真夏の果実
綾子が私の住む町に引っ越してきたのは夏休みの初めだった。
私の家の隣のアパートに母親と二きりで彼女はやってきた。
そして、その日の夕暮れ綾子は母親に連れられ私の家に来た。
後にも先にも私が綾子の母親を見たのはその時の一度きりだった。
私の母親と比べられない位に若く、美しく見えた。
ただ香水の匂いはきつく、真っ赤なスーツに、大胆な化粧。私はそれを恐いと感じた。
しかし、そんな母親の後ろから、心細そうにそうに顔を出した綾子を初めて見た時、私はかすかに息をのんだ。
綾子はとても可愛い子供だった。
小さな顔に浮かぶ長いまつげと大きな瞳。肩まで伸びたふわふわな髪。色は白く、とても小柄だった。
そして容姿だけでない何か別の物も彼女は持っていた。
綾子の何かが私達とは違う。色も匂いも形も違う。
それをなんとなく私は気付いていた。だから、私は驚きと同時に、少し体がこわばったのを感じた。どろどろととけていきそうだと、そう思った。
夏休みの多くを、母親があまり家には居ない綾子は私の家で過ごした。彼女はいつも声を上げて笑った。彼女の周りはいつも少し明るくなるような気がした。私の両親は最初綾子を少しだけ遠巻きに扱っていた。しかし、彼女の明るさで彼らは綾子を好きになっていった。私はどれだけ長く綾子と時を過ごしても、初めてであったときに感じた違和感をぬぐい去ることは出来なかった。
「えっちゃん」
私の名前を綾子は呼んだ。私は扇風機を一人独占して、向かい合って風に当たっていた。いつのまにか両親が私を呼ぶ名と同じ言葉で彼女は私を呼ぶようになっていた。綾子の方を見ないで、いつも通り無愛想に答えた。
「何?」
綾子は両手で何かを大切そうに包んだまま、私の方へ歩いてきた。
「見て」
彼女はそう言うと、そっと私のそばに座り込み手の中を開いた。
私は綾子の小さな手に輝く琥珀色の固まりを眺めた。
何も言わない私に満面の笑みを浮かべた綾子は言った。
「蝉・・・の抜け殻」
風鈴の音が聞こえた。私は彼女の手から視線を移し、そっと窓を見た。
夕立の前の光のかげりを感じた。
そして綾子の声が、少し寂しそうな声が、微かにその空気の中に漏れた。
「するすると、人も体が変わればいい。新しくなればいい。」
彼女が言葉を言い終わるとすぐに、空から激しく雨は降り落ち始めた。
そしてとうとうあの日が訪れた。
短い盆が終わり、夏が身を焼き尽くしながら欠けていく、そんな重い日差しの照る日だった。私と綾子はいつも通り暑い夏の日差しを避け、一日中部屋の中で過ごした。乾いた畳に横になりぼんやりと天井のマス目を数えたり、広告の裏に好きな漫画の絵を描いたり、自由に私達は夏の時間を消費していった。そんな時間の過ごし方は私達にとって当たり前のことだった。そして、その時間に終わりを告げるのは決まって綾子の役目だった。夕食の買い物から母親が帰ってきたとき、決まって綾子は立ち上がり、「帰る、ね」と微笑むのだった。今から考えると綾子は母親が夕食を作るという感覚になじめなかったのではないかと思う。もしくはそんな団らんの中に自分が居ることがひどく寂しいことのように思えていたのではなかったのかと思う。しかし、今からいくら考えても、綾子は必ずめいいっぱいの笑顔を私に向けていた。そして、私はそのことに何も感じていなかった。その事実が揺らぐことはない。あの日も綾子はいつもと同じように立ち上がり私に笑顔で別れを言った。私も決まって別れの挨拶を丁寧に言った。母親は台所に居た。綾子は立ち止まり、少し迷ってから言った。「おばさんに今日もありがとうございましたって言っておいて」
私は慎重にその言葉に頷いた。
そして彼女は去っていった。夕方といっても間違いない時間だったが、その日の太陽はまだ沈みそうになかった。しばらくしてなかなか台所から出てこない母親の元へ私が律儀にも足を向けようと思ったとき、母親が大きな西瓜を持って私のところへ来た。そして、綾子の家に一つ届けて欲しいと言ったのだった。私はひどく憂鬱な気持ちと、好奇心で胸がいっぱいになった。綾子の家に私は行ったことがなかった。あの母親の強烈な黒いシミのような印象はまだ私にはくっきりと残っていて、綾子の裏にある見てはいけないもののように思えた。そして綾子の家にはそんな見てはいけない何かがまだ存在しているかのように思えた。しかし、私はそれを見てはいけないと思う反面、心の奥底では欲していた。綾子は憎んでいることはもちろん無かった。