変わってしまった日々
戦闘は終わった。
戦争は終わっていない。
戦争が終わるには、政府同士が交渉して停戦協定を結び、また交渉して終戦を宣言しなければ終わったとは言えないのだから。
そして、一時停戦とは言っても外交上の交渉で決まった停戦ではなく、現場の指揮官が要求し話し合った結果の停戦でしかない。
それはつまり―――ポロト皇国はまだ戦争状態のままだった。
それでも―――兵器でありとあらゆるものを炎で焼き、破壊し、人が人を殺す戦闘は終わり。
侵略してきた帝国東方方面軍残党が残された航空輸送艦で去っていけば―――民間人の視点上では戦争が終わったように見えるのだから。
ランツフート帝国軍を追い返し、侵略が終わって一ヶ月が経過した。
国内から敵軍が居なくなったポロト皇国はすぐに《戦時国民動員法》を解除し、予備役や志願した人々は暮らしていた街へと戻って行って。
戦闘の被害が酷い北部地域を中心に戦後調査と復興作業が始まってから数週間とも言える時間だった。
一ヶ月。
それだけの時間があれば一週間の戦闘で―――その期間の背後で何があったのか。
誰が、どこで、何があったのか。
帝国軍が占領した街で何があったのか。
そこに住んでいた人達がどうなったのか。
戦場に向かった人間がどうなったのか。
戦闘に巻き込まれた民間人がどうなったのか。
それを知るには―――十分な程の時間だったと言えるでしょう。
口にするのも憚れるような現実が、そこにはあって。
その情報は人伝、あるいはマスメディアを通じて広まっていくには十分な時間だった。
壁に掛けられた、どこか懐かしい見た目の振り子時計が午後八時のチャイムを鳴らした。
鑑賞植物の鉢植えが飾られた焦げ茶の壁掛け棚とモルタルの白い壁と、焦げ茶色の木の床材が張られたどこかシックで古めかしい、広めの店内―――よく知った、そして私のバイト先である《喫茶バクシナ》の閉店時間を告げる合図だ。
その時間に相応しく―――店内で食事をする客はもういない。
テーブルを拭き終わった私は、布巾を手にして店内をもう一度見渡す。
いつか、爆風で割れたガラスは全て張り替えられている。
常連客に建築業の人がいたらしく、『美味い飯が食える店がないと困る』だのなんだの言って老人や公共施設の次に優先して修復したからだ。
その修理費用は―――私は詳しくは聞いていないけど、国の支援分もあるのでそこまで高くはついてないそうだけど。
「お疲れさん、シオン」
カウンターからやや赤っぽい茶色の髪を三つ編みにした筋骨隆々の大柄な女性が出てきて労いの言葉を口にした。
この店の主―――アンナだ。
「ええ、お疲れ様、アンナ」
私も労いの言葉を返して、手に持った布巾と支給されていた黒のエプロンを洗濯籠に放り込む。
今日の午後から使った布巾が収まったその籠をアンナは両手で持ち上げて、
「ああ、短い間だったが……お疲れさん。また、この店も静かになるねぇ……」
どこか寂しそうに言う。
この店から去る、という意味では私は二人目になる。
そう、私は今日でこの店での仕事を辞める。
理由は語るまでも無いでしょうけど―――リンクス《アルテミシア》のパイロットとしてポロト皇国に協力する事になった。
喫茶店の仕事とそれの掛け持ちは出来ないから、という簡単な理由だ。
―――流石に辞める理由に至る経緯というか、そもそも私がこの国に来た経緯が何だったのかを話す必要があったけど。
「アルバイトは増えてるでしょ。戦闘前よりも」
その私の一言に、アンナは相変わらず冷たいと言うか心が無いな、とため息混じりに苦言を言う。
「人員はな。―――事情は聞いたが、そうだとわかっても親しい人間が去ってくのは、残される側は思う事はあるぜ」
言外に説教された気がするけど、アンナは確かに寂し気な表情で手元の籠を見る。
布巾と黒のエプロンが入っているだけの籠だが―――いつかとは違い、今のそれは見知ったサイズのエプロンが一枚少ない。
その理由なんて、この店の人達や常連客はよく知っている。
「どっちがいいんだろうな。―――二度と会えないかもしれないという不確実さと、もう二度と会えないという確実な現実は」
「前者なら希望はあるわね。後者は受け入れるしかないけど」
