3.「覚えているわ。私、この本が好きだったの」
さよならの街で、私は何一つ不自由することはなかった。
部屋にあったクローゼットの中には真っ白いワンピースがいくつも入っていたし、ヒイラギの作るご飯はとてもとても美味しかった。ロビーではたまにこのアパートの人と会うこともあったが、みんな優しくしてくれた。
特に私の母親より少し年上に見えるおばさんは私を気に入ってくれたらしくぼさぼさの髪をいつもとかしてくれたし、ヒイロは動物の鳴き真似がすごく上手だった。私は猫が好きだったので、よくにゃあにゃあと訳もわからない鳴き声で会話をして笑いあった。ヒイラギはそんな私達を見てお得意の溜息をつきながら、ホットココアを出してくれた。
たった数日で、私はこのアパートの中だけでの生活に慣れていた。
「ねえリイラちゃん。今日は外に出てみない?」
だからだろうか。今日も遊びに来ていたヒイロにそう言われて、外出という選択肢があることに驚いた。あの真っ白な街の外に出るということを、私は今の今まで考えていなかったのだ。
「外には何があるの?」
「結構何でもあるわよ。カフェや服屋、カラオケだってあるわ」
「へえ、なんか意外。カラオケとかもあるんだ」
「前に歌手のお客さんがいた時は、毎日通っていたものよ」
カラオケは生まれてから一度も行ったことがなかった。
興味がないわけではなかったが、たまたま機会がなかっただけなのかもしれない。
「行ってみたいところがあったら連れてってあげるわよ」
外出には管理人の付き添いが原則だとヒイラギが言っていた。
三人で外に出かけるのだろうか。想像しただけで心が躍る。行きたいところを考えた時に、自分でも不思議だが真っ先に出てきた場所があったのでそのまま口にする。
「図書館。図書館はある?」
そうだ、私は図書館に通っていた。本が好きだったのだ。
口にすると真っ白な記憶に一つ色がついたようだった。例えるならば、ミルクパズルのピースがうまくはまった時のような、そんな気分。
猫が好きだったことより、ずっと大事なピースだったろうに、今こうして何の前触れもなく思い出した。忘れていたということはきっと、大切なことなのだ。
「図書館? あー、あるにはあるんだけど。今は入れないの」
「どうして?」
少しだけ困ったようにヒイロは教えてくれた。
「少し前に火事があってね、燃えちゃったのよ。だから今は工事中で入れないって聞いたわ。本が欲しいなら近くに本屋があるわよ」
燃えている図書館を、私はありありと想像することが出来た。
どこにあってどんな外観なのかもわからないのに、おかしいな。
「ううん。買ってもらうのは申し訳ないよ」
「そう? 僕は全然気にしないけど……あ、そうだ。リイラちゃん、ヒイラギの部屋に行くといいわ」
「ヒイラギの部屋?」
「うん。あいつ本好きでね、でっかい本棚があるの。何冊か借りてくるといいわ」
ヒイラギは片付けなければならない仕事があるといって、朝食の後から部屋に籠ったっきりだった。ヒイラギの部屋がどういう部屋なのか気になったのも相まって、私はヒイラギの部屋を訪ねることにした。
ヒイロのアドバイスでコーヒーを差し入れとして持ちながら、階段とは反対側、ロビーの奥にある通路の先に隔離されたように一つだけある扉をノックした。
「どうぞ」
部屋の中からヒイラギの声が聞こえたので、私はカップに入れたコーヒーを溢さないように慎重に持ったまま扉を開けた。
「お邪魔します」
私の部屋よりかなり広い部屋だった。
部屋の一番奥には大き目の窓があって、そこから真っ白が差し込む。その手前には茶色い机があって、いくつもの書類が散らばっていた。そして一際目を惹くのが大きな本棚。部屋の左右に一つずつ備え付けられた本棚の一番上の段は私には絶対手の届かない位置にある。そんな二つの本棚には数えきれないくらいの本がずらりと綺麗に並べられていた。
ヒイラギは私から見て左側の本棚の前に一冊の白い本を持って立っていたが、私に気が付くとその本を一番上の棚に戻し、こちらを向いた。
「リイラか、どうした?」
「本が読みたくなって。ここに来れば本が沢山あるってヒイロが教えてくれたの」
「君は本が好きなのか?」
「そうみたい。本を借りてもいいかしら?」
少しだけ、間があった。
「ああ、構わない。君ぐらいの年齢でも読めそうな本は反対側に並べてある」
「ありがとう」
ほっと胸をなでおろした。仕事の邪魔にならないか心配だったのだ。
コーヒーを机に置いてヒイラギに言われた通りに右側の本棚に目を通すと、私にも読みやすそうなタイトルの本がいくつか並んでいた。その中で、見覚えのある名前が書かれた本を見つけて思わず声が出る。
「あ、これ」
私の声に反応してヒイラギもこちらに歩いてくる。
金髪の小さな王子さまが描かれた表紙に、私はとても覚えがあった。この表紙の王子さまが色んな星を巡った話を飛行士が聞く、そんな話だ。
「覚えているわ。私、この本が好きだったの」
「それは、俺も二番目に好きな本だ」
ヒイラギは後ろから覗き込むように見ていたので、頭上から声が降ってきた。
「一番は?」
「秘密」
たまに彼はこうして意地悪を言うようになった。でもこういう時は大抵、私の好きなちょっと掠れた声で笑うものだから、私は何も言えなくなってしまう。
「この街は夜も雪だから、飛行士は住めないだろうな」
「いつも星を見ると笑いたくなる、って言えない街だもん」
「その代わり、良いものがある」
「なあに?」
ヒイラギはそう言って悪戯を思いついた子どものような顔をして、机の引き出しを開けて何か小さな物を取り出した。
「これで、あの飛行士も大笑いだ」
それを見た瞬間、二人で顔を合わせて笑ってしまった。
ヒイラギの手には、私の両手がいっぱいになるほどの色とりどりの金平糖があったのだから。