夕焼けの空の中で
空に上がって、三時間ほど。
わたしや、アリア・シェーンフィルダーと名乗る女性やその護衛を乗せた飛行機は、夕焼けの空を飛んでいた。
わたしは機首から見て右―――西の空がよく見える席に座って、沈んでいく日を眺めている。
向かいの席―――正確には私が座る座席を反転させているのだけれど―――には、服の上からもわかるほどに華奢な体躯の女性がいる。
アッシュブロンドの髪をセミロングに揃えた、見る人に儚げな印象を持たせる色白で人形かのように整った顔立ちの女性―――《ストラスール国》の王女が一人、アリア・シェーンフィルダーが毛布に包まってスヤスヤと寝息を立てている。
見聞きした範囲では、連絡を寄越さずに基地へ訪問するぐらいには身勝手な行動をするお転婆な面もあるが、物静かで穏やかな人物というのが第一印象。
とても、戦争を推し進めるような強硬派には見えない。
あの基地にいた、並行世界の私の兄が言うには、この人は私達とはまた並行世界から来て、今は亡きシスターの教え子だという。
その証拠に、私達が送った写真入りのロケットと二人分のロザリオを見せて貰っているのでそこは信じてはいるけれど。
だからといって―――無防備なものだ。
いくら私がチハヤユウキの妹で、シスター―――フランチェスカ・フィオラヴァンティの教え子の一人だからって、元は帝国の関係者。
ようするにわたしは陣営的に敵で主要人物の暗殺が目的で来たのかもしれないのに、無警戒にもほどがある。
護衛の方がちゃんと見張っているからいいかもしれないが、ここぞという時は自分しか頼れないというのに。
気楽なものだ。
そう思いつつ、視線を窓の外に向ける。
―――空は何色か。
そんな質問が、頭を過る。
そんな問いがあったとして、多くの人は何色と答えるのだろう。
青か、水色か。
少なくとも、薄い青系の色を空の色として答えるだろう。
わたしも、あの淡い青が空の色だと答えるだろう。
でもそれは普遍的な解答でしかない。
『兄』ならば、夜明けの空。
太陽が大地を照らし始める前の五分から十分の、夜のダークブルーが東から赤く染まりだすあの時間のオレンジ色の空の事をいうのだろう。
それも空が見せる色なのだから、それを空の色と言っても何もおかしな話ではない。
でも今、わたしが見てるのは夕日で。
夕焼けの赤い空を見ている。
『兄』が好んだ空とは真逆の時間が見せる、赤い空だ。
「雲の上から見る夕焼けはいかがですか?」
わたしの向かいの座席から、流暢なフロムクェル語で呼びかけられる。
そちらへ視線を向けるとアリアが起きていて、穏やかな眼差しで私を見ていた。
昨日と変わらない銀の装飾が施された青いジャケットと白のブラウスにスカートを着ている。
そして、その首からは見覚えのある二つのロザリオと一つの銀のロケットがぶら下がっている。
機内に入ってから服の下にあったそれを出したあたり、肌身離さず持ち歩いているのだろう。
隣に置いたスケッチブックを手にとって。
もう、これもひつようないか。
騙り続ける必要は、もう無いし。
「……しんせん。こんどは、じぶんがそうじゅうする《フェンリル》でみたいね」
フロムクェル語で、そう答える。
わたしが喋ったことに驚いたのか、アリアは目を丸くする。
それはきっとシスターから私の人となりを聞いていて、喋ることはほとんどなくて喋っても家族以外とは口を利かないだろうと思ってたからだろう。
事実、そうだったけれど。
「ごねんも、あのひとたちぬきにいきていればわたしだってかわる。なにも、おかしいことはない」
―――帝国で、エルネスティーネやナツメ、マルゴットと会わなければ、今喋ってないだろう。
あの人に会わなければ、私は根っこから変われなかったろう。
だから、変われたと言い張る。
「……それもそうですね」
どこか嬉しそうに、アリアは頷いて、窓の外へ視線を向ける。
ちょうど、日の入りの間際。
太陽が地平線の向こうに沈むところだ。
それを黙って眺める。
ゆっくりと、確実に太陽の丸い円は下から地平線に隠れていく。
そして、見えなくなった。
代わりに、西の空は赤いまま。
波打つ雲は鮮やかなオレンジと白のグラデーションで色づいている。
そのまま赤い色は薄暗くなっていき、そう長い時を経ずに夜の空に変わる。
今は飛行機の屋根で見えないが、きっと真上は満天の星空なのだろう。
―――今度 《フェンリル》でこの高さまで来て、見てみようか。
そんな、出来るかやらせて貰えるかわからない事を考えていると。
「―――頃合いですかね」
そう、アリアは口を開く。
そして姿勢を正して表情を引き締めて、わたしを見据える。
それだけで雰囲気がガラリと変わったように感じたのは、彼女が生来的に持つナニカなのだろうか。