「ホント、ドライよねシオンちゃんは」
女性にしては低い―――いえ、気持ち野太い声が割り込んで来た。
バックヤードから、ウェーヴの掛かったセミロングの金髪を靡かせて体格のいい人物が出て来た。
ラビノヴィチだ。
彼もどこか寂しそうに私を見て口を開く。
「もう少し、別れを惜しんでくれればいいのに」
「お涙頂戴なんて私の趣味ではないけど、これでも別れは惜しんでいるつもりよ。―――子供たちにココア淹れてあげることが出来なくなるし」
それに。
「メグミの死だって、私なりに惜しんでいるわ。―――もう少し、人として関わっていればよかったかもしれないって」
その一言に、アンナとラビノヴィチは表情を曇らせる。
そう―――この店を去ったもう一人はメグミだ。
店を去った、なんて誤解を与えるような言い方は、正確では無いし無意味でしょう。
彼女は皇国軍に志願して、一か月前の戦闘で死んだ。
この国のリンクス、《モリト》と呼ばれる一つ世代前の機体のパイロットとして配備された街で戦闘に遭い―――押しつぶされたコクピットの中で死んでいたという。
そんな状態のコクピットの中で―――顔が綺麗な状態だったのは残された彼女の家族や友人、隣人にとっては一つの救いだっただろうか。
顔さえ見れないような―――例えば、釘で密封されて中を覗き見ることさえ叶わないような遺体ではなかった事は。
「でも―――そうね。今となっては、思う事も紡ぐ言葉も何もかもが遅い」
事実を確認するように。
―――未だに途切れ途切れの、実感の沸かない記憶を思い返して、言う。
「存外、繰り返してしまうものね。進み続ける時間の中に取り残される側で後悔するのは」
バックヤードの奥の、ロッカー室。
個人経営の店の店員に制服なんて無いので更衣室ですらないそのロッカー室は店員やアルバイトの荷物置き場でしかない。
鞄と、黒のロングコートとつばの広い三角帽子を取りにきた私がまず目にしたのは、ある人物のロッカーを眺める、癖毛のくすんだ赤色の髪を持つ中性的な顔立ちの少年だった。
心ここに在らず、という言葉がそのまま当て嵌めれそうなほどに、ぼんやりと見ていた。
そのロッカーの名札には―――メグミの名前が未だに張られている。
彼女が残していった荷物はその中には無く、あったとしてもそのほとんどは遺体と一緒に荼毘に付せられているのだけれど。
それでも、それは彼女が確かに生きていた。
ここで働いていた証明だ。
―――いずれは、その名札は剥されるのだろうけど。
「お疲れ様、トゥール」
「―――え、あ、はい。お疲れ様です」
私のその言葉に、トゥールは一度びくりと体を震わせてから私の姿を見て、労いの言葉を言った。
そして、その視線はまたロッカーに向けられる。
―――彼も、ここ一ヶ月はそんな感じだ。
それもそうだろう。
この店の中でメグミと一番付き合いが長いのは、他でもない彼だ。
話を聞くに―――トゥールがここにやってきてからの近所付き合いがあって。
幼馴染みという相柄で。
私はあまり二人とは関わりを持たなかったとはいえど、日頃のメグミとトゥールのお互いの接し方からしても互いが互いをどう思っていたかは想像は出来る。
想像もしていないような別れで引き摺るなというのは―――心が無い発言ね。
そもそも、そんな発言を私がする立場ではないのだけれど。
彼の背後を通り抜けて、自分に宛がわれていたロッカーの扉を開ける。
メッセンジャーバッグを後ろのベンチに無造作に置いて、中に掛けられているロングコートを手に取って袖に腕を通して。
最後につばの広い三角帽子を手に取って。
「―――シオンさんは」
唐突に、トゥールから覇気のない声で名前を呼ばれた。
仕事以外で呼ばれたのはいつぶりかしら、なんて思いながらも、
「何かしら」
コートの内側に入った髪の毛を外に出して手櫛で整えながら返事を返す。
いつものように、素っ気ないとも冷たいとも評される口ぶりだろう。
「どうして、そんなに以前と変わらない振る舞いを続けれるんですか」
まるで―――どこか気に入らないような。
「メグミが死んだって聞いて、あっさりと受け入れて。周りの人間はそれで悲しんでるっていうのに、あなたは彼女が居ないのが当然かのように平然としてて―――何も思わないんですか?」
