6.「ばいばい」「また明日」
真っ白な雪が舞う街を、私は一人で走っていた。
裸足で、コートも着ないで、真っ白な世界を走っていた。
向日葵色のリボンと、真っ白な本を持って、私は息を切らしながら走っていた。
燃えてしまった図書館は、アパートから東にまっすぐ行くと見えてくるとヒイロは言っていた。だから私は、おさげ髪を揺らしながら必死に東へと走っていた。
降りしきる雪はお気に入りの真っ白いワンピースに積もって同化していく。全くやむ気配がない雪は何故か今の私には無数の星達に見えた。これじゃあまるで流れ星だ。これならきっと、あの飛行士も一生笑っていられるだろう。
足の感覚がそろそろ無くなってきた頃に、私は図書館を見つけた。
本当に東にまっすぐ。一部が黒く崩れてしまった図書館は、私の記憶の新しいところにいるそれと一緒だった。
もう、忘れたりしない。
目の前に立っている、猫っ毛で真っ黒で、図書館の司書なんて全然似合わないお兄さんも、もう忘れたくなんかない。
図書館の入り口に立っているヒイラギは、しばらく何も喋らなかった。私も走ってきて乱れた呼吸を整えるまで、何も喋ることが出来なかった。大きく深呼吸を繰り返す私の呼吸が整うまで、彼は待ってくれているのだ。
一分くらいずうっとそうしていて、私はようやく呼吸が整う。
ヒイラギは両手で大切に抱えた真っ白い表紙の本を見て、全てわかったように左手で頭をがしがしとかいた。それがヒイラギの、お兄さんの癖だった。
「ヒイロが、お節介を焼いたようだな」
「この髪の毛、似合ってる?」
「ああ、よく似合っているさ」
「ヒイラギって読むんだったのね、名札の字」
「十二歳には少し難しい字だったな」
「来月には十三歳になるのよ」
強がりを言いながら話さないと、私は今にも泣き崩れてしまいそうだったのだ。
お兄さんの名札には『柊』とだけ書いてあって、私はいつもそれが読めなくて、でも聞くのも恥ずかしくて、『お兄さん』と呼んでいた。
私は学校が終わると、いつも近くの図書館に通っていた。
家に帰ると両親に何をされるかわからなかったので、なるべく家にいる時間を減らすために、逃げ場所としていたのだ。そこで司書をしているお兄さんと顔見知りになり、毎日話すようになった。猫を拾った時も、こっそり図書館にある庭で飼っていいと言ってくれた。
学校が休みの日は、朝から図書館に通った。
朝からお母さんの機嫌が悪くて殴られてから出てきた時は、泣いているところを見られたこともあった。その時は不器用に頭を撫でながら、最後にはいつも金平糖をくれた。どんな日も必ず「ばいばい」「また明日」。そう言ってさよならをして別れていた。
でも、あの日だけは違った。
「お兄さん、怒ってる?」
「どうして?」
「だって、私がさよならしなかったから、お兄さんは死んじゃった」
「リイラのせいじゃない」
いつもと何も変わらない日だったのだ。
いつもと同じように学校帰りに図書館に行って、お兄さんは仕事をしていて、私は誰よりも最後まで本を読んでいて。それであとは「ばいばい」と「また明日」だけだったのに。
「私、お兄さんが疲れてるんだろうなって、起こさない方がいいかなって、そう思って、」
閉館時間になって、お兄さんに声をかけようとしてカウンターを覗くと、お兄さんは寝ていた。毎日働いて疲れているんだろうな、そう思って私は音をたてないように静かに図書館から出て行った。その日の夜だった。
「家に帰ったら、図書館が燃えてる、って。消防車がたくさん止まってる、って。お母さんが言ってたの」
図書館を半焼させるほどの炎の原因は、図書館の裏の公園で学生が遊んでいた花火の不始末だったと翌日の朝のテレビでやっていた。
「私が、私がちゃんと、いつもみたいにさよならしてたら、お兄さんは死んじゃわなかったのに! また明日、なんて、明日なんて絶対来るものじゃなかったのに……!」
「もういいよ、リイラ」
いつかもそうしてくれたように、お兄さんは不器用に私の頭を撫でた。
「俺が大好きな本、思い出してくれてよかった」
真っ白な表紙の本の名前は、――――『さよならの街』といった。
お兄さんが一番大好きな本だと言って、あの日私に貸してくれた本だった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、お兄さん」
「なあリイラ、よく聞いて」
昨日もそうしたように、お兄さんに抱き寄せられる。
私はお兄さんの声を、大好きな安心するその声が頭上から降ってくるのを聞いた。
「俺が死んでしまったのは、リイラのせいじゃない。それが言いたくて、心残りで、気が付いたら『さよならの街』にいた。本の世界だ。死んでからも夢って見るんだなって思ったよ。管理人の役、上手く出来ていればいいんだけれど」
声が掠れる。ああ、お兄さんが笑っている。
「そこに君も来た。死ぬほど驚いた。まあ、死んでるんだけど」
今度は悪戯そうに笑った。見えなくても全部わかる。
「昨日君が俺に言ったみたいに、このまま君とヒイロと暮らしたいって、本気でそう思った」
「なら……!」
「それでも、やっぱり駄目だ。リイラは大人にならなくちゃいけない」
「私、子どものままでもいい! お兄さんと暮らせるなら」
「君はいっぱいいっぱい泣いて、それで前を向いて素敵な大人になってくれ。辛い時は逃げてもいい。でも本当に最後の最後は、逃げちゃ駄目だ」
ぼろぼろぼろ、音をたててしまうんじゃないかと思う程、私は一週間ぶりに涙を流した。
ぬぐってもぬぐっても止まらなくて、このまま一生止まらないんじゃないかって思うくらい。
「わたし、強くなれるかなあ、」
「ああ、なれる。……ねえ、リイラ。俺は君に贈り物をしたい」
「なあに?」
お兄さんは、涙が止まらない私の目元から温かな大きな手で大粒の涙をぬぐって、目線を合わせてしゃがみこんだ。
「俺が一番大好きなその本と、この真っ白な雪を君にあげる。君はその本を見たら笑いたくなるし、年に一度の雪がきたらこの街で過ごしたことを思い出す」
「ふふ、ねえそれ、王子さまみたい」
「ちゃんと王子さま、出来てたかな?」
「とびっきり素敵な王子さまだったわ」
私はぼろぼろと涙を溢しながら笑っていた。
その声が少し掠れていて、お兄さんに似てるかもしれないと嬉しくなった。
「さよなら、お兄さん。大好きよ」
「俺も、大好きさ」
らしくない「大好き」なんて言葉を使って、お兄さんは照れたように頭をかいた。
もう、お別れだ。今度は絶対に忘れない。
「ばいばい」
「また明日」
さよならの街で、私とお兄さんは、あの日言えなかった別れの挨拶をした。