少し、気圧される。
そんな私に、アリアは。
「―――あなたは、何が目的でここに来ましたか? あのチハヤさんの妹ではないコトネさん?」
―――まるで道を尋ねるような気楽さで聞いてきた。
さすがに驚く―――というほどでもない。
この人がわたしとあの人とは別の並行世界の、シスターの教え子だというのなら。
シスターが、わたしたちの事を彼女に話していたというのなら。
そして、私より先にチハヤと出会って話しているなら。
チハヤが黙っていたとしても、彼の妹がすでに死んでいると気づいていても、何もおかしい事はない。
「どこできづいた?」
否定しないで聞き返す。
その答えは解るけれど。
「―――やっぱり。あなたは彼とは別の世界で、あなたが生き残った側なのですね?」
答えは返ってこなかったが、確信していたのだろう事をまた尋ねられる。
「おおあたり。―――それで?」
もう一度促す。
「あなたと会ったその時から」
すると、ようやく答えてくれた。
「―――シスターから、チハヤさんとコトネさんの人となりは聞いてますから。チハヤさんは、唯一の家族で妹であるコトネの事をとても大事に思っていたと。―――そんなお兄さんが、《黒い球体》に妹と心中するとは思えません」
どうやらシスターはとことんなまでにわたしたちの事を語っていたらしい。
―――確かにそうだ。
あの人は、そんなことはしないだろう。
たった一人にならない限り。
「……でも、あのチハヤさんはこの世界にいる。《黒い球体》に飛び込んでいる。―――それはつままり、彼の妹のコトネは死んだと見ていいでしょう」
アリアが語っていく推測は、驚くほどに正確だった。
事実と言っていいほどに、正確だ。
わたしが向こうで聞いた話と一致している。
「そんなあの人が、並行世界の妹を見つけて、自分の妹として扱うでしょうか? ―――答えはきっと『いいえ』でしょう。そこまで心が壊れてる訳でもないのですから。なら、あなたは彼にとって並行世界から来た、その時死んでいないコトネでしょう」
「せいかい」
その結論にわたしは肯定する。
「そして、あなたがこっちに来たのは帝国の政治的な思惑でしょう? あなたの本当のお兄さんが死んでいるなら、彼の妹に成り代わってこっちに来るかもしれませんけれど、あのチハヤさんがそれまで許容するとは思えません」
その推察、テストなら満点をあげたいものだ。
わたしは教師ではないけれど。
「あと一つだけ、確信した理由を言いましょうか?」
アリアはどこか悪戯っぽく口元を緩ませて言った。
無言で頷くと、彼女の表情はどこか楽し気なものに変わった。
「自然すぎたんです、あなたたちの兄妹としての振る舞いが。私が聞いていたことと同じ事が、自然に行われていた。お互いそれなりの月日、年月のはずなのにいつもそうしてたような振る舞いだった。―――もし、本当の兄妹だったとしたら空白の時間で生じるはずのズレがあってもおかしくないのに、あなたたちにはそれがほとんど無かったんです」
これらの事から、あなたたちは本当の兄妹ではなく別々の世界で生き残った同士だと確信した、とアリアは言った。
あまりにもピンポイントで正確で、何も言うことがない。
手を叩いて称賛してもいい。
やらないけど。
でも、一つだけ言わせて貰おう。
「ハンバーグのときは、すべてわたしのほんしんだから。あそこには、えんぎはひとつもない」
あのハンバーグの味は、素材の違いという細かな味以外は全てあの人の味だったのだから。
もう二度と口にすることはなかっただろう、あの人のハンバーグ。
それを再び味わえるなんて奇跡。
演技抜きに涙するしかないだろう。
それだけは、演技じゃない。
「ええ、そうでしょうね。その時だけは、違いましたから。そこだけは、わかってますよ」
アリアは優しい顔で頷く。
そこはわかっていたらしい。
沈黙。
ジェット機のジェット音だけが、機内に響く。
何秒か、何十秒か。
あるいは、数分ほどしてから。
「それで、あなたの目的ですけど」
沈黙を破ったのはアリアで、本題だった。
「それ、ここでここでしていいの?」
まずはそれを尋ねる。
聞かれては不味い話の方が多いのだから当然だ。
「安心してください。護衛から機長、副操縦士まで。全員スパイの心配のない、私の同胞です。ここでの会話はみんな口を噤んでくれますよ」
その質問に、彼女はあっさりと答える。
口ぶりや表情からして嘘ではないようだ。
シスターの関係者が、そんなことをするわけはないだろう。
あの人の目は、確かなのだから。
なんとなく右の座席列を見ると、座っているハンサムな男は得意顔で右の親指を立てている。どうでもいい。
視線をアリアに戻す。
