睨む金貨(三十と一夜の短篇第24回)
「まただ。また使えねえ」
おれはポケットに手を突っ込んだまま、市場を出た。なかなか趣味のいい短剣を見つけて、買おうとしたのだが、できなかったのだ。自分の小心さに嫌になる。でも、おれは女に睨まれると、蛇に睨まれた蛙みたいにどうしようもなくなるのだ。
「どんな買い物だったら、お気に召すんだ? あ?」
おれは一人つぶやく。いや、一人じゃない。おれは今、カネにつぶやいている。
それはどこか遠い国の女王の横顔が打ち出された大きな金貨だ。目の覚めるようないい女だ。一週間前、拾ったのだ、大通りで。こんな金、見たことがなかった。たぶん貴族や豪商が使うような金貨だ。カネとしては処女も同然だ。一度も改鋳されたことがないし、ひょっとすると使われたこともないかもしれない。
こいつに魂があることを知ったのは娼家でのことだった。拾ったあぶく銭だし、ぱあっと使っちまおうと思って、金貨を取り出すと娼婦がギャッとたまげる声を上げた。見たことのない大きな金貨を見て、たまげたと思ったのだが、見ると金が睨んでいた。真横に顔を向けたまま、目だけこっちに向けて、口はへの字にひん曲がっている。美人のひん曲がった口ほど恐怖を感じさせるものはない。美人にそんな顔をさせることはおれみたいな人間としては恐れ多いことだ。ほとほと嫌になる我がちんけな度胸。
それ以来、おれはこの金貨を使おうとしては恐ろしき美女の睨みに邪魔されて、すごすごと店の前から退却する日々を続けている。いきつけの酒場で一番高い酒を頼もうとしたら睨まれた。賭場ででっかく賭けようとしたら睨まれた。結構上の位の役人を買収しようとしたら睨まれた。
なんて気位の高いカネなんだ。カネならカネらしく持ち主に大人しく使われりゃいいのに。
おれはカネの使い道ばかり考えていて、もう何日もろくに寝ていない。使うどころか使われている気すらしてくる。
ふらふら歩いているうちに、おれは市の真ん中にある大きな広場にやってきた。何かの祭りでもあるのか、石で囲われた泉のまわりに屋台が並び、おれ以外のあらゆる人間が食いもんや飾りもんにカネを使っている。そのカネは小銭だったり、すり減った銀貨だったりするのだが、誰一人、カネに睨まれる心配をしているものはいない。
ああ、もうこのカネで買えるものなんて存在しないんじゃないか。だって、そうだろう? 打ち出された女王並みの気位を満足させるモノなんて思い浮かばない。
みんなが好き勝手にカネを使っているときにカネを使えないというのはなんてみじめなんだろう。カネが手元にないから使えないならともかく、あるのに使えないなんて馬鹿みたいだ。この祭りでおれが手に入れられるのは泉の水だけだ。
そこではっとした。おれはたったいま、この金貨の素晴らしい使い方を思いついたのだ。
おれは金貨を手のひらに乗せると、さりげなく泉のほうへ歩を進めた。カネは睨んでこない。
泉のまわりの石に腰かけても、カネは睨んでこない。
おれはちらりと泉のほうに目をやった。小さな銅貨が何枚も沈んでいる。
おれはいきなり金貨を握りしめると、それを力いっぱい泉に投げた。金貨は太陽の光をいっぱいに浴びてきらきら光りながら、泉のなかへポチャンと落ちた。
猿みたいな顔をしたガキがおれのすぐそばに寄ってきた。
「旦那、よっぽどの金持ちなんだね。あんな大きな金貨を泉に投げちまうなんて」
「拾いたきゃ拾え。おれはあれで買えるもっとも素晴らしいモノを手に入れたんだ」
ガキは最後まできいていなかった。泉のほうへざぶざぶ入り、金貨を拾いに行っている。他にもガキが何人か。いい歳こいた大人もいる。
せいぜい期待すりゃいいさ。おれはあのカネで安らぎを買った。もうどんなカネも使い道のことでおれを悩ませることはないのだ。