脱走と計画
翌日。
私が帝国軍の捕虜になって四日目。
朝食からしばらくした頃。
外の天気は、どちらかと言えば晴れ。
疎らに、そして低いところに浮かぶ白い雲が空の青を所々隠している。
「ここに、あなたを呼ぶのは初めてね」
私は、私の名前を名乗っていた少女―――コトネと共にエルネスティーネ・クライネルト少将の執務室に来ていました。
壁に近いところに頑丈そうな机があって、その背後の壁には旗を持った獅子の絵―――『クライネルト家』の家紋だという紋章が掲げられています。
日の当たりのいい南の窓際には観葉植物の鉢植えが五つほど並んでいて、青々と繁っている。
反対の壁には本棚が三つと、キャビネットが並んでいる。
キャビネットの上にはレコードが置かれていますが、針はレコード盤から外されていて音を奏でてはいません。
この執務室には、たった三人しかいませんでした。
私とコトネと。
部屋の主たるエルネスティーネ少将の三人のみです。
他の人は人払い済み。
監視役のアンディ准尉は部屋の外―――もとい、オリエンテーションルームなる場所で暇潰しするようにと追い払われてます。
あとは、ヨナタン大佐が扉の前で門前払い役をやっているぐらいでしょうか。
何も気にする事なく、話をすることが出来る状況といったところ。
「その子から、全て聞いたわ」
椅子に座って、机に両肘をつきながら長い黒髪の妙齢の女性―――エルネスティーネ少将は口を開きました。
全て、とはコトネがずっと黙っていた事でしょう。
死んだ『兄』の名前を名乗っていたこと。
それをやめて、これからは本来の名前である『コトネ』を名乗って生きていくこと。
そして私が彼女の弟ではなく、彼女の死んだ『兄』の、並行世界の同一存在であること。
それを、昨晩の内に話したのでしょう。
「その子にとって、あなたは弟ではなくて―――その子の死んだ『兄』の、並行世界の同一人物だとか」
蕩けるような声音で言うエルネスティーネ少将。
その赤みを帯びた瞳は真っ直ぐ私を見ています。
「ええ、そうですよ。この人―――コトネにとって、私は彼女の『兄』ではありません。私の本来の妹は死んでいます」
ここでは、もう広まった事実ですのですんなりと肯定します。
「……そう……」
どこか物寂しそうにエルネスティーネ少将は声を漏らします。
その様子にそういえばとある事を思い出します。
コトネの母親代わりのような振る舞いをする、という話。
それがどういった経緯で、なのかは知りませんが。
「……エルネスティーネ。きのうもはなしたけど、わたしはあなたのしんだむすめのかわりになれないし、ならない」
コトネはエルネスティーネ少将の様子を気にしないで躊躇いなく淡々と、抑揚のない口調で言い放ちました。
その言葉の内容に、コトネとエルネスティーネ少将の関係―――もとい二人の過去の一旦が垣間見えます。
死んだ娘、ですか。
エルネスティーネ少将の年齢はとてもお若く見えますが、実年齢を私は知りません。
高級将校なあたり相応の年であってもおかしくはありませんが、それと同じく既婚者であってもおかしい話ではありません。
「あるいは、こういったほうがいい? ―――『わたしにあわせて、いつまでせいしんをやんだふりをしている?』」
―――精神を病んだふり?
そのコトネの一言に、私は少し疑問に思います。
とても、そうとは思えなかったからです。
まあ、そんな彼女の一面を私は見てないのでわからないのですが。
「―――あなたは賢しいわね。どこでそれに気づいたのかしら?」
エルネスティーネ少将は一言吐いてから、どこか気楽そうに尋ねました。
「あなたとあって、すうかげつぐらいから。あなたはしんだむすめのなまえでわたしをよばなかった。―――そもそも、リーゼロッテとわたしをこんごうしておいて、ようしにならないかきくなんておかしい」
「……ふふふ。バレていたのね」
どこか愉快そうに彼女は静かに笑います。
ちょっと私は置いてけぼりです。
「―――でも、最愛の夫と娘を亡くして心神喪失だったのは本当よ?