時折言われるように、心が無いと責めたいかのような口ぶりだった。
確かに―――メグミが死んだという話を聞いても、葬式の際も。
どこか無関心そうに、平然としていたのは私だけだ。
―――どうして、か。
問われてみると存外、どうしてそう振舞えるのだろうと不思議にさえ思えた。
途切れ途切れで実感のない記憶と、この国で目覚めてからの日々を思い返して―――それらしい理由は、
「遥かに遠い故郷で―――私の親しい隣人達と家族に等しい人達を守ろうとして、殺されて。想い人と只一人の家族の最後を失くした腕の中で看取れば、こうなるかもね」
そう言ってロッカーの扉を閉めて、扉の真ん中に刺さっている名札を抜き取る。
もうこれは不要なのだから―――あり続ける意味はない。
「その人達は、もう居ない。どうしたらよかったのかもわからない。まだ話したいことや伝えたいこともあったのに、それは叶わない。そんな気持ちを抱えて整理できないのに、また善悪問わず誰かに出会う。その中には私に再び同じ経験をさせたいのかって言いたくなるような―――私に好意を持つ人さえ現れる。立ち止まる時間が欲しいのに、そんな気を知れずに手を取って引っ張る人が」
これは―――後悔だろう。
絶望もあるかもしれないけれど―――これは、後悔だ。
「私はね。そんな後悔を抱えて、速すぎる時間の流れの中を生きているの。―――いえ、生きとし生けるもの全て、きっとそうよ。死んでしまった誰かへの感情を抱えて、生きている誰かと一緒に並んで、別れて。ただひたすらに歩き続けなければいけないと思ってるから」
―――これが答えだ。
少なくとも、途切れ途切れな記憶の中にあって、トゥールの問いに答えとなる決意はそれだ。
―――それが、彼にとっての糧になるのかは計れないが。
私の答えに、トゥールは視線を落とす。
ただただ無関心で居たように思ってたのか、その表情は自分を恥ずかしんでいるようにも見えた。
私の言い方が冷たく、突き放すような言い方なのできつく聞こえるかもしれないが―――私なりに人の死を惜しんでいるというのがわかったからだろう。
「……ごめんなさい。強く当たりすぎました」
素直に謝ってきた。
「わからなくもないわよ。激情一つで、その場にあったものに八つ当たりしたくなるもの。―――私の場合は、あなたよりもこの目で知人が死んでいくのを沢山見すぎて、感覚が麻痺してるから無関心そうに見えてしまってもおかしくはないし」
「……フォローのつもりですか」
「フォローのつもりよ。―――壊れた人間でも、知り合いの死は嫌だもの。嫌でも―――どうしても避けれない別れでもあるわ。それをどう飲み込んで行くかは―――あなた次第ね」
肩を竦めて言って、つばの広いの三角帽子を被って鞄の紐を肩に掛ける。
家に帰る準備は整った。
あとは別れの挨拶をして出ていくだけ。
「それでは―――色々とお世話になったわ。―――縁が遭ったらどこかで会いましょう」
自分なりに別れの言葉を言って、歩き出す。
再びトゥールの後ろを通り抜けて、バックヤードへ出ようとして。
「シオンさん」
呼び止められた。
振り返るとトゥールがベンチから立ち上がっていて、こちらにその精悍な双眸を向けている。
「お元気で」
「トゥールもね」
「はい―――いえ」
意外な、否定の言葉。
「『トゥール』というのは、偽名です。本当はイサーク―――『イサーク・マラートヴィチ・アルスキー』と言います」
どこか悪びれるように、トゥール―――いえ、イサークは言った。
「帝国で戦争で滅んだ王国の、王子なんです。探されないように、そして逃亡先で混乱を生まない為にずっと偽名で」
曰く―――アンナとラビノヴィチはポロト皇国までの逃避行の中で唯一生き残った臣下だという。
血のつながりのある家族ではないし二人の体格と、いつか見せたラビノヴィチの格闘術から親戚云々ではないとわかっていたけれど。
「実は王族でした、なんて誰も想像しないわよ」
「二人の努力の結果ですよ。臣下らしく畏まっているとわたしが普遍的な身分の人ではないって勘ぐられますから」
「そうだけど。どうして、今になって本名を?」
