そしてあの日見た男の名前を私達はまだ知らない。
京都の民家に二人の人間がいた。
一人はその民家の婦人で,高倉剣を携えていた。
もう一人は保険営業のサラリーマンで,剣刀血害を携えていた。
サラリーマンは焦っていた。
営業成績が振るわず,上司に契約が取れるまで帰ってくるなと脅されていた。
時は夕刻。
この後に新たに顧客を訪問することはできない。
玄関先でとはいえ,ここまで2時間ほど話を聞いてくれたこの婦人。
この婦人から契約をもらうこと。
サラリーマンの頭はそのことでいっぱいだった。
婦人は困惑していた。
そろそろ日が暮れる。
誰より愛すべき主人が帰ってくる。
主人が楽しみにしている夕飯もつくらなければならないのに,今日はセールスマンのお陰で買い物に出ることすら満足にできていなかった。
「契約可能性」というない希望にすがり,話を続けるこのサラリーマン。
このサラリーマンに帰ってもらうこと。
婦人の頭はそのことでいっぱいだった。
もはやこれ以上,このサラリーマンのために時間を費やすことはできない。
「考えておきやす」と京都定番の断り文句を挟んでも一向に帰らないこのサラリーマンに,婦人ははっきりとお断りの言葉を告げることにした。
しかし婦人は高倉剣携えていた。
刀の魔に取り込まれ,婦人は不器用だった。
歯に衣着せぬ東京であったのなら,あるいは高倉剣を帯刀していなければ,「帰れこのやろう!」と一言告げれば済む話だろう。
だがそれは京都の,高倉剣の所有者である婦人には難しい話であった。
そこで婦人はあくまで京のなでしことして,不器用に,とはいえはっきりと,サラリーマンに別れの言葉を告げた。
――選択の余地のない,最後の別れの言葉を告げた。
「サラリーマンはん,ぶぶ漬けなどいかかどす?」
京都のぶぶ漬け。
泣く子も黙る京のお茶漬け。
営業のサラリーマンでなくとも,大抵の人は恐れをなし,その言葉の前に屈するものである。
「今日のところはこれで失礼します」,と。
婦人がこれから夕飯作りにとりかかれるであろうことは確定的だった。
しかし不幸があった。
サラリーマンは剣刀血害を携えていた。
サラリーマンは契約を取ることで頭がいっぱいであった。
サラリーマンは婦人が勧めるぶぶ漬けを「ぶぶ漬けを食べる間ほどの契約を考える時間がほしい」の意味であると理解した。
サラリーマンは剣刀血害の魔に取り込まれ,言葉を口にした。
「おおきに。ほな,いただきます」
婦人は驚愕した。
京都で薦められるぶぶ漬けを受けること。
それは紛れも無く,「自らの死を受け入れること」を意味していた。
「京都のぶぶ漬け」という誰もが知っている料理がありながら,なぜ誰もそれを口にしたことがないのか。
それはぶぶ漬けの本当の意味を理解すれば一目瞭然である。
婦人が薦めているのは「お茶漬け」ではない。
婦人が本当に薦めているのは「ここから立ち去り,明日を手にすること」である。
婦人は決心した。
婦人は夕飯を作らねばならぬ。
もう商店街は閉まりはじめている時間だ。
もう買い物に出かけることはできない。
しかし食材なら手に入った。
勧められた明日を断った愚かな精肉が,眼前にあるからだ。
「そいなら用意しますけ,少々お待ちくだはい」
婦人は台所に向かった。
それはまるでぶぶ漬けを作りに行くかのように,自然と足を進めた。
ふう,と最後の澱みをはきだすと,音もなくゆっくりと高倉剣を,不器用という鞘から抜き去った。
剣身を露わにし鈍く輝く高倉剣を見つめる婦人の目には,一点の迷いもなかった。
足音も立てずすべるように玄関先に戻ると,婦人は器用に高倉剣を駆使した。
剣刀血害により明日を失ったサラリーマンを解体した。
背後からの一刀両断であった。
「だだいま」
主人が帰宅したのは,それから幾ばくかした後のことだった。
もちろん玄関先にサラリーマンの姿はない。
「今日の夕飯は新鮮なお肉のすき焼きよ」
婦人は愛する主人の帰宅に安堵の笑みを浮かべる。
「お,今日はいっぱいお肉を用意したんだな」
「ええ,大好きな貴方のためですもの」
和やかに夕飯時を迎える夫婦。
いつもよりはっきりと愛をささやいてくれる婦人に,主人は気持ちまで満腹になった。
この日を堺に,婦人は不器用ではなくなり,しっかりと言いたいことを伝えられるようになったという。
何事も変わらず夫婦の幸せな日常はその後も続いていった。
婦人の傍らには,あの日と変わらず高倉剣が携えられていた。
あの日と違うのは,剣刀血害の所持者が行方不明になったということである。
そして高倉剣が不器用という鞘に収められることは二度となかった,ということだけである。
あの日見た肉の名前を主人はまだ知らない。