でも、年のせいかすぐに気づいてしまうのね……。この子はあの子の代わりではない、って」
「…………」
「あなたも、そうでしょう? それが自分にも当て嵌まっていて、気づいていて、踏み出せずにいた」
「…………」
その問いかけにコトネは沈黙を貫きます。
誰よりもその事をわかっているからでしょう。
「あなたの言う通り、そんな演技はもう必要ないわね」
「うん。もう、わたしたちにはそんなのはひつようない。いつまでも、このじかんをとめつづけるわけにはいかない」
その言葉にコトネは肯定して。
「でも―――」
「…………?」
「わたしには、おにいやしすたーや―――こじいんのみんないがいのかぞくはいないし、わたしたちをかぞくとしてひきとろうとしたひとはいない。―――そんなわたしをかぞくとしてむかえようとしてくれたこと。それがえんぎでかりそめだったとしても、わたしはかんしゃしてる」
そう続けました。
―――確かに、私たちに養子縁組の話はありませんでした。
いつも笑顔で女性のフリをする私と無表情で無口で目つきの悪いコトネという兄妹はなかなかに奇特だったのと、二人揃って迎えるのは経済的に優しくはないという―――まあ、仕方ないことなのですけれど。
あの子からすれば母親の事はほとんど知らず、父親に限っては私達を殺しにきた悪漢でしかなく。
そんな過去を持つコトネは、きっと『親』という存在がわからなくて。
でも、目の前にいるエルネスティーネ・クライネルトという人はそんな彼女を『家族』として迎えようとしたのでしょう。
どんな過去からの経緯であれ。
突然の感謝に、エルネスティーネ少将は目を丸くします。
「―――そう。―――娘に、なる?」
どこか振り切れたような素振りでエルネスティーネ少将は言って、両肘を机についてコトネを見据えます。
「わたしと、このひとをよんだりゆうをきいてから」
「―――まずはそれね」
そう促すコトネの言葉にエルネスティーネ少将はどこか仕方なさそうに頷いて、今度は私に視線を向けます。
「さて、あなたがチハヤ―――だったわね?」
まずは私の本名の確認でした。
「はい」
「あなたはその子と同じ世界の『兄』ではないでしょうけど―――あなたにとって並行世界の存在であるその子と同じ国で暮らすことは考えない?」
一昨日聞いた勧誘とは少し違うけれど、近い趣旨の話。
その答えなんて、もう決まってるというのに。
「考えません。そんな、現実から目を逸らすようなこと、もう出来ませんよ。それに―――私にも、向こうで築き上げた人間関係というものがあります。親しき隣人や友人を裏切るなんて、できません」
一昨日、その場で答えたように答えます。
「―――そう。それは、残念ね」
まるで私がそう言うのがわかっていたかのように。
そう言うほど残念ではなさそうにエルネスティーネ少将は頷きました。
そして、次の言葉に驚かされます。
「―――じゃあ、鞍替えではなくて私たち穏健派に協力してくれないかしら?」
「……はい?」
穏健派? 協力?
聞きなれない言葉を私は耳にしました。
「裏切りでも、スパイでもないわ。―――その子。コトネを愛機の《フェンリル》ごと亡命させてほしいの。あなたが向こうに帰るついでに」
突然、何を言い出しているのでしょうか。
いきなり何を、と言おうとして。
「せいじのはなし?」
コトネが口を開いて、そう尋ねました。
まず、自分が亡命する事を尋ねるべきではなく? とは思いますけど。
しかし、政治の話、ですか。
私にはあまり関係のない、少しは興味を持てと小言を言われる話題です。
「そうよ。まずこちらの情勢と思惑について簡単に話しましょうか?」
エルネスティーネ少将はそう切り出しました。
ランツフート帝国内部は、決して一枚岩ではなく《主戦派》《穏健派》、日和見主義の《中立派》の三つの勢力に分かれていること。
現皇帝はとある異世界人がいた世界の話を聞いており、今の科学力や技術力、工業力で戦争を継続すれば最悪国家や秩序の崩壊が訪れる『終末戦争』に成りかねない、と考えていること。
それ故にどちらかといえば終戦を望んでいること。
エルネスティーネ少将は穏健派であり、休戦に繋がる糸口を模索していることを私とコトネに打ち明けました。
「それでしたら特使の一つや二つ送りあえば……」
「実際、表立ってそう動いてるのよ? でも―――」
曰く、門前払いに遭って交渉すらできないそうです。
《ノーシアフォール条約》で取り決めた中立地帯の施設、交渉の窓口である《交渉館》で追い払われる、と。
そうなると休戦。ひいては終戦に向けた交渉ができないというものです。
「そこで―――。独自の別ルートで窓口を用意しましょう、と考えたの」
機密故に詳細は話せないけど、と断りを入れてエルネスティーネ少将は説明を続けます。
《交渉館》なる施設の運営は帝国、連合双方の人員が出すことになっていますが連合側の人員はオルレアン連合第一位国 《クナモリアル》の出身者が占めており、実質 《クナモリアル》の直轄になっていて、連合本部に話が通せない。
そこで他の国と交渉すべく、どの国がいいのかを調査して。
「オルレアン連合技術研究所―――正確には、その主なスポンサーで《クナモリアル》とは戦争の歴史もある《ストラスール》と交渉しよう、と考えているの」
「………」
その思惑、上手く行くのでしょうか?
