウラ嬢とその仲間たちは焚き火の準備をしている。
「パウパウ、火が起こせたら食事の用意を頼む」
「わかったわ、カナッティー」
「アーウィア、俺たちも働くとしよう。枯れ枝でも拾うか」
「――ぁん?」
おかしな返事が聞こえたので視線を向けると、アーウィアが見たことない感じの顔で俺を凝視していた。火曜日かと思ったら水曜日だった人がカレンダーを見るような目だ。妙に鬼気迫る表情である。大事な予定でも入っていたのだろうか。
「カナタさん……なんかさっき、変じゃなかったっスか?」
「気のせいだろう」
「いや――そっスか……」
うっかり休日のノリが出てしまったようだ。
パウラ嬢とは、たまに愚痴だの近況だのを語り合う仲だ。子育ての悩みを相談したりもする。そういう時はニンジャも女子会モードになるのだ。家人には秘密にしておきたい姿である。
数名の役立たず以外は、今宵の寝床を作るためにあくせくと働いている。昨今、迷宮に潜るしか能のない冒険者だとかいう言い訳は通用しない。我ら冒険者とて、生活能力が求められる時代である。
「そういやカナタさん」
「どうしたアーウィア」
荒れ地に転がる古木の枝やら枯れた灌木などをぽきぽき折りながら採取する。
季節は霜の降りる灰の月。野外で一夜を明かすには、たっぷりの薪が必要だ。
「あのハーフエルフがおらんス。沼にでも落ちたんスかね」
「ほう」
周囲を見回す。荒くれ者どもの中に、耳が長いのは一匹しかいない。
「それか、トカゲに食われたかもしれんス」
「ふむ」
さて、困ったものである。