「……きゅうせんのためのこうしょうまどぐちさがしと、そのかくほ」
大雑把な、されど単刀直入。
「いまのこうていや、いちぶのせいじかはこのまませんそうがつづけばしゅうまつせんそうになりかねない、とよそうしてる。そのかいひのためのこうしょうがしたい。……それがもくてきだけど」
わたしがここに来た理由を言う。
「………」
これを聞いたアリアは、表情を微笑のまま固まった。
意外だったろうか。
それとも、無警戒に言い過ぎたか。
「……それ、あっさり暴露します? それに、私が戦争を止めようとか終わらせようとか考える人とは限りませんよ?」
比較的すぐに、再起動したらしいアリアがどこか困った顔で言う。
「わかってていってる。……あなたがシスターのおしえごなら、わたしはかくすりゆうがない」
それに。
「シスターのひとをみるめはたしかなのを、わたしはしってる。そして、わたしもひとをみるめはあると、じふしてる。……あなたは、すくなくともせんそうをおしすすめようというふんいきは、ない。でも、ひよりみしゅぎではない」
困った笑顔を見せたから言ったんだと、締め括る。
「困った笑顔、ですか」
「うん。しゅせんはだとかきょうこうはだとかなら、こちらをだしぬくべくこうげきてきなえがおをかくすように、ふてきなえみをみせるだろうに、あなたはそんなひょうじょうをしなかった」
それを聞いたアリアは固まって。
そして。
「ふふふ…。シスターはいい人に恵まれていて、よい縁を繋いで来たんですね……」
アリアは視線を落として、どこか遠い目で呟くように言う。
それは何かを思い出しているように見える。
彼女が、シスターとどう一緒に居たのか、一昨日と昨日としか聞いていないが。
それでも、シスターは彼女を支えたのだというのは分かる。
「その慧眼、鋭いですね」
次に来たのは誉め言葉。
それは、わたしの観察眼は間違っていないという証拠だ。
「私、兄弟姉妹と喧嘩なんてしたくないのだけれど―――いわゆる、穏健派とか保守派とか。ストラスール内ではそういう派閥側です」
ストラスールの政界は大きく三つに分けれますし、なんて彼女は言う。
国家も組織も、一枚岩といかないのはどこでも一緒らしい。
「では、どうして《ストラスール》を亡命先に、交渉相手に選んだのですか?」
「《こうしょうかん》できゅうせんしようとすると《クナモリアル》にもんぜんばらいをうける。れんごうにおくったこうさくいんは《クナモリアル》と《ソルノープル》のちょうほうにとらえられる。―――《ストラスール》をのぞいて」
その質問に、わたしは聞かされてきた事実を素直に答える。
「……こちらが掴んでいる《クナモリアル》が帝国の交渉団を追い返した、という情報と一致しますね。そして、我が国に潜り込んできた人たちはやはり帝国の工作員でしたか。変に動きがないと思ったら、休戦交渉が目的、と」
彼女は長く疑問に思っていたのが解決したかのような納得の表情でなるほどなるほど、と何度も頷く。
―――どうやら、こっちの動向も相手はある程度知っているらしい。
それに、工作員の存在まで把握してるときた。
なら話は早いか、と次の理由を答えるべく口を開く。
「そして、いまはどうじんえいとはいえ《ストラスール》は、むかしは《クナモリアル》とせんそうしてた。《クナモリアル》とはどこまでもあしなみをそろえないだろう、とうえがはんだんしてのせんたく」
「帝国も、なかなかにこちらを調べて分析しているようで。……そうですよ。連合自体はともかく、《クナモリアル》や《ソルノープル法国》を快く思わない勢力は少なからず存在しますから」
でなければ両国の諜報員や工作員を拘束したりしませんよ、とアリアは言う。
だからか、とわたしは思った。
聞いていた話の、《ストラスール》に送った工作員だけ無事というのは、これが理由だったらしい。
―――帝国が交渉で動く事を予想していたようで。
先見の明というのか、鋭いな、この人は。
もしかしなくてもこの人物はかなりの大物だろう。
シスターは、とんでもない人物に出会って、色々教えたようだ。
いや、色々教えた結果だろうか。
それはわからなくとも。
「この戦争を終末戦争にしたくないのは、こちらの穏健派も同じですので。―――いいでしょう。帰ったらさっそくそちらの工作員と接触しましょうか。―――改めまして、よろしくお願いします、コトネさん」
アリアはそう言って右手を差し出して握手を求めてきた。
この人はシスターの教え子なのだから、信用出来るのは間違いない。
わたしはその手を迷うことなく握り返す。
「よろしくおねがいします」
そう言う。
話し合いをしなければ何も変わらないのだから。
まずは、渡すべき資料があるからと四角い旅行鞄を手に取った。