そんな疑問が頭の中を過りますが、エルネスティーネ少将はお構いなしに話を進めていきます。
「現状、なんとかストラスール国内に工作員を入れる事はできたけど、政界への交渉ルートができないの」
《ストラスール》以外にも工作員を送り込んだものの彼らは姿を消してしまい、連絡は取れずじまい。
なんとかして調べた結果、行った先がどの国であれ工作員は《クナモリアル》と《ソルノープル法国》の諜報機関に捕らえられたとだけしかわからないという。
結果として《ストラスール》しか窓口を用意出来なかった。
たった一つだけ残された部隊であり、敢えて残されたと分析しているとエルネスティーネ少将は言います。
しかし、苦労して用意した窓口なのは事実であり、ここから政界や軍部に接触しなければ潜り込ませた意味がありません。
虎穴にいらんずば虎児を得ず、と言いますか。
「そこで。コトネという帝国軍最強のリンクスパイロットを専用機を手土産に亡命。帝国からの亡命者はそちらでは珍しいでしょう? その立場を利用して接触してくる人達から休戦を考えている人物を探して、《ストラスール》の軍部や政界に私達の存在をひっそりと教えて《ストラスール》側からこちらに接触してもらう、という算段」
大雑把な説明だけど、とエルネスティーネ少将は付け加えました。
―――脱走に協力が得られるとは。
どう脱走しようか、なんて考えていた私としては渡りに船な計画であります、けど。
「んなはなしきいたことない」
言葉に感情は込もっていませんが、不機嫌そのものな態度で言い放つコトネ。
それもそうでしょう。
いきなり亡命して休戦派講和派を探せと言われたのですから。
「それは当然よ。ほとんど水面下で動いてたことなのだから。あとはどう政界や軍上層部と接触するかだけ」
実の兄ではないとはいえ、並行世界の同一人物が連合側にいるのならそれを利用しない手はないとエルネスティーネ少将は言います。
「簡単に言いますけど……」
「博打もいいところね」
言いたかった苦言を先に言われてしまいました。
どうやら、エルネスティーネ少将も博打だと思っているようです。
「ここまで提案してなんだけれど―――あなたが同僚や隣人に『妹は死んでいる』って話してない?」
そう言われて、どうでしょうと天井を見上げます。
昨日までは私の妹の死に思うことがずっとあって、存在は教えていてもほとんど濁してきたと思っています。
―――ほとんどの人は、私の妹の生死はわからないと認識していると思っていいでしょう。
直接教えたのはHALだけのはずですが―――。
「……あ」
そこまで記憶を振り返って、ある人物を思い出します。
HALだけではありません
私の妹の死に気付いている、あるいは勘づいているだろう人物が一人います。
そして、その人がいつ来るのか。
執務室を見渡して、カレンダーを探して。
「………これは所謂、好都合、というやつですかね……?」
今日が何日の何曜日か。
その日がいつかなのかを確認して、私は呟きます。
―――ストラスールの王族、アルペジオの腹違いの姉、アリアさん。
私たちの恩人の一人、シスター―――フランチェスカ・フィオラヴァンティ―――私たちの世界とは違う並行世界の同一人物の教え子。
政治面でどんな立ち位置かはわかりかねますが、独自に極秘情報を仕入れたりするようなお人です。
あの人ならばきっと私の妹の死に気づいているでしょう。
その人物の存在とその人となり。
シスターとの関係性。
いつ基地に慰問に来るのか、という話を私は二人へ話します。
そして、その人が基地に来訪するのは今度の月曜日―――今日は火曜日だから、あと六日後に来ることを教えました。
「……これ、表向きには私は知らないお話なんですけどね?」
そう、頬に片手を当てて言いました。
「……くちがすべったとしかいえない」
相変わらず無表情で淡白ですが、呆れたようにコトネが言って。
「それはこちらにとってはある意味嬉しい情報だけど、そのアリア・シェーンフィルダー姫……信用出来るの?」
エルネスティーネ少将の疑問。
それは当然というもので、アリアさんが政治に関わっているのかどうか怪しく、どこの派閥に属しているのかもわかりません。
―――ですが。
「このせかいにきたべつせかいのシスターのおしえごなのはかくじつ?」
「私たちが渡したロケットと私たちのロザリオ二つ持ってましたし、アリアさんの口から出てくるあの人の話は間違いなくシスターです。そこは信じていいですね」
「―――それなら、だいじょうぶか」
至極あっさりとコトネは納得しますが。
「れんごうは、うさんくさい。あなたはそれをわかってて、むこうにもどる?」
そう続けました。
それはエルネスティーネ少将が言っていたことを確認するかのような物言いでした。
「はい。あそこには、私の友人や隣人がいますから」
「かげでなにがうごめいているのかみえないそしきのなかより、こっちのほうがあんぜんかもしれないのに?」
