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並行異世界ストレイド  作者: 機刈二暮
[第八章]ドッペルゲンガー
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過去 並行②



 ―――わたしは、あの日の事をよく覚えている。


 ―――わたしの人生を、最初に滅茶苦茶にされた日の事を、忘れる事はない。


 ―――そう。忘れる事なんてできない。






 その日は珍しく、わたしたちと同じマンションの一室で暮らす同居人の女性が早く帰ってきた日だった。


 女の子のような容姿の兄は、まだ学校から帰ってきていないぐらいの時間。


 その女性はわたしを一瞥してから、冷蔵庫を漁りだして。


 そして、見知らぬ鬼のような形相の男がやってきて、その人と口論になった。


 当時のわたしには、何を言い合っていたかなんて、よく覚えていない。


 せいぜい、「どうして!」だとか「お前らのせいで!」という怒声や罵声ぐらいしかわからなくて。


 そして、男がその人を殴り飛ばして。


 女性に跨がって。



 ―――そして、懐から包丁を出してその人の胸に刺したのを、わたしは見た。



 何度も何度も。


 刺しては抜いて。


 また刺してを繰り返して。



 女性は抵抗していたけれど、それも次第に弱くなって。


 最後は、振り上げた腕は落ちて、そのまま動かなくなった。



 男は包丁を女性から引き抜いて、わたしを睨む。


 その表情は、わたしにはよくわからなくて。


 ただ、怒られるとかそんな優しいものではなく、ただ恐いのだけはわかった。


 逃げたくても、足がすくんで動かない。


「そうだ、お前らのせいで……!」


 静かで確かな憎悪を男は向けてくる。


 わたしが何をしたというのだろうか。


 この男が何者かなんて知らないというのに。


 男が包丁をこちらへ向けて、立ち上がる。


 足を踏み出して、一歩わたしに近づいた時だった。


 ドアが勢いよく開いて、一人の少年が姿を見せた。


 女の子とそう変わらないような可愛い顔立ち黒髪の少年―――わたしの兄だ。


 そして、短い助走をつけて飛び上がり、


「―――わたしの妹に手を出すな!」


 そう叫んで、両足を揃えた蹴りを繰り出した。



 ―――今思えば、あの人が大声を出したのは初めてだったかもしれない。



 その体躯は細いが、全体重が乗ったドロップキックだ。


 そんな攻撃を不意打ちで食らえば、大の大人でも仰け反るだろう。


 実際、左の脇腹にドロップキックを受けた男は弾き飛ばされる。


 兄は、そのまま血溜まりへと落ちて服を赤く染めながらもすぐに起き上がって、背負っていたランドセルを手に持つ。


「コトネ! 玄関まで逃げなさい!」


 わたしに駆け寄って、無理矢理立たせて左腕一本で突き放す。


 滅多に手荒な事をしない兄が、そんな事をわたしにしたのも初めてだろう。


 でも、その言葉がわたしを動かす。


 家事の全てを引き受けている優しい兄の言うことは、聞かないと。


 廊下へ出るには兄が飛び出してきたドアとリビングの隣の畳部屋のふすまの二つがある。


 ドアの方は男が立ちふさがってるから、隣の畳部屋のふすまから出たほうが安全だろう。


 震えて重たい足を引きずるようにして、そちらへ向かう。


「このクソガキ! 邪魔すんじゃねぇ!」


 その怒声に振り返ると、再び立ち上がった男が包丁を手に兄へと突っ込んできた。


 右手を振り上げ、兄へと手にした包丁を振り下ろす。


「邪魔しますよこのクソ野郎!」


 兄はそう答えて、両手で持ったランドセルを横に振ってその軌道を反らす。


「てめぇらのせいで俺の人生が台無しなんだ! てめぇらを殺せば俺は俺の人生を取り戻せるんだよぉ!」


「アンタたちが蒔いた種でしょうが! 責任転嫁するなこの木偶の坊!」


 お互いに知っているのだろうか、怒鳴りあう二人。


「うるせぇ!」


 男はそう叫んで、蹴りを繰り出す。


 兄はランドセルを盾にするが、踏ん張れなかったのだろう。


 簡単に蹴飛ばされ、わたしの隣の壁に叩きつけられる。


 叩きつけられた兄はなんとかよろけなが立ち上がるものの、男に首を捕まれる。


 それほどの力では絞めていないのだろう。

 兄はそこまで苦しそうではない。


 しかし男は兄を片手で持ち上げ、壁に叩きつける。


「いつ見ても聞いても腹が立つなお前の顔と声は。アイツに似た顔をしやがって……」


 兄の顔を見て男は恨めしそうに呟く。


 そう、兄の顔はあの誰とも知らない同居人の顔とよく似てる。

 わたしとも似てるけれど、確かに女顔だ。


「……ア、アンタの顔に、似なくてよか、ったですよ……」


 叩きつけられて痛いのか、苦悶の表情で答える兄。


 その言葉が癪に触ったのか、男はもう一度兄を壁に叩きつける。


 その光景に思わず、怖じけて足の力が抜けて尻もちをつく。


 その物音でわたしの存在を思い出したらしい。

 男がわたしを睨む。


「コイツもアイツ似だとはな……。先に……」


 その言葉で、兄はその端正な顔を歪ませる。


 両手で自分の首を掴む男の左腕を掴み返し、蹴りを繰り出す。


 しかし宙吊り状態での蹴りだ。


 大して痛くないないのか男は気にもしない。