「知っていて欲しいと、思ったんです。……メグミには、教えず終いでしたから」
そう言ってイサークは表情を曇らせる。
事情があったとはいえ―――親しかった人物にすら本当の名前を言えないの辛さは、私に想像しきれない。
私も似たようなものだけど―――チハヤという名前は、まだ自覚しにくい。
その事を言うか、言わないかで少し悩んで、
「………そう」
結局、言わない事を選んだ。
私の普段通りに近い素っ気なさに彼は苦笑する。
「相変わらず、あなたは素っ気ないですね」
他の反応が欲しかったらしい。
「期待に応えられなくてごめんなさいね」
「いえ、期待はしてないですよ。むしろ、いつも通りな反応を待っていたのかも」
そう言い合って、私は咳払いを一つした。
「それじゃあ。お元気で、イサーク殿下」
「はい。そちらこそお元気でシオンさん」
別れの言葉を口にして、今度こそ私はロッカー室を出る。
イサークが続いて来たのは見送る為だろう。
そのままバックヤードを抜けて、カウンターと出て。
「そういう事だ」
カウンターで明日の仕込みをしているアンナがそう言った。
どうやらイサークと私の会話を聞いていたらしい。
「あたし個人としちゃあ、話して欲しくはなかったけどね。だが、殿下の考えだし―――まあ、それでいいさ」
その口ぶりは納得はしているようで、ちょっと物申したそうだ。
今度は壁にもたれていたラビノヴィチが口を開く。
「全然見抜けなかったでしょ?」
ウィンクしてどこか勝ち誇ったかのように訊いてきた。
彼女は―――男だけど―――アンナとは違って納得しているような素振りだ。
「見抜く―――というよりは想像も出来なかったが正解ね。二人の体格や肉付きから元兵士とは思ってたけど、その連れの子が王子様なんて想像しきれないわ」
ラビノヴィチの言葉を修正するように返す。
もっと言うなら―――探る気もなかった。
「所詮は敗残兵よ―――王族の直衛だけどね」
自虐するようにラビノヴィチは肩を竦める。
隠していた事を話すということは、イサークが話したからそれに合わせてでしょうね。
メグミに話せなかったから―――せめて、半年でも関わった人ぐらいには。
「いろいろ、お世話になったわ」
扉の前に立って再び、礼の言葉を口にした。
「それはこっちのセリフだぜ。レシピを教えて、置いてくなんて半年ちょっとの店員の置き土産にしては豪華すぎんぞ」
「客やアルバイトが増えたのもシオンちゃんが居たからっていうのもあるけどねぇ……。貢献しすぎじゃない?」
お礼というか憎まれ口というか。
感謝とお人好しに対する注意をない交ぜにしてアンナとラビノヴィチが言って、
「二人とも。感謝の言葉を言おうよ。お別れなんだからさ」
二人を窘めるようにイサークが言う。
その様は―――確かに、二人の主らしさがそこにはあった。
「私がやりたいようにやっただけよ。心配はなくていいわ」
その素っ気ない一言に、三人とも同時に呆れからか溜息を吐く。
少しは別れを惜しめと思われていそうだ。
「また、機会があったら店に寄って下さい。その時は歓迎しますよ」
気を取り直すようにイサークが言う。
「ええ、その時はね」
イサークの言葉に頷いて―――私はドアに手を掛ける。
ドアを開けて―――ドアベルが鳴る。
「それじゃあ、お元気で」
そう、私は別れの言葉を述べて、
「おう、元気でな」
「元気でねシオンちゃん」
「はい。お元気で」
三人の別れの言葉を聞いて―――私は店の外に出た。
喫茶店の敷地を出て、一度店に視線を向ける。
月明かりと街灯の明かりで辛うじてわかる程度に―――爆風の煽りを受けて少し汚れて、修理で所々新しい外装の店は、ここの住民の内心を表すかのようにどことなくもの寂しげに見えた。
アンナや、ラビノヴィチ。
イサークが彼女の死を経て、彼が何を考え、何を選び、何を為すのか。
それは―――私が見届ける事はないだろう。
彼らがこれから前に進み出す事を―――身勝手に祈るしかない。
「厄介に、お世話になりました」
誰に言うまでもなく―――店に向けて一度お辞儀して、駅の方角へ向かって歩き出す。
帰って―――あの家の住民たちと遅い夕食と洒落こもう。
そうする余裕は―――今はあるはずなのだから。




