過去 並行③
「――走れぇ!」
そうわたしは叫んだ。
目の前の穀潰しが持つ包丁がわたしの左脇腹に刺さっている。
そして、それを持つ右腕をわたしが掴んでいる。
これで―――少なくとも、コトネが逃げる時間は稼げるだろう。
ばたばたと走り去る音が、次第に小さくなって聞こえなくなる。
―――これでいい。
そう思ったのも束の間というもので。
「離せこのガキ!」
男―――父親だった男が、わたしを振りほどこうと殴ったり腕そのものを振ったりする。
こめかみ辺りに拳が当たって、意識が少しだけ遠くなるが。
「――は、なすもんですか……!」
両手に力をこめて、踏ん張りなおす。
今、手を離せば。次は誰が刺される?
そんなの、決まりきっている。
それを思えば、なおさら手を離してはいけないだろう。
「この! この! 離しやがれ! アイツも殺さなきゃならねぇんだよ!」
「―――さ、せるかぁぁぁぁあああ!」
怒声に怒声を返す。
口の中で鉄の味がする。
殴られ続けたからか、口の中でも切ったのかもしれない。
殴られたところが痛い。
おかげで気を失いそうにないのでいいかもしれない。
左の脇腹が熱くて、痛い。
―――でも、想像していたものよりも痛くないのは意外だった。
男は痺れを切らしたのか、左手で私の首を掴む。
「――――!」
力が込められて、首が絞められていく。
「そんなに死にたいなら、お前からだ……!」
男は愉しそうに口元を歪ませて言う。
そう簡単に、と言い返したくても首を絞められては声どころか呼吸すら出来ない。
脳へ運ばれる酸素の量が減ってきたのさ、相手の輪郭がぼやけてきた。
もしかしたらそう長くないのかもしれない。
「そうだ! 苦しめ! 生まれてきたこと自体が間違いだったと後悔しろ!」
―――本当に愉しそうに言う。
―――暴力しか見せなかったお前の言葉なぞ聞きたくないし、言われる筋合いもない。
「あの娘もそうだ! この世に生まれなければ―――」
――― い ま な ん て い っ た こ の く そ や ろ う 。
――― は は と お な じ こ と を い っ た か こ の く そ や ろ う 。
「―――――――」
声ですらない、掠れた声が自分の口から出た。
自分ですら、言葉として認識出来ないような声だ。
「んー? 何かな? 人の言葉でもう一度言ってくれるかな?!」
おどけた口調で男は挑発してくる。
―――もう、この男の言葉は聞きたくない。
「―――――――」
だが、もう一度。
―――これは、わたしの賭けだ。
この状況を切り抜ける、起死回生の手がある。
スピード勝負な手だが、やりようはある。
その為にもう一度、言葉として認識出来ない声を出す。
案の定、男はわたしに顔を近づけてくる。
「悪いな! お前の日本語はよくわからん!」
―――ええ、あなたと言葉を交わせるなんて微塵も思ってませんよ。
でも、好都合だ。
掴んでいた右手を離して、掴むような構え方で素早くそこへと滑らせた。
人間の臓器の中で、間違いなく無防備に露出していて弱い器官―――。
―――男の、左目だ。
勢いよく出されたわたしの右手の親指が、男の左目へと突き刺さる。
―――存外。子供の手、その力でも刺さるものらしい。
「―――がぁぁぁぁぁぁあああああ?!」
突然の事態に、男は仰け反りわたしを振り落として左目を押さえる。
膝をついて、右手も床につけて倒れないように身体を支える。
「――がはっ! ごほっ! ごほっ……!」
やっと自由に呼吸できるようになったからか。
肺の空気を入れ換えるべく、咳をするように大きく喘ぐ。
しばらくすると、ぼやけた景色が少しだけ鮮明になった。
―――それでも、頭がぼんやりとしている。
何か武器になりそうなもの、と周りを見てアイロンが目に入る。
それを手にとって。
「このガキがぁぁぁぁぁぁあああああ!!」
男が腕を大きく振りかぶって殴りかかってきた。
躊躇う必要はなかった。
右手に持ったアイロンを横殴りに振る。
奇しくも、それは相手の視界の死角―――左頬に当たった。
男は見事なまでに殴り飛ばされ、もんどり打って倒れる。
床で男が呻くのを見ながら、これだけじゃ駄目そうだな、と思った。
―――このクソ野郎の家庭内暴力が原因で離婚になったのに。
―――どうしてここがわかったのだろう?
