1.思い出したら、さよならしなくちゃいけないの。
私は目を覚ました。
どうやら長い間眠っていたらしい。
ぼんやりした頭でいつ眠ったのか、眠る前は何をしていたのかを考えたが思い出すことは出来なかった。しばらくしたら思い出すだろうか、どうだろうか。
周りをぐるりと首を動かして見回したが、私には知らない場所だった。そんなに広くない真っ白な部屋には真っ白なベッドと一つだけ窓があった。窓の外は雪が降っているのか真っ白で、今は冬なんだっけと首を傾げた。そうすると両の頬に突っ張ったような変な感覚があったので両手で触る。目の下から顎の辺りまで、線を引いてざらざらとしていた。目が覚める前は泣いていたようだった。
どうして泣いていたのか、何がそんなに悲しかったのか、もしくは嬉しかったのか、私には思い出せなかった。着ていた真っ白なワンピースは綺麗なままで、お気に入りだったような気がするのに、誰かから借りたような余所余所しさも感じる。
「ここはどこ?」
真っ白な部屋の入り口にはずっと、真っ黒なお兄さんが立っていた。
猫のようにふわりとした髪の毛も、見開かれた瞳も、ラフな洋服もしっかりとした靴も全部黒かった。
それはどうにもこの部屋から浮いているように見えて、話しかけていいのかしばらく迷ってしまった。それにお兄さんは私を見て心底驚いたような、まるで幽霊を見たかのような顔をしていたので、生きていますよという意味も込めてようやく話しかけてみることにしたのだ。
「……どうして」
私に向けて言ったのではないとは思うのだけれど、部屋が狭いのでお兄さんの呟きは私のところにまで届いてきた。低くも高くもない、聞きやすい声だった。その独り言を聞かれてしまったことに気が付いたようで、お兄さんは小さく咳払いをしてまっすぐ私を見る。さっきまでの驚いた表情ではなく、言うなれば仕事をしている人のような、そんな表情に変わっていた。
「君はどうしてここに来たんだい?」
「私が質問していたのに」
「ここに来る前のことを覚えているか?」
聞いちゃくれなかった。
仕方ないので考えることにする。
ここに来る前。
随分頭も冴えてきたので思い出せるかもしれない。どうしてここに来たんだっけ、何をしてどうしてここにいるんだっけ。目を覚ましたということは、何処かで眠ってしまったんだろう。涙の跡があるということは、何か心揺さぶられることがあったのだろう。
自分のことなのに、全く思い出せなかった。
「思い出せない」
「そうか。じゃあ本当に君は俺のお客さんみたいだ」
「お客さん?」
お兄さんは困ったように小さく笑って、左手で頭をがしがしとかいた。
笑いながら話すと、声が掠れて聞こえてそれがどこか心地良い。
「子どもに話す機会はあまりないからな、説明が難しくなってしまったら聞いてくれて構わない」
「私、もうすぐ十三になるの」
だから子どもじゃない、と言いたかったのだが、それが更に子どもっぽく聞こえてしまいそうだったので頬を膨らませるだけにした。
お兄さんは小さく頷いて、まるでお気に入りの絵本を読むかのようにすらすらと話し出す。
「ここは、アパートの一室だ。管理人は俺。アパートにはある問題を抱えた人達が住んでいて、ここに来たということは君も他の住人と同じようにある問題を抱えていることになる」
「ある問題?」
ここまでを流暢に喋っていたのに、途端に言葉を選ぶように続けた。
「君は、記憶がない」
その言葉は、私の心を読んだようだった。
「日常生活に支障をきたすような記憶の話ではない。君は現にこうして俺と会話をしているし、歩き方や食事のとり方がわからない訳ではないから安心していい。しかし、君は大切な記憶を無くしている。ここに来る前に『どうして泣いていたのか』を忘れてしまっているんだ」
どうして、泣いていたのか。
お兄さんはあまりよろしくない目つきの瞳を更に細めて真剣にそう言った。
冗談で言っているわけではなさそうだ。しかし私は、食事をしたり自分で歩くことの方が重要だと思ったのでいまいちピンとこない。
「それは、本当に重要なことなの?」
「ああ。理由は様々だが、君はその出来事によって一週間泣き続けていた。記憶を消してここに来ない限り、そのまま死んでしまっていただろう」
言葉を噛み砕くようにゆっくりとそう言って、お兄さんは少しだけ苦しそうに笑った。
「放っておけば泣き暮れて死んでしまうような人はこの街にやってくる。そして、泣き続けていた分だけ、この街では泣いていた理由を探すことができるんだ。君は一週間、この街に住むことになるだろう」
私が泣いていた理由はわからないのに、そのままでいたら死んでしまっていたという。
かなり理解に苦しむ内容だった。肝心の涙の理由を忘れてしまっているから、期限付きの謎解きを言い渡されても完全に他人事だ。
「そしてこの街は、『さよならの街』と呼ばれている」
「さよならの街?」
「君たちがここにやってくる原因が『誰かや何かにさよならを言わないまま、相手が死んでしまったりなくなってしまった』ことに由来している。……つまり君も、何かに別れを告げられないまま永遠の別れをしてしまって、その後悔で泣き暮れていたのだろう」
そこまで言い切ってお兄さんは深く溜息をついた。
ぐるぐるとお兄さんの言葉が頭を巡る。
私はとても大切な誰か、もしくは何かにお別れを言えないまま別れてしまった後悔で一週間泣き続けていて、そのままだと死んでしまったのでこの街に連れてこられたということ。そしてこのアパートには同じようにしてこの街に連れてこられた人が他にもいるということ。
私が思いの外冷静にこの事実を認識できたのはこの部屋が私の好きな白に満たされているからだろうか。目の前のお兄さんがとても心地良い声で話してくれたからだろうか。それとも、何かに蓋をしているのだろうか。
「もし一週間以内にさよならを出来なかった対象を思い出すことが出来れば、君はその対象と向き合う最後の機会が与えられる。思い出さなければ、ここで過ごしたこともその対象の存在も忘れたまま元の生活に戻ることになるだろう」
「忘れたまま?」
「そうだ。でなければ、また泣き続けて死んでしまうだろう?」
「勝手に忘れさせておいて、そんなの理不尽よ」
「俺に言われても、どうしようもないことだ」
お兄さんがほんの少し悲しそうに言うので、悪いことを言ってしまった気分になる。
「普通なら食事は各自でとってもらうが、君はまだ子どもだ。俺が用意しよう。この部屋とアパート内の設備は好きに使ってくれて構わない。ただし、俺のいない時には管理人室には入らないように。街に出たい場合は原則として管理人が同行しなければいけないので、必ず声をかけてくれ」
何か質問はあるか、と聞かれたがすぐには思いつかなかった。というよりも質問したいことばかりで何から聞いていいのかがわからなかったのだ。咄嗟に口から出た質問はありきたりで今更で、どこか場違いだった。
「ねえ、名前は?」
「それは君の?」
それは、記憶を無くしていても自分の名前は覚えているのかと聞いているように聞こえた。だから私はつい強がりを口にした。
「馬鹿にしないで、名前くらい覚えているわ。リイラ。リイラよ」
涙の跡だけ残して、私は自分の名前を答えた。
「そうか。俺はヒイラギという」
お兄さんは少し、いや、かなり嫌そうに自分の名前を言った。
「ようこそ、リイラ。真っ白で泣くことのない、さよならの街へ」