「だからといって見て見ぬふりは出来ませんし見捨てれません」
「あなたは、だれもまもれなかったのに?」
その言葉は―――私にはとてもつらい事実で。言葉で。
「そう、ですね。―――私は、あなたやシスター。みんなを守れなかった」
私は、その指摘を肯定します。
それは事実で、間違えようはない。
たった一人にならなければここには来ていなくて。
「そうでも……。だからといって、何もしないで逃げる理由にはなりませんよ。―――この世界で築いた人間関係とその日常は間違いなく、私の大切なものなのですから」
それを聞いたコトネはじっと私を見て。
「あなたなら、そういいきるとしんじてた。さすがはわたしのおにい」
向こうへ帰る、という私の言葉に納得したようにコトネは言いました。
その表情は何かを決めたかのような締まった表情です。
そして視線を、どこか困惑した様子のエルネスティーネ少将へ向けて、
「そのやくめ、わたしがやる」
そう彼女は言い放ちました。
「アリアっていうひとがシスターのかんけいしゃなら、わたしがいい。あのひとのおしえごなら、だいじょうぶ。あのひとのみるめはたしかだから、そのおしえごもしんようできる。―――もう、このよにいないのは、ざんねんだけど」
それに、とコトネは続けます。
「そもそも、あなたのいうけいかくはばくち。―――すこしでもあてになるなら、それをりようするべき」
そう言うコトネの表情はどこか自身あり気です。
私たち兄妹の恩人の一人で、一番向き合ってくれたのがシスターで。
世界は違えど同じシスターの教え子ならば、それだけで信用に足る。
―――と、コトネは判断したのでしょう。
私もそう信じてますが。
「コトネ? アリア殿下に接触するとなるとあなたが亡命する理由がないと思いますけど?」
ここまで来てなんですけれども、それならプランBという感じで私に工作員の情報を伝えるなり資料を渡すなりして、それをアリア殿下に渡せばいいのですから。
そういう私にエルネスティーネ少将が口を挟みます。
「コトネの亡命には、失敗した場合の工作員の救出と脱走もやってもらうことも想定してる。その子と《フェンリル》は外せない。―――あくまで、コトネが了承してくれればだけど」
「……そうですか」
そういう計画ならば私は何も言えませんが。
エルネスティーネ少将は肘を机について、手を組んでこちらをじっと見ます。
きっと熟考しているのでしょう。
私が言ったアリア殿下の人となりと、共通するシスターなる恩師の存在。
そんな、少しの沈黙の時間が訪れて。
「―――賭けてみましょう。あなたたちの直感とそのアリア姫に」
一息吐いて、エルネスティーネ少将はそう決断しました。
私は、それを聞いてから隣に立つコトネを見ます。
「コトネ? ほんとにいいんですか? あなただって、こちらで色々な人と出会ってきたでしょう?」
それに。
「私は、あなたの本当の『兄』ではないのですよ?」
「わかってる。わたしのおにいの、へいこうせかいのどういつじんぶつがあやしいそしきにとびこむのを、みてみぬふりはできないからわたしもつづく。それに、わたしはおにいのじかんをうばいすぎてる。それをかえしたい」
「私の時間?」
「おにいは、わたしのためにいろいろあきらめてる。いつかいってたゆめとかえらべただろうしょうらいとか。それを、すこしでもかえしたい」
それは、黒い球体が出現する前までの日々のことでした。
妹の為に、料理や演奏やら色々と学んでやってみせて。
妹にいろいろと尽くして、長い時間を共に過ごした。
その為に諦めた事、断ったことはそれなりにありますが。
私個人としては、その事に関しては何も後悔はありません。
「それは、私個人にするものではないでしょう」
「たしかにそう。―――だけど、わたしがしなければならなかった、かぞくへのこうこう。おんがえしを、したい」
「そういうことは、あなたの隣人にするべきですよ。それがあなたの死んだ『兄』への恩返しとなります。―――それに」
そう言って、私は彼女の頭に右手を置きます。
「あの頃は私が望んであなたと一緒にいる事を選んでいたのです。その事にあなたが気を病む必要はどこにもありませんよ」
「…………」
「ひとまず、亡命計画に乗る前に少し考えてください。これはあなたの人生の、これからを決める大事なことです。即決は駄目ですよ?」
「…………」
「わかりましたか?」
「…………わかった」
不満そうではありましたが、コトネはそう頷きます。
それでよろしい。
そう判断して、私はエルネスティーネ少将へと向き直します。
「そちらの計画に反することをしましたけど……」
「……構わないわ。あなたの言うことは正論だし、その子の人生だから」
強要までは出来ない、とエルネスティーネ少将は言います。
今日はこのぐらいにしましょう、とも。
その言葉を聞いてから私たちは執務室から退出するべく振り返りました。