―――このクソ野郎がわたし達を追いかけてこないよう、母が裁判で追跡出来ないようにしてたのに。
「いてぇ……! ガキの分際でよくも……!」
男のうめき声がまた耳に入る。
聞きたくない、煩わしい声だ。
―――この様子だと、生きていたらずっと追いかけてきそうだ。
―――そして、何も関係ないコトネに危害を加えようとするのだろう。
―――ここで、終わりにするべきだ―――。
「―――うる、さいんだ、よ……!」
出せる限りの力でアイロンを投げつける。
投げられたアイロンは放物線を描いて飛んでいき、男のかざした右腕に当たる。
「い、っでぇぇぇぇえ!!」
右腕を押さえてうずくまる男に左足の蹴りを顔面に食らわせる。
顔面に蹴りを受けた男はそのまま仰向けに倒れる。
男が起き上がる前に上半身、胸へ乗っかる。
そこまでして、手に何も持ってないことに気づく。
―――ちょうどいい得物は―――。
そう思って探した時、左の脇腹が熱くて痛くなりだした。
包丁が左の脇腹に刺さったままだ。
―――ちょうどいい。
柄を掴んで、包丁を脇腹から引き抜こうとする。
これが意外と抜けない。
―――確か、捻ってから――。
そう思って実行すると、包丁が滑りだした。
ずるりと包丁が抜けて、刺さっていたそこから血が溢れ出す。
これで、得物が手に入った。
「―――邪魔す―――」
「お前たちが、じゃまなんだよ」
冷めた目で、男を見下ろす。
やっと、お前の暴力から抜け出せたと安心してたのに。
普通の家族みたいに暮らしていけると思ったのに。
母には勝手に、何も悪くない妹と共々愛想を尽かされて。
会話のない、母に睨まれる家庭で暮らすことになるなんて。
どうしてこうなる。
私が何をした?
コトネが何をした?
―――少なくとも、妹はただそこにいただけだというのに!
「お前たちから生まれたというだけで、どうしてコトネがお前たちの暴力を受けなきゃいけないんですか……! 暴言を聞かなきゃいけないんですか……!」
心の叫びが、口から出る。
コトネがそんな理不尽に遇う理由なんて、ないはずだ。
それから遠ざけるために、私は―――。
「おま―――」
また、聞きたくない雑音。
「お前が邪魔なんですよ―――!」
そう怒鳴りながら、逆手に持った包丁を振り上げる。
そして、喉へと包丁を振り下ろした。
首をかき切られた男の死体から立ち上がり、廊下へと出る。
だいぶ、血を浴びたなと思いながら目を擦る。
酷く視界が暗い。目に血が入ったのだろうか。
体の何もかもが重くて、言うことを聞かない。
あの子に、追い付くからと言った以上、追いかけなくては。
その思い一つで、動かなくなる足を動かす。
視界が一瞬、暗くなる。
まだだ。
まだ、あの子の元に追い付いていない。
ぐらり、と視界が傾いて廊下の壁に寄りかかって、膝をついてしまう。
まだ、歩かないと。
足に力をいれて、立ち上がる。
『―――お前は手が掛からなくていい。コトネは手が掛かる。こんな子、産まなきゃよかった』
いつか言葉がフラッシュバックする。
そんな事はない。
あの子は、まだこれからなのだから。
私がついている。
何にでも成れる。
その為に、追いつかなくては。
一歩、前に足を出して。
また、力が抜けて前に倒れる。
―――おかしいですね。そんなに深い怪我じゃなかったと思ったのですが。
それに加えて、視界が異様に暗くなってきた。
眠い、とも言いますか。
それでも、まだ―――。
「おい! 大丈夫か!」
少し、イントネーションが違う日本語が聞こえた。
ばたばたと走る音が聞こえて、私を仰向けにさせる。
「しっかりしろ! Hey! ――――」
暗くなった視界に映ったのは、刈り上げた茶髪の男。
ヨーロッパの人だろうか。ほりの深い顔つきで丸眼鏡を掛けている。
「―――今救急車呼んだからな! ―――をしっかり持て!」
そう言いながら、見ず知らずの男は私の頬を叩く。
―――今にも寝たいのに、乱暴な人だ―――。
「―――おにい……!」
絞り出すような、かき消えそうな小さな声が、私を現実へと戻す。
妹の、コトネの声だ。
すぐに、視界の上から小さくて端整で、今にも泣きそうな少女の顔が生えてきた。
―――逃がしたのに。
―――追いかけると言ったのに、戻ってくるなんて。
―――私は、ダメなお姉さんですねー……。
なんとか、彼女を安心させないと。
「―――だ」
「―――?」
「―――だい、じょうぶ――ですよ―――」
頑張って、笑顔を作る。
「―――ちょっと―――ねれば……。すぐ、よくなります、から……。―――ね?」
そう言って、彼女の頬へと手を伸ばて、優しく撫でる。
彼女の柔らかい頬が、血で赤く塗られる。
―――しまった。手が血で汚れたままじゃないですか。
―――ちょっと、悪いことしましたね。
「―――まって!」
コトネが、私の手を掴んで、大粒の涙をぽたぽたと流しながら叫ぶ。
―――心配性ですね……。泣くほどじゃないのに。
また、視界が暗くなっていく。
このまま、意識を手離しても―――。
「おにい! しっかりして! おいていかないで!」
それでも、コトネの声が鮮明に聞こえる。
―――だから、大丈夫ですからそろそろ寝かせて―――。
「そうだお嬢ちゃん! ――――呼び掛け続けなさい! 救急車は――――応急だが―――縫って止血をす―――」
また、意識が遠退いて、
「おにい! わたしをひとりにしないで!」
コトネの必死な声が私の意識を呼び戻す。
―――それは大丈夫。
「―――あなたを、ひとりにはしません、よ―――」
―――だってあなたの唯一無二のお姉さんですからね―――。
そう言えたか、言えなかったかはわからないけれど。
私はそう言って、そのまま意識を手離して。
暗いところへ――――。