けれど、綾子のどろりとしたところをわざと目をつむり、表面上の彼女を愛せるほど、私は綾子を理解してはいなかった。だから、私はその日、照りつける太陽をまぶしそうに、憂鬱そうににらみつける反面、胸の中で高まる鼓動を止めることは出来なかった。西瓜を両手でしかっりと抱え私は彼女の住む古く、汚らしいアパートに足を運んだ。二階の綾子の家の部屋の前に立ったとき私は玄関先に取り付けてある呼び出しブザーを押すことをためらった。あの母親がでてきたらどうしようと、無邪気にも思ったのであった。私は綾子だけが居るかどうかをまず確認しようと思った。何の悪気もなく私は目の前の重い扉を少し開けた。そして私は夏の退屈な空気に漏れてくる、鮮烈な狂った何かを感じた。中から漏れてきた物、それは今まで一度だって聞いたことのない女の卑猥な声だった。その声は綾子の母親の物だった。彼女が誰と抱き合っていたのか、そんな事は何も分からなかった。ただ聞いてはいけない物だと、直感で私は気付いた。とにかく扉を閉めようと私がやっと考えたとき、私はもう一つ見てはいけない物を見てしまった。それは綾子の大きく開かれた美しい黒い瞳だった。私達はその時しかっりと目を合わせてしまったのだった。綾子は玄関先の台所でじっとその行為の間中、部屋を飛び出すことも、母親に泣き叫ぶこともなくただ待っていたようだった。綾子にとってこの出来事は日常的な物であって、綾子の心を大きく動かす物ではないのだと私は思った。それから、綾子は私から目をそらさずに、扉に、私の方に近づいてきた。
私達はどちらとも何も話さないまま、ただ横になって道を歩いた。
私は綾子が何を考えているのか分からなかった。
そして、何を言えばいいのかも分からなかった。
どれだけの道を歩いたのか、今では思い出せない。
ただ私は思考回路が止まったようにゆっくりと道を歩ゆんだ。いつの間にか私より綾子はずっと前を歩いていたようだった。人のいない山沿いの坂を下っていくとき、私は不意に西瓜を落とした。西瓜は奇跡的に割れることなく綾子の方へ転がっていった。彼女はとっさに足で西瓜を止めた。私は西瓜を落としたと同時に腰が抜けたかのようにその場に座り込んだ。彼女の足の下には青々と輝く西瓜があった。確実に西瓜がその場に止まったことを彼女は確認すると、彼女はいつもとは違う瞳を浮かべぼんやりと西瓜を見ていた。
そして綾子は、一瞬ためらった後、右足のピカピカと輝く白いエナメルのサンダルを脱いだ。
小さな足で、私の西瓜を踏んだ。
私の西瓜は、真ん中から割れた。
赤い果汁が見えた時、私は咄嗟に目を逸らし、綾子の方を仰ぎ見た。綾子は私を見ていた。とても真っ直ぐに、得意げに。私は今まで見たどんな綾子とも違うその表情に言葉を失った。そんな私を見ながら綾子は何度も何度も西瓜を踏みつけた。深い緑をした厚い皮のすき間からそれは崩れていった。ぺたんとアスファルトの上に座り込んでいたというのに暑くはなかった。いつのまにか、私の中の気持ちに冷たい感覚へが加えられていった。それでも、私の額からは汗がしたたり落ちた。
蝉の音が聞こえて、夏の暑さを感じたとき、私はやっと解放された。
私が我に返って綾子を見つめたとき、彼女は、両手で顔を覆い声を上げて泣いていた。
綾子はあれから私の家には来ることはなかった。母親に無理矢理連れられて綾子の家に訪れたとき、部屋の鍵は固く閉ざされていた。そして、夏休みの終わりにはもう綾子も母親もその部屋から出て行った後だった。
鮮明な赤は、私達の身体の奥に潜む生命の、性の象徴だったのかも知れないと、今なら思う。ただあの時、私はそんなことにも気付かず彼女の行動をただ黙ってみていた。恥ずかしさも、好奇心も、そこにはなかった。ただ彼女の白い可愛い足と崩れていく赤い果肉は美しかった。
夏のあの感覚は私を、子供から女へと変化させた。
今私はそう思っている。
夏の果物ってひどくグロテスクだと思う。鮮明で強烈。夏の強い日差しと汗ばんでいく体。それは、壊れていく果実のイメージに非常に強く結びつけられると思った。だから、このテーマ(と言うのか分からないけど)にそったものを書こうと思った。そして主人公は女の子にした。熟した大人の女性よりも、これから大人になっていく女の子の方が適していると思ってあえてそうした。
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