「コトネ! いいから外へ逃げなさい! お姉さんは大丈夫だから!」


 また、兄がわたしにそう言う。


お姉さん(・・・・)だぁ? 相変わらず男らしくないなぁ……!」


 男の注意が、兄へと向けられた。


「お前みたいな無能で役立たずより百倍マシだこの穀潰し!」


「減らず口を……!」


 さらに男の顔が険しくなった。


 右手の包丁が怪しく光を反射する。


「まずはてめぇらからだ!」


 そう男が言って、包丁が突き出された。


 それは兄の左脇腹へと突き立てられて、切っ先が背中へと抜ける。


「――――!」


 その痛みはわたしには想像出来ない。


 ただ、兄が苦悶の表情を浮かべて、両手を離すほどなのだから相当なものだろう。




 ―――でも、兄は男を睨んだ。



 震える両手で、男の右手を掴む。


「…………あ?」


 どこか間抜けな声を出して、男はそれを見る。


「好、都合―――だ」


 かすれた声で兄は言う。


「―――コトネ! 今の内に玄関から外へ逃げなさい! 早く!」


 力の限り、と思えるぐらいに叫んでわたしにそう指示する。


 その行動に、男は何かに気づいたような表情を浮かべた。


「お前、まさか―――」


「コトネ! あなたが逃げれる時間を、私が稼ぎますから! はや―――っ!」


 早く、とまでは言えなかった。


 男が兄を振り解こうと、首を掴んでいた左腕を離し、その空いた腕で兄を殴ったからだ。


 二発目、三発目と繰り出される。


 それでも、兄は手を離さない。


 刺さった包丁が、自分から引き抜かれたらどうなるか。


 男が自由になった途端、次は何をするのか。


 そんなの、言わなくても予想は出来るだろう。


 ―――それが怖くて。自分にも向けられているからこそ、動けなくて。


 だからこそ、それを防ぐ為に兄は男の腕を掴んだのだ。


「その腕を離せクソガキがぁぁぁぁあああ!」


 男は兄を殴ったり前後左右に揺すったりもするが、それでも兄は手を離さなかった。


「――――コトネ! 走れ!」


 兄の必死な叫び声。


 走って、どこへ?


 この場所以外、なにも知らないというのに。


「私は、後から追いかけ、ますから!」


 男に殴られながらも、兄は言う。


「必ず追いつきますから! だから――――!」


 ―――兄が後から追いかけてくる。


 それだけの言葉だけど。


 わたしが動くのに。


 わたしが走るのに。


 その言葉は、充分すぎた。


「―――走れぇ!」


 続いて叫んだ言葉が最後に、わたしに発破をかけた。


 振り返って、廊下に出て。


 靴を履かずに開きっぱなしの玄関を出た。


 たしか、左に行けばエレベーターだ。


 全力で通路を走る。


 走って、それからは?


 どうすればいい?


 兄は、後から追いかけると言った。


 なら、適当なところで待つべき?


 それさえ、わからない。


 エレベーターホールへ続く角を曲がろうとして。


「―――!」


「―――オっと」


 誰かとぶつかった。


 ぶつかった拍子に弾かれて、尻もちをつく。


 見上げるとそこには、茶色の髪を刈り上げた肩幅のある男が立っていた。

 五十は超えていそうだ。

 外国人だろうか、彫りの深い顔立ちでフレームレスの丸い眼鏡を掛けている。


 服装は、キリスト教の聖職者なのだろう。神父が着るもの、と言えば真っ先に思い浮かべるような司祭服を着ていた。


 先程の鬼のような形相の男とは違った、どこか優しげな雰囲気を持った男がいた。


「大丈夫ですか? 角を、曲がる時は気をつけないといけません……よ……?」


 耳触りのいい声で、どこかイントネーションがずれた日本語でそう注意しながら眼鏡の男は優しい口調で手を差し出してきた。


 ただ、その表情は何か鋭さがある。


 それもそうだ。


 子供が一人、素足で必死な表情で走ってきて違和感を感じないほうがおかしい。


「何か、ありましたか?」


 男の質問。


 何が、あったのか。


 そう、兄が身を挺してわたしを逃がしてくれた。


 そして、その兄は―――。


 視界が霞む。


 今になって、恐くて目から涙が溢れてくる。


「―――お」


「お?」


「―――おにいを、たすけて……」


 絞り出すように、掠れた声で男に言う。


 言わなきゃ、誰も助けてくれない気がした。


 この人は、助けてくれそうだと、何故か思った。


「おにいが……刺された―――」


 わたしが走ってきた方向を震える手で指差す。


「なっ?!」


 その様子に、男は驚く。


 もしかしたら、想像以上の事態だったのだろうか。


「何号室だ?」


「ご、507―――」


 辛うじてそこまで答えると、男は表情を引き締めて駆け出した。


 待って、なんてとても言えるような隙はない。


 わたしもなんとか立ち上がって男のあとを、来た道を戻るべく走る。


 わたしが家までの通路のうち半分も走りきりらない内に、司祭服の男はわたしの家の前に立った。


「おい! 大丈夫か!」


 呼び掛けると共に部屋に入っていった。


 追いかけるようにドアの前に立って。


「―――!」


 全身を血で真っ赤に染めた兄が、そこで倒れていた。




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